資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 儀鳳 三年 618年
天后への朝賀
- 春正月、百官と蛮夷の酋長が光順門で天后に朝した。武后の権威上昇を示す出来事である。
李敬玄の起用
- 劉仁軌は洮河鎮守中、上奏が李敬玄にしばしば抑えられたため私怨を抱いた。
- そのため逆に、辺境鎮守には李敬玄ほどの人物が必要だと奏し、実際にその起用を促した。胡三省は、これは私怨からの推挙であり、仁軌の美徳に傷をつけるものだと評している。
- 丙子、李敬玄は洮河道大総管・安撫大使・検校鄯州都督となり、李孝逸らが剣南・山南兵を率いてこれに従った。
- 癸未には、曹懐舜らを河南・河北へ派遣し、身分を問わず勇士を募らせた。
改元予定と九成宮行幸
- 夏四月、赦を行い、翌年の元号を「通乾」とすることを決めた。
- 五月、高宗は九成宮へ赴いたが、山中の大雨で寒気が強く、従軍兵の凍死者も出た。
李敬玄の小勝と破陣楽の復活
- 秋七月、李敬玄は龍支で吐蕃を破ったと奏上した。
- 高宗は即位当初、殺伐を嫌って破陣楽の演奏を止めていたが、韋万石が長く演じなければ廃絶されると奏したため、以後大宴では再び奏することを許した。
新羅東征の中止
- 九月、高宗は京師に戻った。
- 新羅討伐を計画したが、病床から張文瓘が輿で参内し、今は西で吐蕃を討っている最中であり、東西両面の遠征は公私を疲弊させると諫めた。高宗はこれを容れて東征を中止した。
- その直後、張文瓘は死去した。
青海の大敗
- 丙寅、李敬玄は十八万の兵を率いて吐蕃の論欽陵と青海で戦い、大敗した。工部尚書・右衛大将軍の劉審礼は捕虜となった。
- 劉審礼の前軍が深入りして攻められたのに、李敬玄は臆病で援軍を出さず、審礼の敗報を聞くと狼狽して退却し、承風嶺で泥地に依拠して守った。
- この窮地で、黒歯常之が夜襲をかけて吐蕃軍を潰走させ、唐軍はようやく残兵を収めて鄯州へ退いた。
- 劉審礼の子らは父を贖うため自ら吐蕃へ入ることを願い出た。次子の易従が赴いたが、到着時には審礼はすでに病死していた。吐蕃は易従の哀哭に感じ入り、遺体を返還した。
- 高宗は黒歯常之の功を賞して左武衛将軍・河源軍副使に抜擢した。
婁師徳と吐蕃外交
- 李敬玄遠征の際、監察御史の婁師徳は募兵の詔に応じて従軍していた。敗戦後、散亡兵を集めて軍を立て直した功により、吐蕃への使者を命じられた。
- 赤嶺で論賛婆に会い、唐の意向と利害を説いたところ、賛婆はこれを喜び、その後数年は辺境を侵さなかった。
- 婁師徳は殿中侍御史・河源軍司馬となり、営田も兼ねた。
魏元忠の対吐蕃策
- 高宗は吐蕃対策を侍臣に諮ったが、和親、守備充実、即時出兵など意見が分かれて決まらなかった。
- そこで大学生の魏元忠が上封事し、文は辞華偏重、武は騎射偏重で、経綸や方略が軽視されていると批判した。
- 将軍任用も門地や戦死者の家柄ばかりを重んじ、智略本位で選んでいないと論じた。
- また賞罰の不明確さを指摘し、遼東や平壌平定の功に対して賞が滞り、大非川敗戦でも薛仁貴らを重く罰しなかったことが、後の弛緩を招いたとした。
- さらに、吐蕃平定には馬力が要るとして、民間の畜馬禁止を解き、平時に民に馬を持たせれば、有事には官が買い上げられ、胡の強みをこちらの利に転じられると提言した。
- 高宗はこれを善しとし、召し出して中書省に直宿させた。
年末の動き
- 冬十月、徐州刺史の密貞王元暁が死去した。
- 十一月、来恒が死去した。
- 十二月、「通乾」は語呂が良くないとして、翌年のこの元号使用を取りやめた。