資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 咸亨 二年 611年
正月・東都への行幸
- 春正月、高宗は東都へ赴いた。長安では皇太子李弘を留めて国政を看させたわけではなく、この月に監国の記事はなかったとするのが妥当である。
西突厥への処置
- 夏四月、西突厥の阿史那都支を左驍衛大将軍・兼匐延都督とし、五咄陸の人々を安撫させた。これは旧来の遊牧勢力を唐の官制の内に組み込んで統治しようとした措置である。
賀蘭敏之の失脚と死
- もと武元慶らが死んだ後、武后は姉の子である賀蘭敏之を武士彠の後継として立て、周公の爵を継がせて武姓に改めさせ、弘文館学士・左散騎常侍まで昇進させていた。
- しかし敏之は、魏国夫人の死に際して高宗の悲嘆にどう答えるかで武后の疑いを招き、以後しだいに憎まれるようになった。
- さらに容貌の美しさを頼みに乱行が多く、太原王妃とも不義の関係を持ち、妃の喪中にも喪服を脱いで歌舞を楽しんだ。
- そのうえ、帝と武后が自ら選んで太子妃に立てようとしていた楊思儉の娘に手を出したため、武后はその罪を列挙して流罪を求めた。
- 六月、敏之は雷州へ流され、本姓の賀蘭に戻されたが、韶州へ至る途中で馬の手綱により絞殺された。これに連座して、彼と交遊のあった朝士で嶺南へ流された者も多かった。
高句麗残党への軍事行動
皇族の死去と天変
- 九月、潞州長史の徐王元礼が没した。
- 冬十一月朔、日食があった。
許州・汝州方面への巡幸
- 冬、高宗は東都から許州・汝州へ赴き、十二月には葉県で狩猟を行い、その後東都へ帰還した。