資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 永隆 元年 620年
嵩山周辺への行幸と異端崇信
- 春二月、高宗は汝州の温湯へ赴き、ついで嵩山の処士田遊巖の住まいを訪れた。
- さらに道士潘師正のもとにも行幸し、高宗・天后・太子の三者がそろって拝礼した。史書はこれを、帝が異端を崇信した例として記している。
- 乙丑、東都へ戻った。
裴行儉の黒山大勝
- 三月、裴行儉は黒山で突厥を大破し、酋長奉職を捕えた。可汗泥熟匐は部下に殺され、その首が降ってきた。
- 行儉は朔川へ進んだ際、兵法は士卒には誠を、敵には詐を用いるべきだと語り、蕭嗣業敗北の教訓から糧車を囮にした伏兵策を用いた。
- 三百台の糧車それぞれに壮士五人を伏せ、羸兵を援護役に見せたところ、突厥は案の定これを襲い、糧を奪おうとして返り討ちにあった。
- さらに単于府到着時にも、暮れに急いで高地へ移営させた。諸将は反対したが、その夜の豪雨で旧営地は深水に沈み、行儉の見識に皆が服した。
- 奉職を捕えた後、残党は狼山へ逃れた。朝廷は崔知悌を派遣して慰撫と残党処置に当たらせ、行儉は軍を返した。
宰相の補充
- 夏四月、高宗は紫桂宮へ赴いた。
- 裴炎・崔知温・王徳真を同中書門下三品とした。崔知温は崔知悌の弟である。
河源方面と吐蕃の拡張
- 秋七月、吐蕃が河源を侵したが、黒歯常之がこれを撃退し、河源軍経略大使に抜擢された。
- 常之は河源が要衝であるとして七十余か所に烽戍を設け、五千余頃の屯田を開いて年収五百万石余を得るようにし、防戦体制を整えた。
- 一方、先に剣南から募兵して茂州西南に安戎城を築き、吐蕃と西南蛮を隔てていたが、吐蕃は生羌を案内役にしてこれを奪取した。
- その結果、西洱の諸蛮はみな吐蕃に降った。
- 吐蕃は羊同・党項・諸羌の地を併せ、東は凉・松・茂・嶲州に接し、南は天竺に隣し、西は龜茲・疏勒など四鎮を制し、北は突厥に至る大勢力となった。諸胡の中でその盛勢に並ぶものはなかった。
皇族の死と突厥残党
- 丙申、鄭州刺史の江王元祥が死去した。
- 突厥残党が雲州を囲んだが、竇懐悊・程務挺がこれを破った。
李敬玄の失脚
- 八月丁未、高宗は東都へ戻った。
- 李敬玄は敗戦後、病を理由に帰還を求めて許されていたが、帰京すると病はなく中書で政務を執ったため、高宗は怒った。
- 丁巳、李敬玄は衡州刺史へ左遷された。
皇太子賢の失脚
- 皇太子賢は、宮中で自分は天后の姉である韓国夫人の子だという噂を聞き、内心深く不安を抱いていた。
- 明崇儼は厭勝の術で天后に信任され、たびたび太子は皇位に堪えない、英王は太宗に似ており、相王は最も貴い相だと語っていた。
- 天后はまた『少陽正範』や『孝子伝』を編ませて太子に与え、しばしば書を送って叱責したため、太子はますます落ち着きを失った。
- 崇儼が殺されると、賊が捕まらなかったことから、天后は太子の関与を疑った。
- 太子はもともと声色を好み、戸奴の趙道生らを寵愛して金帛を多く与えていた。韋承慶が諫めたが聞き入れなかった。
- 天后は人を使ってその罪状を告発させ、薛元超・裴炎・高智周らに東宮馬坊で取り調べさせたところ、皂甲数百領が見つかり、反逆の備えとされた。
- 趙道生も、太子の命で崇儼を殺したと自白した。
- 高宗は太子を愛していたため赦そうとしたが、天后は大義滅親を唱えて許さなかった。
- 甲子、太子賢は庶人に廃され、京師へ送られて幽閉された。関係者はみな処刑され、甲冑は天津橋南で焼き捨てられて民衆に示された。
- 乙丑、英王哲を皇太子に立て、改元して天下を赦した。
- 太子洗馬劉訥言は、かつて賢に俳諧集を献じていたため、教育官として不適切だとして振州へ流された。
- 高政が太子典膳丞として事件に連座すると、その父高真行は自ら刀で子を刺し、兄の審行も加わって首を切り捨てた。高宗はこれを喜ばず、真行・審行兄弟を地方へ左遷した。
- 張大安も太子に阿附したとして普州刺史へ左遷された。その他の宮僚は許され、復職を命じられたが、李義琰だけは自らの罪を悔いて涙を流し、当時の人々はこれを高く評価した。
年末の処置
- 九月、王徳真は相王府長史となって政務から退いた。
- 冬十月、曹王明と嗣蔣王煒は故太子賢の党として処分され、前者は零陵郡王に降封され黔州へ、後者は除名され道州へ安置された。
- 丙午、文成公主が吐蕃で死去した。
- 己酉、高宗は西へ戻った。
- 十一月朔、日食があった。