資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 上元 二年 615年
于闐の編成と吐蕃の和請
- 春正月、于闐国を毗沙都督府とし、その領域を十州に分け、于闐王尉遲伏闍雄を都督とした。
- 辛未、吐蕃は大臣論吐渾弥を派遣して和睦を求め、吐谷渾との旧交回復も願ったが、高宗は許さなかった。
新羅との戦いと講和
- 二月、劉仁軌は七重城で新羅軍を大破した。さらに靺鞨兵を海路で南境へ侵入させ、多くを斬獲して撤兵した。
- 高宗は李謹行を安東鎮撫大使とし、買肖城に駐屯させて新羅を経略させた。三度戦って勝利すると、新羅は使者を送り、貢を納めて謝罪した。
- 高宗は新羅王法敏の官爵を回復し、途中まで送り出していた金仁問は呼び戻して臨海郡公に改封した。
天后の先蚕祭と摂政論
- 三月丁巳、天后は邙山の南で先蚕を祭り、百官と朝集使が陪位した。これは皇后自ら養蚕を尊ぶ古礼に基づく。
- 高宗は風眩に苦しみ、天后に国政を代行させようと議した。
- 郝処俊は、天子は外を治め、后は内を治めるのが天道であり、皇后の臨朝は禍乱の芽になると諫めた。
- 李義琰もこれに同調し、高宗は思いとどまった。
北門学士の形成
- 天后は文学に秀でた士を多く召し、元万頃や劉禕之らに『列女伝』『臣軌』『百僚新戒』『楽書』など大量の著作を作らせた。
- 朝廷の議論や各司の上表にも、彼らを密かに参与させて宰相の権限を分けた。
- 人々は、北門から出入りしていたことから、彼らを「北門学士」と呼んだ。
韋弘機と趙瓌家の失勢
- 夏四月、韋弘機を司農卿とした。東都の営田や宮苑の修築を兼ねており、苑中で罪を犯した宦官を自ら杖で打ってから奏聞したため、高宗はその剛直さを褒めた。
- 一方、左千牛将軍趙瓌は高祖の娘・常楽公主を妻とし、その娘は周王顕の妃であったが、常楽公主は高宗の寵愛を受けており、天后はこれを憎んだ。
- 辛巳、その妃は廃されて内侍省に幽閉され、煙だけを見て生死を確かめられるような扱いを受けて死んだ。
- 趙瓌は定州刺史から栝州刺史へ左遷され、常楽公主も随行を命じられ、朝謁を絶たれた。
皇太子李弘の死
- 皇太子李弘は仁孝で謹直であり、士大夫からも望みをかけられていたが、天后の意向に逆らうことが多く、しだいにその愛を失っていった。
- 義陽・宣城の二公主は蕭淑妃の娘で、母の罪に連座して長年掖庭に幽閉されていた。太子はこれを憐れみ、嫁がせるよう上奏したが、天后は怒り、その日のうちに侍衛に嫁がせてしまった。
- 己亥、太子は合璧宮で薨去した。世間では、天后が毒殺したのではないかと噂されたが、確証はない。
- 壬寅、高宗は洛陽宮へ帰った。
- 五月、高宗は本来皇位を譲るつもりだったと詔して、李弘に「孝敬皇帝」の諡を贈った。皇帝の子に皇帝号を贈る例はこれが初めてである。
- 六月、雍王賢を皇太子に立て、大赦を行った。
杞王上金の失脚
- 天后は慈州刺史の杞王上金を憎み、役人たちはその意を迎えて罪を奏上した。
- 秋七月、上金は解官され、澧州に安置された。
孝敬皇帝の葬儀と宰相人事
- 八月、孝敬皇帝を恭陵に葬った。
- 戴至徳を右僕射、劉仁軌を左僕射とし、いずれも同中書門下三品のままとした。張文瓘は侍中、郝処俊は中書令、李敬玄は吏部尚書兼左庶子・同中書門下三品となった。
- 劉仁軌と戴至徳は日替わりで訴状を受けたが、仁軌はやさしい言葉で希望を持たせ、至徳は法理に即して厳しく問い、真に冤がある者だけを密かに弁護した。
- そのため世評は仁軌に集まったが、至徳は、恩威は君主の権柄であり、臣下が奪ってはならぬと述べ、高宗もそれを重んじた。
- 張文瓘は大理卿を兼ねていたため、昇進の報を聞いた囚人たちは厳正な裁きが失われると嘆き悲しんだほどであった。