資治通鑑唐紀十六 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下 顕慶 三年 658年

春正月 新礼の施行

  • 正月戊子、長孫無忌らが編修した新しい礼制が完成し、朝廷内外に施行された。
  • ただしこの礼は、許敬宗・李義府が権勢を握る中で増減が加えられ、皇帝の意向に迎合した部分が多いと学者たちから批判された。
  • とくに太常博士の蕭楚材らは、喪礼を事前に詳述するのは臣下として妥当でないと考え、許敬宗・李義府もそれに強く同調したため、国恤に関する一篇が焼却され、結果として凶礼が欠けることになった。

龜茲の内乱処理

  • 龜茲王布失畢の妻の阿史那氏は、宰相格の那利と密通していた。布失畢はこれを抑えられず、君臣は互いに疑い、党派に分かれて非難し合った。
  • 高宗は両者を召し、到着後に那利を拘禁し、布失畢を帰国させた。
  • しかし龜茲東境の泥師城で、将軍羯獵顚が兵を挙げて帰国を拒み、西突厥の沙鉢羅可汗に降った。布失畢は城に拠って進めなくなった。
  • 左屯衛大将軍楊胄に討伐が命じられたが、その間に布失畢は病死した。楊胄は羯獵顚を破って捕え、その党も処刑した。
  • その地には龜茲都督府が置かれ、戊申、布失畢の子の素稽が龜茲王兼都督に立てられた。

二月〜六月 長安帰還と安西都護府移転

  • 二月丁巳、高宗は東都を発ち、甲戌に京師へ着いた。
  • 五月癸未、安西都護府を龜茲へ移し、旧安西の地はふたたび西州都督府として高昌故地を鎮した。

六月 対高麗戦

  • 六月、営州都督兼東夷都護の程名振と右領軍中郎将薛仁貴が兵を率いて高麗の赤烽鎮を攻め落とし、四百余級を斬り、百余人を捕えた。
  • 高麗は大将豆方婁に三万を与えて防がせたが、程名振は契丹兵でこれを迎え撃ち、大破して二千五百級を斬った。

秋八月〜冬十月 播羅哀獠の帰附と李義府失脚

  • 八月甲寅、播羅哀獠の酋長多胡桑らが部衆を率いて内附した。
  • 冬十月庚申、吐蕃の賛普が婚姻を求めてきた。
  • 中書令李義府は、高宗の寵愛を背景に、まだ幼い子らまで清要の官に列ね、本人も一族も売官・鬻獄を行い、その門前は市のように賑わうほどだった。
  • 彼は多くの朋党を作って朝野を動かし、中書令杜正倫は年長の先進として自負していたため、両者は対立した。
  • 二人は高宗の前で争い、帝は大臣同士の不和を責めた。
  • 十一月乙酉、杜正倫は横州刺史、李義府は普州刺史に左遷された。杜正倫はほどなく横州で死去した。

賀魯の献俘と処遇

  • 阿史那賀魯は捕えられた後、蕭嗣業に対し、自分はかつて先帝に救われ厚遇されたのにそれに背いた、敗北は天の怒りである、中国では罪人を市で刑するというが、自分は昭陵の前で処刑されて先帝に謝りたいと語った。
  • 高宗はこれを聞いて憐れみ、賀魯が京師に着くと昭陵に献じたうえで死を免じた。
  • その部衆は六都督府に分けられ、支配下にあった諸国にも州府が置かれ、西は波斯に至るまで安西都護府に隷属させた。
  • 賀魯はまもなく死に、頡利可汗の墓のそばに葬られた。

年末の人事と褚遂良の死

  • 戊戌、許敬宗は中書令となり、大理卿の辛茂将は兼侍中となった。
  • 開府儀同三司の尉遅敬徳が死去した。晩年は隠居し、延命の術を学び、池亭を整え、清商楽を奏して自ら楽しみ、賓客との往来を絶って十六年を過ごしたという。
  • この年、愛州刺史に左遷されていた褚遂良がその地で没した。
  • 雍州司士の許禕は来済と親しかった。また侍御史張倫は李義府と不仲だった。吏部尚書唐臨は、許禕を江南道巡察使、張倫を剣南道巡察使に任じた。
  • しかし皇后はなお失脚後の李義府を保護しており、唐臨が私情で人事をしたとされ、翌年処分を受ける伏線となった。