資治通鑑唐紀十四 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之上 貞觀 二十一年 647年
正月・高士廉の死
- 春正月、開府儀同三司・申文献公高士廉の病が篤くなった。辛卯、太宗はその邸に赴き、涙を流して別れを告げた。翌壬辰に高士廉が薨じると、太宗は自ら弔いに行こうとした。
- 房玄齢は、太宗の病がまだ癒えきっていないので諫めたが、太宗は高士廉は単なる君臣ではなく、旧知であり姻戚でもあるのだから、喪を聞いて哭しないわけにはいかないとした。
- 左右を率いて興安門から出ようとすると、喪所にいた長孫無忌が知らせを聞いて出迎え、金石の薬を服している身であり、宗廟と天下のためにも自重すべきだと馬前で固く諫めた。さらに、高士廉は臨終に際して、遺体を北首にして夷衾をかけたままの所へ皇帝をお迎えすることを深く望まなかったとも告げた。
- それでも太宗は聞き入れず進もうとしたが、無忌が中道に伏して泣きながら止めたため、ようやく引き返し、東苑から南を望んで雨のように涙を流した。
- 柩が横橋を出ると、太宗は長安故城西北の楼に登ってこれを見送り、慟哭した。
鉄勒諸部の州府編成
- 丙申、太宗は回紇部を瀚海府、僕骨を金微府、多濫葛を燕然府、拔野古を幽陵府、同羅を龜林府、思結を盧山府とし、いずれも都督府とした。
- また、渾を皋蘭州、斛薛を高闕州、奚結を鶏鹿州、阿跌を鶏田州、契苾を榆溪州、思結の別部を蹛林州、白霫を寘顔州とした。各部の酋長をそのまま都督・刺史に任じ、金銀・絹帛・錦袍を賜った。
- 鉄勒諸部は大いに喜び、土埃の中で捧げ戴きつつ歓呼し、舞って帰った。太宗は帰路に天成殿で十部楽を設けて送別した。
- 諸酋長は、自分たちはすでに唐の民であり、天至尊のもとへ往来するのは父母に会うようなものだとして、回紇以南・突厥以北に道を開き、「参天可汗道」と名づけて六十八駅を設け、馬と酒肉を備えて往来の使者に供したいと請願した。毎年の租税として貂皮を納め、さらに表疏を作る文人の派遣も願った。太宗はすべて許した。
- こうして北荒はほぼ平定されたが、回紇の吐迷度はすでにひそかに可汗を称し、官号も突厥の旧制を用いていた。
封禅の準備
- 丁酉、翌年仲春に泰山で封禅し、社首山に禅する詔が下された。儀礼は貞観十五年の議に準じることとなった。
高麗再征の方針転換
- 二月丁丑、太子が国学で釈奠を行った。
- 太宗は高麗再征を考えていたが、朝議では、高麗は山に依って城を築き、一朝一夕には落とせない、前回の親征では農事が妨げられ、占領地の穀物も尽き、旱魃も重なって国人の半数近くが食に困ったと指摘された。
- そのため、今後は少数の別働隊を交替で送り、境界地帯を絶えず攪乱し、高麗に農具を捨てて堡塁に籠もらせれば、数年で千里は荒廃し、人心も離れるので、鴨緑江北岸は大戦なしでも取れるだろうと論じられた。太宗はこれに従った。
三月・高麗への海陸攻勢
- 三月、左武衛大将軍牛進達を青丘道行軍大総管とし、右武候将軍李海岸を副将として、一万余人を率いさせ、楼船で萊州から海路高麗へ向かわせた。
- 同時に太子詹事李世勣を遼東道行軍大総管とし、右武衛将軍孫貳朗らを副え、営州都督府の兵三千を新城道から入らせた。両軍には水戦・戦闘に習熟した兵が選ばれて配属された。
- 辛卯、太宗は、自分が古人にできなかった異族征服を成しえたのは、人々の望むところに従ったからだと述べた。禹王が山を削り木を伐って河川を海へ導いても民に怨まれなかったのは、民心と地勢に従い、利益を共有したからだという。
翠微宮の造営
- この月、太宗は風疾を得て、京師の暑さを苦にした。夏四月乙丑、終南山の太和廃宮を修して翠微宮とするよう命じた。
- 丙寅には燕然都護府を置き、瀚海など六都督府と皋蘭など七州を統轄させた。揚州都督府司馬李素立を都護に任じると、彼は恩信をもって撫し、夷落は感服した。馬牛を贈ってきても、酒一杯のみ受けて、ほかは返した。
五月・張昌齢と王師旦
- 五月戊子、太宗は翠微宮に幸した。冀州進士張昌齢が翠微宮頌を献じ、その文を太宗は賞して、通事舎人の列に供奉させた。
- もともと張昌齢と王公治はともに文章で名高かったが、考功員外郎王師旦が知貢挙を務めたとき、この二人を落第させ、朝廷中がその理由を知らなかった。
- 合格者名簿を見た太宗が二人の名がないのを怪しんで問うと、王師旦は、二人はたしかに辞華はあるが体裁が軽薄で、将来大器にならない。高位で登用すれば後進がこれに倣って雅正の道を損なうと答えた。太宗はその判断を是とした。
太子への政務上奏の復活
- 壬辰、百司は従来どおり皇太子にも奏事するよう詔が出た。
翠微殿での自評
- 庚辰、太宗は翠微殿で侍臣に問いかけた。古来の帝王は中夏を平定しても戎狄を服させることはできなかったのに、自分は古人に及ばぬ才でそれ以上の成果を得たのはなぜか、と。
- 群臣は天地に比すべき功徳だと称えたが、太宗はそうではなく五つの理由があるとした。すなわち、人の善を我がことのように喜び、短を捨て長を取ること、賢者を敬い不肖を憐れんでそれぞれ所を得させること、正直の士を嫌って密かに誅罰しないこと、夷狄を中華と同じく愛すること、である。
- 褚遂良に「史官を務めたことのある卿から見て、これは事実か」と問うと、遂良は、陛下の盛徳は尽くしがたく、この五事だけに自ら限定するのは謙遜にすぎると答えた。
李世勣の高麗遠征
- 李世勣の軍は遼河を渡って南蘇など数城を歴訪し、高麗軍はしばしば城を背にして抗戦したが、李世勣はこれを撃破し、外郭を焼いて帰還した。
六月・長孫無忌と李緯
- 六月癸亥、司徒長孫無忌を揚州都督に任じたが、実際には赴任させなかった。
- 丁丑、隋末の乱で異族にさらわれた辺民がまだ多いことから、鉄勒諸州へ使者を送り、都督と連絡して流落の人々を探し、財貨で贖って食糧を与え、本貫へ送り返すよう命じた。室韋・烏羅護・靺鞨三部の人で薛延陀に掠われた者についても同様に返還させた。
- 癸未、司農卿李緯を戸部尚書にした。ところが、京師から来た者が房玄齢はただ「李緯はひげが見事だ」と評したのみだと告げたため、太宗はたちまち李緯を洛州刺史へ改任した。
七月・高麗への継続攻撃
- 秋七月、牛進達・李海岸は高麗領内で百余戦して一度も敗れず、石城を攻め落とし、積利城まで進んだ。高麗兵一万余が出戦すると、李海岸がこれを破って二千級を斬った。
- 太宗は翠微宮が手狭で百官を収容しきれないことから、庚子、宜春県の鳳皇谷に新たに玉華宮を造営するよう命じた。
- 庚戌、車駕は宮城へ還った。
八月・封禅延期と骨利幹
- 八月壬戌、薛延陀の新規帰附や土木工事が相次ぎ、さらに河北の水害もあったため、翌年予定していた封禅を延期した。
- 辛未、骨利幹が使者を送って入貢した。丙戌、その地を玄闕州とし、俟斤を刺史に任じた。
- 骨利幹は鉄勒諸部の中で最も遠方にあり、昼が長く夜が短い土地で、日没後に羊の脾を煮るとちょうど煮えるころにはまた日が出るほどだと伝えられた。
段志沖の上封事
- 己丑、斉州の段志沖が上封事し、太宗は帝位を皇太子に譲るべきだと述べた。太子はこれを聞いて深く憂え、涙して言葉も少なくなった。
- 長孫無忌らは段志沖を誅すべきだと請うたが、太宗は手詔で、五岳や四海が汚れを容れても大きさを損なわないように、匹夫の言葉が天子を傷つけるものではない、もし自分に罪があればそれは直言であり、罪がなければ狂言にすぎないとして赦した。
皇子冊立と高麗遠征準備
- 丁酉、皇子李明を曹王に立てた。李明の母は巣刺王元吉の妃であった楊氏で、太宗の寵愛を受けていた。文徳皇后の崩後、太宗はこの楊氏を皇后に立てようと考えたことがあったが、魏徴が辰嬴の例を引いて強く諫めたため取りやめ、のち李明を元吉の後継とした。
- 戊戌、宋州刺史王波利らに命じ、江南十二州の工人を徴発して大船数百艘を造らせ、高麗遠征に備えさせた。
十月・辺地の帰附
- 冬十月庚辰、奴刺啜匐俟友がその部衆一万余を率いて内附した。彼らは吐谷渾と党項の間に住む部族である。
十一月・車鼻可汗
- 十一月、突厥の車鼻可汗が使者を送って入貢した。車鼻は斛勃といい、もとは突厥の同族で代々小可汗を称していた。頡利滅亡後、突厥の残衆は彼を大可汗に推そうとしたが、薛延陀が強大であったため受けなかった。
- その後、薛延陀では車鼻が名望と武略を備えた貴種で衆望を集めているので後患になると疑い、殺そうとした。車鼻はこれを知って逃げ、薛延陀の数千騎を破ると、金山北方に牙帳を建て、自ら乙注車鼻可汗を称した。突厥残党も次第に集まり、数年で三万の精兵を持つようになった。
- 薛延陀が滅ぶと勢いはさらに増した。車鼻は子の沙鉢羅特勒を入朝させ、自分も参朝すると願った。太宗は将軍郭広敬を派遣して来朝を促したが、車鼻は口先だけの好辞を述べただけで、結局来なかった。
王泰の移封と朝政復帰
- 癸卯、順陽王李泰を濮王に移封した。
- 壬子、太宗の病が癒え、三日に一度は自ら朝をみるようになった。
十二月・西南と西域
- 十二月壬申、西趙の酋長趙磨が一万余戸を率いて内附し、その地を明州とした。
- 龜茲王伐疊が死に、弟の訶黎布失畢が立ったが、次第に臣礼を失い、近隣諸国を侵奪した。太宗は怒り、戊寅、左驍衛大将軍阿史那社爾を副大総管、左驍衛大将軍契苾何力、安西都護郭孝恪らを配して、崑丘道行軍大総管のもと西征させ、あわせて鉄勒十三州、突厥、吐蕃、吐谷渾にも兵を出させて討たせた。
- 高麗王はその子で莫離支の任武を遣わして謝罪させた。太宗はこれを許した。