資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 上元 元年 614年

新羅討伐と新王擁立

  • 春正月、劉仁軌を鶏林道大総管とし、李弼・李謹行を副将として、新羅討伐の兵を発した。唐は新羅国を鶏林州とみなしていた。
  • 新羅王法敏が高句麗残党を受け入れ、さらに百済旧地を占拠して守らせていたため、高宗は激怒し、その官爵を削った。
  • その弟で京師にいた臨海郡公金仁問を新羅王に立て、帰国させようとした。

武承嗣の召還

  • 三月朔、日食があった。
  • 賀蘭敏之失脚後、武后は武元爽の子武承嗣を嶺南から呼び戻し、周公の爵を継がせ、尚衣奉御に任じた。
  • 夏四月には宗正卿へ昇進させた。

八月・追号と称号変更

  • 秋八月、武氏の先祖に対し宣皇帝・光皇帝などの追号を贈った。
  • さらに高祖を神堯皇帝、太宗を文武聖皇帝とし、皇后には神皇后・聖皇后の尊号を加えた。
  • この月、皇帝は「天皇」、皇后は「天后」と称するよう改めた。表向きは先帝・先后と称号が重なるのを避けるためとしたが、実際には武后自身の権威を高める意図があった。
  • 同時に改元し、大赦を行った。
  • また服色制度を定め、三品以上は紫と金玉帯、以下官位に応じて緋・緑・青と帯の材質を区別し、庶人は黄銅・鉄帯のみを許した。

長孫氏の名誉回復

  • 九月、長孫晟と長孫无忌の官爵を追復し、无忌の曾孫の翼に趙公を継がせ、无忌の柩を昭陵へ陪葬することを許した。

翔鸞閣での大酺中止

  • 甲寅、高宗は翔鸞閣で大酺を観覧し、音楽を東西の組に分けて雍王賢と周王顕に競わせようとした。
  • これに対し郝処俊は、まだ若い二王に競争心を煽れば兄弟の和が損なわれ、俳優らの軽薄な言辞も礼を乱すと諫めた。
  • 高宗はその先見を認めてただちに中止した。
  • この日、李弼が宴席で急死したため、催しは一日取りやめとなった。

東都への再行幸と蔣王惲の冤死

  • 冬十一月、高宗は京師を発ち、華山の麓で狩猟したのち東都へ至った。
  • 箕州録事参軍の張君澈らが、蔣王惲とその子汝南郡王煒の謀反を誣告した。
  • 薛思貞が急行して調べたが、十二月、惲は恐怖のあまり自殺してしまった。
  • 高宗はその無罪を知って深く悼み、張君澈ら四人を斬った。

于闐・波斯の入朝と武后の十二条

  • 十二月、于闐王伏闍雄、ついで波斯王卑路斯が来朝した。
  • 壬寅、天后は上表し、唐の皇統が老子に出るとする立場から、王公以下に『老子』を学ばせ、毎年の明経試験も『孝経』『論語』に準じて課すよう求めた。
  • あわせて、父が生きていても母の喪には三年の斉衰を着ること、京官八品以上の俸禄増額など、計十二条を提言し、詔はこれをすべて実施した。

劉暁の上疏

  • この年、劉暁が選挙制度を論じて上疏し、役所の検勘や書判だけで人材を量っても、徳行や才能は分からないと批判した。
  • また礼部の科挙が文章偏重のため、士はみな徳行を捨てて文芸に走り、朝に及第して夕に罪を犯す者さえいると述べた。
  • もし朝廷が徳行を第一に、文章を第二とすれば、天下の士は一斉にその方向へ動くだろうと論じた。