資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 咸亨 四年 613年
皇族の死
国史の改修
- 三月、劉仁軌らに命じて国史を改修させた。これは許敬宗らが編んだ旧史に事実と異なる点が多いと判断されたためである。
九成宮行幸と高句麗残党の討伐
- 夏四月、高宗は九成宮へ赴いた。
- 閏五月、燕山道総管の李謹行が瓠蘆河西で高句麗の叛徒を大破し、多数を捕虜とした。残党はみな新羅へ逃げ込んだ。
- この時、李謹行の妻の劉氏は伐奴城を守っており、高句麗勢力が靺鞨を率いて攻めたが、自ら甲を着て守り抜き、ついに敵を退けた。高宗はその功を賞して燕国夫人に封じた。
- 李謹行は靺鞨の名門出身で、武勇に優れ、諸夷に恐れられていた。
水害
- 秋七月、婺州で大水があり、溺死者は五千人に上った。
皇太子への執政委任
- 八月、高宗は瘧を患い、延福殿で太子に諸司の奏事を受けさせた。
閻立本の死と西域諸国の帰順
- 冬十月、中書令の閻立本が死去した。
- 乙巳、高宗は京師へ戻った。
- 十二月、弓月と疏勒の二王が来降した。
- もともと西突厥が衰えて諸部が離散して以来、弓月と阿悉吉は叛いていた。蘇定方が西方を討った時には阿悉吉が捕らえられたが、弓月は南では吐蕃、北では咽面を引き入れて疏勒を攻め、服属させていた。
- 高宗は蕭嗣業に兵を率いて討たせようとしたが、弓月は先んじて恐れ、疏勒とともに入朝したため、その罪を赦して本国へ帰した。