資治通鑑唐紀十五 高宗天皇大聖大𢎞孝皇帝上之上 永徽 元年 前650年

春正月 改元と皇后冊立

  • 辛丑朔、永徽と改元した。
  • 丙午、妃王氏を皇后に立てた。王氏は王思政の孫で、その父王仁祐を特進・魏国公とした。
  • 己未、張行成を侍中とした。
  • 辛酉、高宗は朝集使を召し、民に不便な事柄は隠さず述べるよう命じた。不十分ならさらに封事で言えと勧めた。以後、毎日刺史十人を召し入れて民の苦しみと政治の実情を尋ねた。
  • 洛陽人李弘泰が長孫無忌謀反を誣告したため、ただちに斬られた。
  • 長孫無忌と褚遂良は心を一つにして政務を補佐し、高宗も両者を敬重してほぼ任せきりにしたため、この時期の政治は貞観の遺風を残した。
  • 衡山公主の婚礼について、有司は喪服の公除後すぐでよいとしたが、于志寧は父母の喪の情は例で断てないとして三年後まで延期を求め、高宗は従った。

二月から五月 諸王冊立と吐蕃

  • 辛卯、皇子孝を許王、上金を杞王、素節を雍王に立てた。
  • 五月壬戌、吐蕃賛普弄讃が死去した。嫡子はすでに没していたため孫が立ち、幼弱であったので国相禄東賛が政事を決した。禄東賛は明達で厳重、用兵にも法があり、吐蕃の強盛はその計略によるところが大きかった。

六月から九月 車鼻可汗滅亡と突厥再編

  • 六月、高侃は阿息山まで進み、車鼻可汗を攻めた。可汗が諸部に兵を募っても応じる者はなく、数百騎で逃れたが、高侃が金山まで追ってこれを生け捕りにした。部衆は皆降伏した。
  • 龜茲では唐軍撤退後に酋長たちが争っていたので、秋八月壬午、詔して布失畢を再び龜茲王として帰国させ、衆を安撫させた。
  • 九月庚子、高侃が車鼻可汗を京師へ連行した。高宗はこれを赦して左武衛将軍とし、残党を鬱督軍山に置いて狼山都督府で統轄させた。
  • この結果、突厥はほぼ全て唐の版図内の臣となり、単于・瀚海の二都護府が設けられた。単于都護府には狼山・雲中・桑乾の三都督府と蘇農など十四州、瀚海都護府には瀚海・金微・新黎など七都督府と仙萼など八州が属し、各酋長が刺史・都督となった。

九月から十二月 諫言と法制

  • 癸亥、高宗が狩猟中に雨に遭い、諫議大夫谷那律に「油衣を漏らさない方法は」と問うと、「瓦で作れば漏りません」と答えた。帝意をくんだ諷諫で、高宗は喜んで狩りをやめた。
  • 李勣は固く辞職を願い、冬十月戊辰、左僕射を解かれたが、同中書門下三品のままとなった。
  • 己未、監察御史韋思謙が中書令褚遂良の土地買収を劾奏した。大理少卿張叡冊は官定価格相当で無罪としたが、韋思謙は官用価格を私取引に用いるのは不当であり、叡冊の裁断は法を曲げるものだと論じた。結果、褚遂良は同州刺史に、張叡冊は循州刺史に左遷された。
  • 十二月庚午、謝万歳・謝法興・李孟嘗が琰州叛獠を討ったが、万歳と法興は洞中に入って招慰中に殺された。