資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 開耀 元年 621年
北辺防備と宴礼の是正
- 春正月、突厥が原州・慶州などを侵したため、李知十らを涇州・慶州へ置いて備えさせた。
- 庚辰、太子新立を祝って百官と命婦を宣政殿で宴し、九部伎と散楽を正門から入れようとしたが、袁利貞が、正寝や路門は婦人の宴や俳優の出入りにふさわしくないと上疏した。
- 高宗はこれを容れ、宴を麟徳殿に改め、利貞に褒美を与えた。
- 利貞の一族の袁誼は、名家とは忠貞と才行が代々続く家であって、婚姻や利禄ばかり求める家ではないと語り、時人はその見識を称えた。
裴行儉の再征と杞王・鄱陽王の赦免
- 裴行儉の帰還後、突厥の阿史那伏念が再び可汗を称し、阿史徳温傅と結んで侵掠した。
- 癸巳、裴行儉を定襄道大総管として再び出征させ、曹懐舜・李文暕を副将とした。
- 二月、天后は杞王上金と鄱陽王素節の罪の赦免を願い、上金を沔州刺史、素節を岳州刺史としたが、朝集への参加は許されなかった。
宰相整理と劉仁軌の諫言
- 三月、劉仁軌に太子少傅を兼ねさせ、郝処俊を太子少保として政務から退かせた。
- 少府監裴匪舒は利殖に長け、苑中の馬糞を売って年二千万緡を得る案を出したが、劉仁軌は後世に「唐家は馬糞を売った」と笑われると諫め、高宗は中止した。
- 匪舒が鏡殿を造ると、高宗と劉仁軌が見物した。仁軌は四壁に映る帝の姿を「数天子」と見て不祥だとし、ただちに鏡を剔らせた。
曹懐舜の敗北
- 曹懐舜と竇義昭は前軍を率いて突厥に向かったが、伏念と温傅が少数騎でいるという偽情報を信じ、老弱兵を瓠蘆泊に残して軽騎で急進した。
- 途中で薛延陁の部落が来降し、さらに長城北方で温傅と小競り合いをしたのち、横水で伏念本隊に遭遇した。
- 懐舜ら四軍は方陣を作って進んだが、伏念が風を利用して攻めると軍は大混乱し、大敗した。
- 懐舜らは散兵をまとめ、金帛を贈って伏念と講和し、牛を殺して盟を結んでようやく帰還した。
- 五月丙戌、曹懐舜は死罪を免じられて嶺南へ流された。
黒歯常之の再戦果
- 己丑、黒歯常之は良非川で吐蕃の論賛婆を破り、その糧食と家畜を奪って帰った。
- 常之は七年間前線にあり、吐蕃は深くこれを畏れて境を犯さなかった。
太平公主の出家名目と降嫁
- もとは太原王妃の死後、天后が追福のためとして太平公主を女官にしたいと願っていた。
- ところが吐蕃が和親を求め、太平公主を望んだため、高宗は太平観を建てて公主をその観主とし、出家名目で婚姻要求を退けた。
- この年になってようやく光禄卿薛曜の子薛紹に降嫁させた。薛紹の母は太宗の娘・城陽公主である。
- 婚礼では興安門から宣陽坊西まで炬火が続き、路傍の槐の多くが熱で枯れた。
- 薛紹の兄薛顗は、公主降嫁は過大な恩寵であり、かえって災いのもとになりうると心配した。族祖薛克構も、慎み深ければ害はないが、「公主を娶るのは官府を得るようなもの」との俗諺を引いて憂慮を示した。
- 天后はさらに、顗の妻蕭氏と弟緒の妻成氏が名門でないとして離縁させようとしたが、蕭氏が旧来の皇族姻戚であるとの進言で思いとどまった。
牧馬被害と薛延陁来降
- 夏州群牧使安元寿は、調露元年九月以降、馬十八万余匹を失い、監牧官や牧卒八百余人が突厥に殺掠されたと報告した。
- 薛延陁の達渾ら五州四万余帳が来降した。
政府人事と田遊巖批判
- 甲午、劉仁軌は左僕射の辞任を強く願い、許された。
- 閏七月、裴炎を侍中、崔知温・薛元超を守中書令とした。
- 高宗が徴した田遊巖は太子洗馬となっていたが、東宮で何の補益もしなかった。
- 右衛副率蔣儼は書を送り、世に名を鳴らした隠者として厚遇されながら、太子を教え導く責務を果たさず、ただ年を送るだけなのは恥ずべきだと厳しく責めた。
裴行儉、伏念を降す
- 庚申、高宗は服薬養生のため、太子に監国を命じた。
- 裴行儉は代州陘口に軍し、わざと反間を多く流して、伏念と温傅の間に猜疑を生じさせた。
- 伏念は妻子と輜重を金牙山に留め、自らは軽騎で曹懐舜を襲ったが、行儉は何迦密・程務挺らに別道から金牙山を急襲させ、その妻子と物資を奪った。
- 伏念は戻ってみてこれを失い、さらに疫病も流行したため北へ逃れた。
- 行儉は劉敬同らに追撃させ、伏念は温傅を捕えて功を立てようとしたが、なお逡巡して守りを解いていた。
- 唐軍が到着すると狼狽して軍を整えられず、ついに温傅を縛って行儉に降った。
- 裴行儉は、受降も受敵と同じであるとして厳戒態勢を崩さず、少し後に伏念が酋長らを率いて現れたのを受け入れた。
- こうして突厥残党は平定され、伏念・温傅は京師へ送られた。
伏念処刑
- 冬十月朔、日食があった。
- 壬戌、裴行儉らは定襄平定の捕虜を献じた。
- 乙丑、改元した。
- 丙寅、阿史那伏念・阿史徳温傅ら五十四人を都市で斬った。
- もともと行儉は伏念に不死を約して降伏させていたが、裴炎は、実際には副将張虔勗・程務挺や廻紇の圧力で窮して降ったにすぎないと奏し、誅殺へ持ち込んだ。
- 行儉は、これは古今の恥であり、以後は誰も降らなくなるだろうと嘆き、病と称して朝廷に出なくなった。胡三省も殺降の悪影響を重視している。
新羅王の死と故太子賢の移送
- 丁亥、新羅王法敏が死去し、その子政明を立てる使者が派遣された。
- 十一月癸卯、かつての太子賢は巴州へ移された。