資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 咸亨 三年 612年

正月・姚州方面の反乱鎮圧

  • 春正月、梁積寿を姚州道行軍総管として派遣し、叛いた蛮を討たせた。
  • 庚戌、昆明蛮十四姓・二万三千戸が唐に服属したため、殷・敦・総の三州を置いて編成した。

吐谷渾の移住

  • 二月、吐谷渾を鄯州の浩亹水南へ移した。だが吐蕃の圧迫を恐れ、また土地が狭かったため、まもなくさらに霊州へ移して安楽州を置き、可汗諾曷鉢を刺史とした。
  • 吐谷渾の旧地は、この結果ほぼすべて吐蕃に奪われた。
  • 同月、侍中の姜恪が死去した。

吐蕃使節との応答

  • 夏四月、高宗は合璧宮に赴いた。
  • 吐蕃は大臣の仲琮を入朝させた。高宗がその風俗と国勢を尋ねると、仲琮は、土地は痩せ寒冷だが、風俗は質朴で、法令が厳格、上下が心を一つにし、政策は下から議論を起こして利益に沿って決めるので国が長く保てるのだと答えた。
  • 高宗は、吐谷渾の滅亡、薛仁貴の敗北、涼州への圧迫などを問いただしたが、仲琮は使者としての任務の範囲外だとして軍事問題には触れなかった。
  • 高宗は厚く贈り物をして帰し、さらに黄仁素を吐蕃へ使者として派遣した。

許敬宗の死と諡号論争

  • 秋八月、許敬宗が死去した。
  • 太常博士袁思古は、許敬宗が長子を辺境へ流し、幼い娘を夷狄に嫁がせるなど行いが悪いとして、「繆」の諡を請うた。
  • 孫の許彦伯が袁思古との私怨を訴えて再審を求めると、王福畤は、諡号は功罪を後世に示すものだから、私情で曲げてはならないと主張した。
  • 戴至徳が、これほど寵遇された大臣をなぜ「繆」とするのかと問うと、王福畤は、晋の何曾でさえ奢侈のために「繆」とされたのだから、忠孝でも及ばず、飲食や女色の弊はさらに甚だしい許敬宗には相応しいと論じた。
  • その後、五品以上で再議した結果、陽思敬が「既に過ちがあっても改めた者」を意味する「恭」を提案し、詔によりこれが採用された。
  • 許敬宗がかつて自分の子を嶺南へ流し、娘を馮盎の子に嫁がせて多くの財貨を受け取った事実が、こうした論議の材料となった。

皇族人事と太子監国

  • 九月、沛王賢を雍王に移封した。
  • 冬十月、皇太子に監国を命じた。
  • 十一月朔、再び日食があった。
  • 高宗は東都を発って長安へ戻り、十一月に京師へ到着した。

高句麗残党・新羅との戦い

  • 十二月、高侃は白水山で高句麗残党を破り、新羅の援軍も撃破した。

劉仁軌の宰相入りと邢文偉・王及善

  • 癸卯、劉仁軌を同中書門下三品とした。
  • 皇太子はふだん宮臣と交わることが少なかったが、典膳丞の邢文偉が供膳を減らして諫言し、太子も病気と侍従の忙しさを詫びて受け入れた。高宗はこれを聞いて、邢文偉を右史に抜擢した。
  • また太子が宴席で宮臣に曲芸を命じた際、左奉裕率王及善だけは、自分は伶人ではなく、太子を補佐する役目にあるとして断った。太子は謝罪し、高宗もこれを賞して昇進させた。