資治通鑑唐紀十五 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之下 貞觀 二十三年 前649年
春正月 龜茲王の到着と西南蛮の内附
- 辛亥、龜茲王布失畢と宰相那利らが京師に到着した。太宗は責めはしたが赦し、布失畢を左武衛中郎将に任じた。
- 西南の徒莫袛らの蛮が内附し、その地を傍・望・覧・丘の四州として郎州都督府に属させた。
- 車鼻可汗が朝見しないので、唐は右驍衛郎将高侃に回紇・僕骨兵を率いさせて急襲させた。諸部は次々と降り、拔悉密吐屯肥羅察も降って、新黎州が置かれた。
二月 三月 西北経略と旱魃
- 丙戌、瑶池都督府を安西都護に属させた。戊子には阿史那賀魯を瑶池都督に任じた。
- 丙辰、豊州都督府を置き、燕然都護李素立に兼任させた。
- 前年冬からの旱が続いたが、このころようやく雨が降った。
- 辛酉、太宗は病をおして顕道門外に出て天下に大赦した。
- 丁卯、太子に金液門で政務を聴かせた。
四月 太宗の病と李世勣左遷
- 乙亥、太宗は翠微宮へ行幸した。
- 太宗は太子に対し、李世勣は才智があるが太子とは恩義が薄く、服しないおそれがあると語った。そこでいったん左遷し、もし直ちに赴任するなら自分の死後に宰相として用いよ、ためらうようなら殺せ、と命じた。
- 五月戊午、同中書門下三品李世勣を疊州都督に出した。李世勣は家に帰ることなくただちに赴任した。
五月 李靖死去と太宗崩御
- 辛酉、李靖が薨じた。
- 太宗の病はさらに重く、太子は昼夜そばを離れず、数日食をとらないこともあり、髪に白いものが見えるほどであった。太宗はその孝を見て、自分の死にも思い残すことはないと涙した。
- 丁卯、長孫無忌を含風殿に召し、手を伸ばしてその頬に触れたが、言葉は出なかった。己巳、改めて長孫無忌と褚遂良を召し、太子は仁孝であるからよく補佐せよと託し、無忌と遂良がいれば天下を憂うることはないと太子にも告げた。さらに無忌は忠臣だから讒言で離間してはならぬと褚遂良に命じ、遺詔を書かせた。
- まもなく太宗は崩御した。年五十三。
- 太子は長孫無忌の首にすがって泣き絶えんばかりであったが、無忌は宗廟社稷の重みを説いて立ち直らせ、まず発喪を秘して処置を整えた。
五月末から六月 高宗即位
- 庚午、太子は飛騎・旧将を従えて先に京へ戻り、辛未に入城した。太宗の御馬・輿・侍衛も平常通りに見せかけ、柩は両儀殿に安置された。
- 于志寧を侍中、張行成を兼侍中、高季輔を兼中書令とした。
- 壬申、太極殿で発喪し、遺詔を宣して太子が即位した。軍国の大事は停滞させず、平常の細務は有司に委ねること、諸王で都督・刺史の者はみな奔喪を許すこと、濮王泰のみ期限に拘らないこと、遼東遠征と土木工事をやめることが命じられた。
- 四夷からの在朝者や朝貢使数百人は訃報を聞いて皆痛哭し、髪を切り顔を裂き耳を傷つけるほどであった。
- 六月甲戌朔、高宗が正式に即位し、天下に大赦した。
六月 新政開始
- 丁丑、李勣を特進・検校洛州刺史・洛陽宮留守とした。ここからは太宗の名「世民」の諱を避けて「李世勣」を「李勣」と記すようになり、先帝諱に触れる官名も改められた。
- 癸未、長孫無忌を太尉兼検校中書令・知尚書門下二省事としたが、無忌が固辞したので知尚書省事は免じ、太尉・同中書門下三品とした。
- 癸巳、李勣を開府儀同三司・同中書門下三品とした。
- 阿史那社爾の龜茲平定後、行軍長史薛万備の進言で于闐王伏闍信を説いて入朝させた。
秋七月から九月 内外の動き
- 己酉、伏闍信が薛万備に従って入朝し、梓宮に謁した。
- 八月癸酉夜、地震があり、特に晋州で激しく、家屋倒壊で五千余人が圧死した。
- 庚寅、文皇帝を昭陵に葬り、廟号を太宗とした。
- 阿史那社爾と契苾何力は殉葬を願い出たが、高宗は太宗の遺旨だとして許さなかった。
- かつて太宗に服した頡利ら十四人の夷狄君長は、石像に刻まれて北司馬門内に列置された。
- 丁酉、許敬宗が弘農府君廟は高宗にとって七世祖にあたり親尽であるから廃し、神主を西夾室に移すべきだと奏上し、認められた。
- 九月乙卯、李勣を左僕射とした。
冬十月から十二月 司法・吐蕃・濮王泰
- 十月、突厥諸部の地に舍利など五州を置き雲中都督府に、蘇農など六州を定襄都督府に属させた。
- 乙亥、高宗が大理卿唐臨に現在の囚人数を問うと五十余で、死罪相当は二人だけだと答えた。以前の大理卿の裁判では囚人が冤罪を叫んだが、唐臨の裁判ではだれも訴えなかったため、高宗は真の良吏だと感嘆した。
- 高宗は吐蕃賛普弄讃に駙馬都尉・西海郡王の号を与えた。賛普は、もし天子即位の初に不忠の臣がいれば、自ら兵を率いて討ちに赴くと長孫無忌らへ書を送った。
- 十二月、濮王泰に特に厚い待遇を与え、開府し僚属を置き、車服・珍膳を優遇した。