資治通鑑唐紀十六 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下 顕慶 四年 659年
春二月〜四月 唐臨罷免・西突厥・人事
- 二月乙丑、吏部尚書唐臨は免官となった。これは前年の巡察使任命が私情によるものだとされたためである。
- 三月壬午、西突厥の興昔亡可汗が双河で真珠葉護と戦い、これを斬った。
- 四月丙辰、于志寧が太子太師・同中書門下三品となった。
- 乙丑、黄門侍郎の許圉師が政事に参与した。
武后と長孫無忌の対立
- 武后は、太尉趙公長孫無忌が自分から厚い贈与を受けながら、王皇后廃立の際に助力しなかったことを深く恨んでいた。
- また于志寧も、その時に中立を保って口を閉ざしたため、武后の不興を買っていた。
- 許敬宗は以前から利害を説いて長孫無忌を取り込もうとしたが、そのたびに面前で退けられたため、こちらも恨みを抱いた。
- 武后が皇后となった後、長孫無忌自身も内心不安を覚えており、武后は許敬宗に隙をうかがわせていた。
李奉節の告発から長孫無忌獄へ
- 洛陽の李奉節が、太子洗馬韋季方と監察御史李巣の朋党を告発した。高宗は許敬宗・辛茂将に取り調べを命じた。
- 許敬宗は厳しく追及し、韋季方は自刃したが死にきれなかった。
- これを許敬宗は利用し、韋季方は長孫無忌と結んで忠臣や近戚を排除し、権力を無忌に集中させたうえで隙を見て反乱を起こそうとしていた、事が発覚したため自殺したのだと誣告した。
- 高宗は驚き、舅の長孫無忌が小人の讒言で疑い深くなることはあっても、反逆まであるだろうかと述べた。
- しかし許敬宗は、天下は長孫無忌の威勢を恐れており、もし事を起こせば誰が対抗できるのか、今ここで断じなければ宗廟の憂いになると強く迫った。
- 高宗は涙を流し、もし本当なら天下にも後世にも顔向けできないと嘆いたが、許敬宗は、房遺愛の乱などとは格が違う、今こそ機先を制すべきだと説き立てた。
- 高宗がなお再審を命じると、翌日、許敬宗は、昨夜に韋季方が長孫無忌との共謀を自白したとし、その動機まで具体的に作り上げて報告した。すなわち、柳奭や褚遂良が梁王を太子に立てるよう勧め、高宗が無忌を疑って高履行や長孫祥らを外に出し、韓瑗も罰せられたので、無忌が日夜反乱を計画するようになった、という筋書きである。
- 高宗は、舅が本当にそうなら殺すには忍びないと言ったが、許敬宗は、漢の薄昭ですら文帝が涙をのんで誅した、まして無忌の罪は比較にならないと述べ、決断を迫った。
- ついに高宗は自ら長孫無忌に問い質すことなく、戊辰、太尉と封邑を削り、揚州都督として黔州に安置する詔を下した。なお一品待遇の供給は与えられた。
連座処分の拡大
- 長孫祥は長孫無忌の従兄の子で、以前に工部尚書から荊州長史に出されていた。許敬宗はこれも反逆の兆しだったかのように扱った。
- さらに許敬宗は、長孫無忌の謀反は褚遂良・柳奭・韓瑗が扇動したもので、柳奭はひそかに宮中と通じて毒殺も企てたと奏上し、于志寧も同党とした。
- これにより、褚遂良の官爵は追奪され、柳奭・韓瑗は名を除かれ、于志寧は免官となった。
- 使者が沿道の兵で護送し、長孫無忌を黔州へ送った。子の長孫冲らも除名され嶺表へ流された。
- 褚遂良の子らも愛州へ流される途中で殺された。高履行も益州長史からさらに洪州都督へ左遷された。
五月〜六月 趙持満処刑と姓氏録改定
- 五月丙申、任雅相と盧承慶がともに政事に参与した。
- 涼州刺史趙持満は力が強く、弓馬に優れ、任侠を好んだ。母方は韓瑗の妻とつながり、舅の長孫銓も長孫無忌の同族だった。長孫銓は無忌事件で嶲州へ流されていた。
- 許敬宗は、趙持満が乱を起こすのを恐れて、長孫無忌とともに反逆したと誣告し、駅伝で召し返して獄に下した。
- 厳しい拷問を受けても趙持満は自白せず、「身体は殺せても、言葉は変えられない」と言い張った。役人はどうしようもなく、かわりに罪状書を作って上奏し、戊戌、趙持満は誅殺された。
- その遺体は城西にさらされたが、友人の王方翼が、欒布が彭越を哭し、文王が枯骨を葬った故事を引いて、義と仁のためにこれを収葬した。高宗は聞いても罪に問わなかった。
- 長孫銓は流刑地で、県令が朝廷の意を忖度して杖殺した。
- 六月丁卯、詔により『氏族志』は『姓氏録』に改められた。もともと太宗が高士廉らに作らせた『氏族志』は公平と評されていたが、今回は許敬宗らが武氏一族を第一等に引き上げ、唐に仕えた官品の高下で九等を定めた。
- そのため、軍功で五品に至った者でも士流に列するようになり、人々はこれを「勲格」と呼んだ。
夏〜秋 封禅議・長孫無忌の最期
- 許敬宗は封禅の儀を議し、高祖・太宗をともに昊天上帝に配し、太穆皇后・文徳皇后をともに皇地祇に配するよう奏上し、認められた。
- 七月、長孫恩・柳奭・韓瑗をそれぞれ流所から枷鎖のまま京へ送るよう命じ、家財も記録させた。
- 壬寅、李勣・許敬宗・辛茂将・任雅相・盧承慶に、長孫無忌事件を再度覆案させた。
- さらに許敬宗は袁公瑜らを黔州へ送り、無忌の謀反状を再審させたが、実際には自縊に追い込むためであった。
- 使者が到着すると、長孫無忌はついに自殺させられた。
- 柳奭・韓瑗には流所で斬首の詔が出され、柳奭は象州で殺され、韓瑗はすでに死んでいたため棺を開いて検視しただけで終わった。
- 三家は没官され、近親者は嶺南へ流されて奴婢とされた。長孫祥は無忌との書簡を理由に絞首刑とされた。長孫恩も流された。
八月〜十月 李義府復帰と禁婚令
- 八月壬子、普州刺史の李義府が兼吏部尚書・同中書門下三品として復帰した。
- 李義府は自らを趙郡李氏の出と称し、諸李氏と昭穆を通じようとした。無頼の徒が彼の権勢にすがって兄叔の礼を取る者が多かった。
- 給事中李崇徳は、当初は同族として扱っていたが、李義府が普州に出た時に系譜から除いた。李義府はこれを恨み、再び宰相になると人を使って罪をでっち上げ、自殺に追い込んだ。
- 乙卯、長孫氏・柳氏・于氏・高履行ら、無忌・柳奭の縁者十三人以上が一斉に左遷され、この時点で政治の主導権は完全に中宮へ移った。
- 九月、西域の石・米・史・大安・小安・曹・拔汗那・悒怛・疎勒・朱駒半など諸国に州県府百二十七が設置された。
- 十月丙午、太子李弘が元服し、大赦が行われた。
- 壬戌には、名門旧族が門地を誇って婚姻を商売にする風を改めるとして、いくつかの高門の子孫は同族意識を盾に独自の婚姻圏を作ってはならず、嫁入りの際に受け取る財物にも上限を設ける詔が出た。
- しかし実際には、門地への執着はやまず、娘をひそかに送り込んだり、異姓との婚姻を拒んで婚期を逃したりする家も多く、かえって禁婚家として高値を取る例もあった。
閏月〜十一月 東都行幸と西域反乱
- 閏月戊寅、高宗は京師を発ち、太子に監国させたが、太子がひどく慕ってやまないと聞くと、すぐに行在所へ呼び寄せた。戊戌、車駕は東都に到着した。
- 十一月丙午、許圉師は散騎常侍・検校侍中となった。
- 戊午、侍中兼左庶子の辛茂将が死去した。
- 思結俟斤都曼が、疎勒・朱俱波・謁般陁の三国を率いて反乱し、于闐を破った。
- 癸亥、蘇定方が安撫大使として討伐を命じられ、盧承慶も同中書門下三品となった。
- また薛仁貴らは高麗の将温沙門を横山で破った。
年末〜翌正月 都曼討伐
- 蘇定方は業葉水に進み、思結が馬頭川に拠ると、精兵一万・騎兵三千を選んで急襲し、一日一夜で三百里を走破した。
- 夜明けに城下へ到着すると、都曼は大いに驚き、城外で敗れて城に逃げ込んだ。夕方には諸軍も続々到着し、包囲が完成した。
- 都曼は恐れて出降した。
- 翌年正月、蘇定方は都曼を乾陽殿に献じた。法司は死刑を請うたが、蘇定方は不死を約して降したのだから命を助けてほしいと願った。高宗は、将帥の信義を全うさせるため特に法を曲げ、都曼を赦した。