資治通鑑唐紀十五 高宗天皇大聖大𢎞孝皇帝上之上 永徽 二年 前651年
春正月 宰相人事と賀魯の叛乱
- 乙巳、黄門侍郎宇文節と中書侍郎柳奭をともに同中書門下三品とした。柳奭は王皇后の舅でもあった。
- 左驍衛将軍・瑶池都督阿史那賀魯は、離散民を集めて勢力を回復し、太宗崩後のすきを見て西庭・庭州奪取を図った。庭州刺史駱弘義がそれを察して奏上した。
- 高宗は通事舎人橋宝明を派遣して慰撫させた。橋宝明は賀魯を説いて長子咥運を宿衛に入れさせ、右驍衛中郎将を授けたが、まもなく帰すと、咥運は父に西走を勧めた。
- 賀魯は乙毘射匱可汗を破ってその衆を併合し、双河・千泉に牙帳を建て、自ら沙鉢羅可汗を称した。咄陸五啜・弩失畢五俟斤がみな帰属し、勝兵数十万に達し、乙毘咄陸可汗とも連兵した。西域諸国の多くもこれに附いた。
- 咥運は莫賀咄葉護に任じられた。
- 焉耆王婆伽利が死去し、国人は旧王突騎支の復位を請願した。
夏四月 焉耆・滕王・西突厥侵攻
- 詔して突騎支に右武衛将軍を加え、国に帰して王とした。
- 金州刺史滕王元嬰は奢侈と放縦がひどく、太宗の喪中にも狩猟や遊興を重ね、夜間に城門を開かせ、弾丸で人を撃ち、雪中に人を埋めて笑うなどした。高宗は書を与え、晋の霊公を手本にするなと厳しく責めた。
- 元嬰と蔣王惲はともに財貨を貪ったので、高宗が諸王に帛五百段を賜った際、この二王にだけは与えず、「自分でよく調達できるはずだ」と皮肉を述べた。
- 秋七月、西突厥沙鉢羅可汗賀魯が庭州を寇し、金嶺城と蒲類県を落として数千人を殺掠した。
- 高宗は梁建方・契苾何力を弓月道行軍総管とし、高徳逸・薛孤呉仁を副将として、秦・成・岐・雍の府兵三万と回紇騎五万で討たせた。
七月から九月 明堂議・白水蛮・玉華宮
- 癸巳、礼官と学士に明堂制度を議させ、高祖を五天帝に、太宗を五人帝に配する案が出された。
- 八月己巳、于志寧を左僕射、張行成を右僕射、高季輔を侍中とした。于志寧・張行成はなお同中書門下三品を兼ねた。
- 己卯、郎州の白水蛮が反して麻州を侵したので、趙孝祖らに討たせた。
- 九月癸巳、玉華宮を廃して仏寺とし、戊戌には九成宮を万年宮と改称した。
- 庚戌、左武候の引駕盧文操が左蔵から盗みを働いた。高宗はその職掌が本来不正を糾すことにあるのに自ら盗んだとして死刑を命じたが、諫議大夫蕭鈞が、罪は重いが法の定めは死に当たらぬと諫めたため、免死とした。高宗はまことの諫議だと称賛した。
閏月から十二月 律令頒布と西南・羌族の内附
- 閏月、長孫無忌らが改訂した律・令・式を上奏し、甲戌に天下へ頒布した。
- 高宗は地方官が互いに顔色をうかがって公正を尽くさぬと聞くがどうかと問うた。長孫無忌は、大きく法を曲げることは少ないが、小さく人情を買うことは陛下でも避け難い、と答えた。高宗は常にその諫言を受け容れた。
- 冬十一月辛酉、南郊を祀った。
- 癸酉、京官・外州の官が鷹・隼・犬・馬を献じることを禁じ、違反者を処罰すると命じた。
- 戊寅、特浪羌酋董悉奉求と辟恵羌酋卜檐莫が各一万余戸を率いて茂州へ内附し、その地に三十二州が置かれた。
- 竇州・義州の蛮酋李宝誠らが反したが、桂州都督劉伯英が討ち平らげた。
- 趙孝祖は白水蛮を討ち、秃磨蒲・儉彌于らを斬った。大雪のため蛮兵は飢え凍えてほぼ壊滅した。孝祖はこの勢いで勃弄・黄瓜・葉榆・西洱河方面まで撫定すべきだと奏上し、許可された。
- 十二月壬子、処月朱邪孤注が招慰使単道恵を殺し、突厥賀魯と結んだ。
- この年、百済の使者が来朝した。高宗は、新羅・高麗と争うな、さもなくば討つと戒めた。