資治通鑑唐紀十四 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之上 貞觀 二十年 646年

正月・薛延陀への反撃

  • 春正月辛未、夏州都督喬師望、右領軍大将軍執失思力らが薛延陀を撃ち、大破して二千余人を捕えた。多彌可汗はわずかな騎兵で逃げ去り、その国内は大きく動揺した。
  • 丁丑、大理卿孫伏伽ら二十二人を遣わし、漢代以来の六条に基づいて全国を巡察させた。
  • 刺史・県令以下、多くが左遷や罷免に処され、不服を訴えて都へ来る者が相次いだ。太宗は褚遂良に案件を整理させ、自ら裁断して、能力ある者二十人を抜擢し、死罪七人、流罪以下や免官は数百千人に及んだ。

二月・三月・帰京と遼東遠征の総括

  • 二月乙未、太宗は并州を発ち、三月己巳、京師へ帰還した。
  • 太宗は李靖に、天下の大軍を率いながら小国高麗に苦しんだのはなぜかと問うた。李靖は、これは道宗が理解していると答えた。
  • 太宗が江夏王李道宗に尋ねると、道宗は駐驆山の戦いの時点で平壌を衝くべきだったことを詳しく述べた。太宗は悵然として、その時は慌ただしくて思い至らなかったと悔いた。

皇太子への政務委任

  • 太宗は病がなお完全には癒えず、養生に専念したいと考え、庚午、軍国の機務をすべて皇太子に委ねて裁決させる詔を出した。
  • 以後、太子は一日おきに東宮で政務を見、終わると父のもとへ入り、薬や食事に付き従って離れなかった。
  • 太宗がときには外へ出て気晴らしをせよと言っても、太子は願い出なかった。そこで寝殿のそばに別院を設けて住まわせた。
  • 褚遂良は、太子は十日に一度ほど東宮へ戻って師傅と経義・道義を講じるべきだと進言し、認められた。

太宗の寛刑の実例

  • 太宗が未央宮に幸した際、行幸の警蹕が過ぎた後、草の中に一人の男が横刀を帯びて伏しているのを見つけた。問いただすと、警蹕の声を聞いて恐れ、姿を見せれば処罰されると思って身を伏せていたのだという。
  • 太宗はただちに引き返し、太子に対し、このまま法を機械的に適用すれば何人も死ぬが、後には事情を見て寛く放免せよと教えた。
  • また腰輿に乗っていたとき、三衛の兵が誤って御衣に触れたが、相手が青ざめるのを見て、ここには御史はいないから罪にしないと言った。

張亮の獄

  • 陜州の常徳玄が、刑部尚書張亮は五百人もの養子を抱え、術士公孫常に図讖の名分があると語り、また程公穎という術士に、自分の腕に龍鱗が現れたので大事を起こせるかと尋ねたと告発した。
  • 太宗は馬周らに取り調べさせたが、張亮は認めなかった。太宗は、五百人もの養子を養っているのは反乱のために違いないと決めつけ、百官に評議させた。多くは反逆で誅すべしとしたが、将作少匠李道裕のみ、反乱の形はまだ具わっていないので死罪は重いと述べた。
  • 太宗は長孫無忌・房玄齢を獄にやり、張亮に最後の別れを告げさせた。二人は、法は天下の公平であり共に守ってきたが、自ら不慎で悪人と交わり法網に陥ったのだから、今はどうしようもない、と諭した。
  • 己丑、張亮と公穎はともに西市で斬られ、家は没収された。
  • 一年余り後、刑部侍郎が欠員になると、太宗は数人を候補に挙げさせたが気に入らず、自ら李道裕を指名した。張亮の獄で「反形未具」と述べたのは道理にかなっており、自分は従わなかったが今なお悔いていると言って、刑部侍郎に任じた。

閏月・州府の整理

  • 閏月癸巳朔、日食があった。
  • 戊戌、遼州都督府と巖州を廃した。

四月・五月・高麗との外交

  • 夏四月甲子、太子太保蕭瑀は太保を解かれたが、なお同中書門下三品として政務に参与した。
  • 五月甲寅、高麗王高蔵と莫離支蓋金が使者を送り謝罪し、美しい女二人を献じたが、太宗はこれを返した。蓋金とは蓋蘇文のことである。

西突厥との婚姻交渉

  • 六月丁卯、西突厥の乙毗射匱可汗が入貢し、あわせて婚姻を求めた。太宗はこれを許し、龜茲・于闐・疏勒・朱俱波・葱嶺の五国を割いて聘礼とするよう求めた。

薛延陀の崩壊

  • 多彌可汗は気が狭く猜疑心が強く、恩義も薄かった。父の代の重臣を退け、自分の近習ばかりを用いたので、人心は離れた。さらに多くの誅殺を行ったため国中は不安に満ちた。
  • 回紇の酋長吐迷度が、僕骨・同羅とともに多彌を攻撃し、大破した。
  • 乙亥、太宗は江夏王道宗と阿史那社爾を瀚海安撫大使とし、執失思力には突厥兵を、契苾何力には凉州兵と胡兵を、薛万徹には代州方面の兵を、張倹には営州方面の兵を、それぞれ率いて分道進軍させ、薛延陀を攻めさせた。
  • また校尉宇文法を烏羅護靺鞨へ派遣したが、その途中で薛延陀の阿波設の兵と遭遇した。宇文法は靺鞨を率いてこれを破り、薛延陀国内では「唐兵が来た」と大騒ぎになった。
  • 諸部族は互いに離反し、多彌は数千騎で阿史徳時健の部落へ逃げたが、回紇に追われて殺され、その一族もほぼ滅んだ。回紇はその地を奪った。
  • 薛延陀の残衆七万余は西へ去り、真珠可汗の兄の子咄摩支を立てて伊特勿失可汗としたが、まもなく可汗号をやめ、故地に戻って欝督軍山の北に住みたいと請願した。太宗は兵部尚書崔敦礼を派遣してこれを安撫させた。
  • しかし敕勒九姓の酋長たちは、もと薛延陀に服属していたため咄摩支の来着を恐れ、朝廷でも北辺の患いになることが懸念された。そこで改めて李世勣に九姓鉄勒と協力して対応させ、太宗は「降れば撫し、叛けば討て」と命じた。

北方招撫と太子監国論

  • 己丑、太宗は手詔を出し、薛延陀が滅びたこの機会を逃せば後悔を残すとして、自ら霊州へ赴いて勅勒諸部を招撫すると宣言した。ただし前年の遼東出征兵は徴発しないとした。
  • この行幸には皇太子も従う予定だったが、少詹事張行成は、霊州へ同行させるより京師で監国させ、百官に接して政務を学ばせるべきだと上疏した。太宗はこれを忠とし、張行成を銀青光禄大夫へ進めた。

李世勣の北辺作戦

  • 李世勣は欝督軍山へ進み、酋長梯真達官が率衆降服してきた。
  • 咄摩支は南の荒谷へ逃れたため、李世勣は通事舎人蕭嗣業を派遣して招慰した。咄摩支は蕭嗣業のもとに来て降ったが、その部落はなお態度を決めかねていた。
  • そこで李世勣は兵を放って追撃し、前後して首五千余を斬り、男女三万余人を捕えた。
  • 秋七月、咄摩支が京師に至ると、右武衛大将軍に任じられた。

八月・霊州行幸

  • 八月甲子、皇孫李忠を陳王に立てた。
  • 己巳、太宗は霊州へ行幸した。
  • 江夏王道宗の軍はすでに砂漠を越えており、薛延陀の阿波達官が数万でこれを防いだが、道宗はこれを撃破し、千余級を斬って二百里追撃した。
  • 道宗と薛万徹はそれぞれ勅勒諸部を招諭し、酋長らは皆喜んで叩頭し、入朝を請うた。
  • 庚午、車駕は浮陽に着いたが、胡三省は旧書に従えばここは京兆の涇陽であるとする。

鉄勒十一姓の入貢

  • 回紇・拔野古・同羅・僕骨・多濫葛・思結・阿跌・契苾・跌結渾・斛薛など十一姓がそれぞれ使者を送り入貢した。
  • 彼らは、薛延陀は大国に事えず暴虐で主たる資格がなかったため、自ら敗死し部落も離散した、自分たちはそれぞれの分地を守っており、薛延陀には従わず、天子に帰命して官司を置いて養ってほしいと願った。
  • 太宗は大いに喜び、辛未、これらの使者に宴楽と賜物を与え、官位を授け、酋長たちには璽書を下して、右領軍中郎将安永寿を使者に立てて答礼させた。

甘泉宮での宣言

  • 壬申、太宗は漢の故甘泉宮に幸した。
  • そこで詔を出し、唐の創業以来、戎狄が禍乱の種であったが、自分が偏師を出して頡利を捕え、さらに延陀を滅ぼした結果、鉄勒百余万戸が北海の地に散在しながらも遠く使者を送り、州郡の編制に入りたいと願ってきた、これは古来未聞の盛事であるから、礼を整えて宗廟に告げ、天下に布告せよと命じた。

西方巡幸から霊州到着

  • 庚辰、涇州に至り、丙戌には隴山を越え、西瓦亭で馬牧を観閲した。
  • 九月、太宗は霊州に到着した。勅勒諸部の俟斤らが次々に使者を送ってきて、その数は数千人に達し、みな「天至尊がわれらの天可汗となってくれるなら、子孫に至るまで奴として仕えたい」と述べた。
  • 甲辰、太宗はこのことを詩にして、その序で雪辱・除凶の意を述べた。公卿はこれを霊州に勒石するよう請い、許された。

蕭瑀の失脚

  • 特進・同中書門下三品・宋公の蕭瑀は、性格が狷介で、同僚としばしば衝突した。あるとき太宗に、房玄齢は中書門下の諸臣と党を結び、不忠で、権勢に執着している、まだ反していないだけだと訴えた。
  • 太宗は、人主は賢臣を心腹として用いる以上、長所を取って短所を捨てねばならず、そこまで疑うのは言い過ぎだと退けた。蕭瑀は内心面白くなく、その後もしばしば意に逆らったため、太宗も腹に含んだ。
  • 以前、太宗が張亮に「仏を信じるなら出家してはどうか」と言ったことがあり、蕭瑀はこれを受けて自分も出家したいと言った。太宗が承知すると、蕭瑀はすぐに思い直して取りやめた。こうした反覆が群臣の前で目立った。
  • やがて足の病と称して朝に出なかったり、朝堂まで来ても参内しなかったりしたので、太宗はその不満を知った。
  • 冬十月、太宗は手詔を出し、梁武帝・簡文帝が仏法に溺れて国家を滅ぼしたことを引きながら、蕭瑀は亡国の余習を踏襲し、公より私を先にし、俗身でありながら口では道を説き、出家を願ってまた翻すなど、国家の柱石たる器量に欠けると厳しく非難した。そして商州刺史に左遷し、封爵も削った。

高麗再討議

  • 太宗が高麗から帰った後、蓋蘇文はますます驕慢となり、表を奉ってきても言辞はおおむね虚飾に満ち、唐使にも無礼で、辺境の隙をうかがった。新羅を攻めるなとたびたび命じても侵凌をやめなかった。
  • 壬申、太宗は高麗の朝貢を受けず、改めて討伐を議するよう命じた。
  • 丙戌、車駕は京師へ帰った。

十一月・政務の簡略化

  • 己丑、太宗は霊州往復の寒気と疲労を理由に、その年の暮れまでは養生に専念したいとして、祭祀・表疏・胡客・兵馬・宿衛・魚契・駅伝などの重要案件、五品以上の官任命と死罪の処分のみ自らに奏上させ、それ以外はすべて皇太子に処分させるよう詔した。

十二月・鉄勒諸部の朝見

  • 己丑、群臣が重ねて封禅を請い、太宗もこれを許し、洛陽宮へ送る羽衛の準備を命じた。
  • 戊寅、回紇の俟利発吐迷度、僕骨の俟利発歌濫抜延、多濫葛の俟斤末、拔野古の俟利発屈利失、同羅の俟利発時健啜、思結の酋長烏碎、渾・斛薛・奚結・阿跌・契苾・白霫の酋長らがそろって来朝した。
  • 庚辰、太宗は芳蘭殿で宴を賜い、五日ごとに集会を開くよう命じた。

太宗の誕生日と孝の感慨

  • 癸未、太宗は長孫無忌らに、今日は自分の誕生日だが、世俗がこれを楽しむのに対し、自分にはかえって悲しみが湧くと言った。天下を有しても、父母の膝下で歓を承けることは二度とできない、これは子路が親のために米を背負えなくなったことを嘆いたのと同じだとして、『詩経』の句を引き、なぜ父母の劬労の日を宴楽の日とせねばならぬのかと涙を流した。左右も皆悲しんだ。

房玄齢の復帰

  • 房玄齢は以前、わずかな譴責で自宅に退いていた。褚遂良は上疏し、玄齢は義兵の初めから太宗を助け、武徳末には危険を冒して決策し、貞観初年には人材登用と政治刷新に最も功があった、赦しがたい罪でない限り遠ざけるべきではなく、老いたから退けるとしても礼をもって致仕させるべきだと論じた。
  • 太宗はすぐに房玄齢を呼び戻した。しばらくして玄齢はまた位を避けて帰宅したが、さらに時を経て太宗が芙蓉園に幸したとき、玄齢は子弟に門庭を掃き清めさせて行幸を待った。ほどなく太宗は果たしてその家に立ち寄り、玄齢を車に乗せて宮中へ連れ帰った。