資治通鑑唐紀十六 高宗天皇大聖大弘孝皇帝上之下 顕慶 五年 660年
春二月〜三月 并州行幸と武后の郷里優遇
- 正月、蘇定方が都曼を献じたのち、甲子、高宗は東都を発った。
- 二月辛巳、并州に到着した。
- 三月丙午、武皇后は朝堂と内殿で親戚・旧知・郷里の婦人たちを宴に招き、身分に応じて褒賞を与えた。
- また并州の八十歳以上の婦人にはみな郡君号が与えられた。
百済出兵の決定
- 百済は高麗の支援を頼みにしばしば新羅を侵略していたため、新羅王春秋が救援を求めた。
- 辛亥、蘇定方が神丘道行軍大総管となり、劉伯英らとともに水陸十万で百済討伐に向かうこととなった。
- 新羅王春秋は嵎夷道行軍総管に任じられ、自国の兵を率いて唐軍と連携するよう命じられた。
夏四月〜六月 東都帰還・奚契丹対応・梁王忠廃
- 四月丙寅、高宗は并州を発ち、癸巳に東都へ戻った。
- 五月、合璧宮が造営され、壬戌にはそこへ行幸した。
- 戊辰、阿史德枢賓・延陁梯真・李合珠らにそれぞれ兵を率いさせ、叛いた奚を討たせたが、奚はまもなく降った。そこで彼らは改めて契丹討伐に転じ、契丹の松漠都督阿卜固を捕えて東都へ送った。
- 六月庚午朔、日食があった。
- 房州刺史であった梁王忠は、年長になるにつれて不安を募らせ、ひそかに婦人の衣服を備えて刺客への変装に使おうとしたり、自ら吉凶を占ったりしていた。これが告発され、七月乙巳、庶人に落とされて黔州へ移され、承乾旧宅に幽閉された。
- 丁卯、盧承慶は度支運用の失敗を理由に罷免された。
八月 吐蕃の動きと百済戦役開始
- 八月、吐蕃の禄東賛はその子の起政に兵を授けて吐谷渾を攻めさせた。吐谷渾が唐に内附していたためである。
- 一方、蘇定方は成山から海を渡り、百済が熊津江口で防ごうとするとこれを撃破して数千人を殺し、海陸の兵をそろえてその都へ迫った。
- 都城の二十里余り手前で、百済は全国の兵を集めて決戦を挑んだが、またも大敗し、一万人余が斬られた。追撃を受けた軍は都城内へ逃げ込んだ。
- 百済王義慈と太子隆は北境へ逃亡した。そこで次子の泰が自立して王を称し、防戦にあたった。
- しかし隆の子文思は、王と太子がまだいるのに叔父が勝手に王を名乗れば、自分たち父子は無事では済まないと考え、側近を率いて城を越え、唐へ降った。百姓も多くこれに続いた。
- 泰は止められず、蘇定方は軍に城上へ登って旗を立てさせた。泰は窮して開門降服し、義慈・隆や各城主も次々に降った。
- 百済はもと五部・三十七郡・二百城・七十六万戸を擁していたが、唐はその地に熊津など五都督府を置き、もとの酋長たちを都督・刺史に任じた。
秋〜冬 北方征討と武后の専権化
- 壬午、鄭仁泰が思結・拔也固・僕骨・同羅の四部を討ち、三度戦っていずれも勝ち、百余里追撃して酋長を斬って帰った。
- 十月ごろ、高宗は風眩と頭重、視力低下に苦しむようになった。百司の奏事も、自ら裁けない時は皇后に決裁させた。
- 武后は聡明で文史にも通じ、処分がいずれも高宗の意にかなったため、しだいに政務を委ねられるようになり、ついに権勢は君主と並ぶほどになった。
十一月〜十二月 百済俘虜・高麗再征計画
- 十一月戊戌朔、高宗は則天門楼で百済の俘虜を受け取った。百済王義慈以下はみな赦された。
- 蘇定方は前後して賀魯・都曼・義慈と三国の主を生け捕りにしたことになる。
- 甲寅、高宗は許州に行幸した。
- 十二月辛未、長社で狩りを行い、己卯に東都へ戻った。
- 壬午、契苾何力を浿江道行軍大総管、蘇定方を遼東道行軍大総管、劉伯英を平壌道行軍大総管、程名振を鏤方道総管とし、高麗を分道して攻めることになった。
- 青州刺史の劉仁軌は、海運督送中に船覆の責任を問われて白衣のまま従軍し、自らの力で罪を償おうとした。