資治通鑑唐紀十四 太宗文武大聖大廣孝皇帝下之上 貞觀 十九年 645年
六月・白巖城の降伏と処置
- 六月丁酉、李世勣が白巖城を攻め、太宗も城の近くで戦況を見守った。城主の孫代音は腹心をひそかに送り、降伏の意思を伝え、唐の旗を城上に立てることを合図とした。これを見た城中の人々は唐軍がすでに突入したと思い、そろって従った。
- もともと白巖城は遼東城陥落時にもいったん降伏を申し出ながら翻意しており、太宗はその反復を怒って、もし攻め落とせば人も財も兵士に与えると言っていた。これに対し李世勣は、兵士は戦利品を期待して命がけで戦っているのだから、ここで降伏を受ければ士気を損なうと諫めた。
- 太宗は李世勣の言を正しいと認めつつも、無差別の殺戮や妻子の略奪には耐えられないとして、戦功者には官庫の物資を与えてこの一城を買い戻したいと述べた。こうして白巖城は降り、城中の男女一万余人は助命された。
- 太宗は水辺に幕を張って降人を受け入れ、食を与え、八十歳以上の者には絹を年齢に応じて賜った。他城から白巖に来ていた兵も慰撫して食糧と武器を与え、去就を自由にした。
- 先に遼東城で長史が部下に殺され、その省事が長史の妻子を守って白巖へ逃れていた。太宗はその義をあわれみ、絹を与え、長史のために霊車を作らせて平壌へ送り返した。
- 白巖城を巖州と改め、孫代音を刺史に任じた。
契苾何力の負傷と太宗の対応
- 契苾何力は重傷を負っていたため、太宗は自ら薬を塗ったうえ、何力を刺した者を探し出させた。犯人は高突勃で、何力に引き渡され、自害を命じられた。
- しかし何力は、その者は主君のために白刃を冒して自分を刺したのであり、忠義と勇気のある人物で、自分と私怨があるわけではないとして助命した。
捕虜の帰還と州の設置
- 以前、莫離支が加尸城から七百人を葢牟城守備に送っていたが、李世勣はこれをことごとく捕らえた。彼らは唐軍に加わって働きたいと願ったが、太宗は家族が加尸にいる以上、唐のために戦えば妻子が殺されるだろうとして、ひとりの力を得るため一家を滅ぼすのは忍びないとし、戊戌に食糧と賜物を与えて帰した。
- 己亥、葢牟城を葢州とした。
遼東から安市へ進軍
- 丁未、車駕は遼東を発し、丙辰に安市城へ到着した。唐軍はそのまま攻囲に入った。
- 丁巳、高麗北部の耨薩である高延寿・高恵真が、高麗兵と靺鞨兵あわせて十五万を率いて安市救援に来た。
太宗の敵情判断
- 太宗は側近に対し、高延寿に三つの策があると論じた。安市と連携して山険を頼み、城中の糧を用い、靺鞨に唐軍の牛馬を荒らさせて持久戦に持ち込むのが上策、城兵を連れて夜に退くのが中策、実力を量らず正面決戦に出るのが下策であるとした。
- そして高延寿らは必ず下策をとるから、自分の目の前で捕らえることになるだろうと言い切った。
- 実際、高麗の老練な対盧は、唐太宗は内に群雄を平らげ外に異族を服させた非常の人物であり、正面から戦ってはならない、持久戦で補給路を断つべきだと進言したが、高延寿は従わなかった。
誘敵と布陣
- 高延寿軍がなお逡巡して来ないことを恐れた太宗は、左衛大将軍阿史那社爾に突厥千騎を率いさせて誘い出させた。接触すると唐軍は偽って退き、高麗側は唐軍は与しやすいと思いこんで追撃し、安市城の東南八里、山を背にして陣した。
- 太宗は諸将を集めて策を問うた。長孫無忌は、諸営を見て回ったところ士卒は皆喜び勇んでおり、必勝の兵だと述べ、今日の成否は太宗の判断にかかっていると請うた。
- 太宗は長孫無忌らとともに少数騎兵で高所にのぼって地形を視察し、伏兵や進退の要所を見定めた。敵の陣は四十里にも及んだ。
- 江夏王李道宗は、平壌の守りは手薄なはずなので精兵五千を与えて本拠を突けば、十数万の敵は戦わずして降るだろうと献策したが、太宗は採用しなかった。
- そのうえで太宗は使者を送り、「高麗では強臣が主君を弑したのでそれを問罪するため来たのであり、戦いは本意ではない。占領した城も、臣礼を尽くせば返還する」と欺いた。高延寿はこれを信じて警戒を解いた。
駐驆山の大勝
- 夜、太宗は文武を召して作戦を決めた。李世勣に歩騎一万五千で西嶺に布陣させ、長孫無忌には精兵一万一千を与えて山北の狭谷から出て敵の後背を突かせ、自身は歩騎四千で太鼓と角笛を率い、旗を伏せて北山に登った。鼓角が鳴れば全軍一斉に攻めかかる手はずとし、朝堂の傍らには降伏を受ける幕まで張らせた。
- 戊午、高延寿らは李世勣の陣だけを見て戦おうとしたが、太宗が無忌軍の土煙を確認して鼓角・旗幟をあげると、唐軍は四方から鼓噪して攻め込んだ。高麗軍は大いに動揺し、分兵しようとしても陣はすでに乱れていた。しかも雷電まで起こった。
- この戦いで薛仁貴が異彩を放った。龍門の出身で、目立つ装束を身につけて大声で敵陣に突入し、向かうところ敵を圧倒した。高麗兵は総崩れとなり、唐軍は首二万余を斬った。太宗は仁貴を見て召し出し、游撃将軍に任じた。
- 高延寿らは残兵で山に拠って固まったが、長孫無忌が橋を撤去して退路を断った。
敵将の降伏と戦後処理
- 己未、高延寿・高恵真は三万六千八百人を率いて降伏した。軍門に入ると膝で進み、地に伏して命を請うた。
- 太宗は、若い東夷が海辺で跳梁しても、堅陣を砕いて勝敗を決する段になると老練者には及ばない、と言い、今後なお天子に戦いを挑むのかと問いかけた。彼らは答えられなかった。
- 太宗は耨薩以下の酋長三千五百人を選び、軍職を授けて内地へ移した。その他の者は皆帰国を許し、彼らは平壌へ戻ることになって歓呼した。
- 靺鞨兵三千三百人は坑殺された。馬五万、牛五万、鉄甲一万領、そのほか多数の兵器を得た。
- この大敗で高麗全国は恐れおののき、後黄城・銀城などは自ら放棄して逃げ去り、数百里にわたり人煙が絶えた。
- 太宗は太子や高士廉らに急使で戦勝を知らせ、自らの用兵ぶりはどうかと書き送った。また戦場近くの山を「駐驆山」と改名した。
七月・安市攻囲の継続
- 七月辛未、太宗は安市城東の嶺へ移営した。己卯には、戦死者の遺体に標識を付け、帰還の際にともに連れ帰るよう命じた。
- 戊子、高延寿を鴻臚卿に、高恵直を司農卿に任じた。
- 張亮の軍は建安城の下を通過した際、陣がまだ固まらぬうちに兵の多くが薪刈りや放牧に出ており、高麗軍の急襲を受けて騒然となった。張亮はもともと臆病だったが、胡床にすわったまま黙して動かなかったため、かえって将兵には胆力あるように見えた。総管張金樹らが鼓を打って兵を整え、高麗軍を破った。
八月・諜者への寛大な対応
- 八月甲辰、候騎が莫離支の間者・高竹離を捕え、腕を後ろ手に縛って連れてきた。太宗は召して縛を解かせ、痩せている理由を尋ねた。竹離は、密かに道をたどって来たため何日も食べていないと答えた。
- 太宗は食を与えたうえ、「様子を知りたいなら、わざわざ潜入せずまっすぐ私の所へ人をよこせ」と莫離支への伝言を託した。竹離が裸足であるのを見て履物まで与え、送り返した。
遼東での軍規と薛延陀の動き
- 丙午、軍は安市城南に移った。太宗は遼東遠征中、陣営では見張りこそ厳重にしたが、壕や塁をほとんど築かなかった。城に迫っていても高麗側はついに出てきて襲撃できず、兵士が単独行動や野宿をしても中国内地にいるようであった。
- 遠征に際して薛延陀が朝貢の使者を送ると、太宗は「今、父子で東征している。もし侵攻するつもりなら早く来い」と挑発した。真珠可汗はおそれて謝罪し、援軍派遣まで願ったが、太宗は許さなかった。
- 駐驆山で高麗が敗れると、莫離支は靺鞨を通じて真珠可汗を厚利で誘おうとしたが、真珠は唐の威勢を恐れて動けなかった。
- 九月壬申、真珠可汗が死去し、太宗は弔意を表した。生前、庶長子の曵莾を東方の突利失可汗、嫡子の抜灼を西方の肆葉護可汗にしようと願っており、唐はそれを冊命していた。
- しかし曵莾は粗暴で兵を軽く用い、抜灼とも不和であった。真珠の葬儀後、曵莾が先に帰ると、抜灼が追ってこれを殺し、自ら頡利俱利薛沙多彌可汗を称した。これは薛延陀崩壊の前兆となった。
安市攻略をめぐる方針論争
- かねて太宗は李世勣に、安市は険しく城主も勇敢で、莫離支ですら押さえきれない。一方、建安は兵弱く糧も少ないから、先に建安を攻めて落とし、そのあと安市を包囲するのが兵法にかなうと語っていた。
- 李世勣は、糧道が遼東にあり、安市を越えて建安を攻めれば補給路を断たれる危険があるため、まず安市を取ってから進むべきだと主張した。太宗は将として用いる以上、その策に従うとした。
- こうして安市攻囲が始まったが、城兵は太宗の旗を見るたびに城上で鼓噪した。太宗が怒ると、李世勣は落城の日には男女とも埋めてしまうと言ったため、城中はそれを聞いていっそう死守した。
- 高延寿・高恵真は、すでに高麗の大軍は太宗の旗の前に崩れ、国中の胆は砕けている、老耄の守る烏骨城を急襲すれば一夕で落とせ、その後は小城も風に靡いて、平壌も守れまいと勧めた。群臣の一部も、張亮軍を呼び寄せればすぐ合流できるので、いまこそ烏骨城から鴨緑水を渡って平壌へ進む好機だと進言した。
- 太宗はこれに傾きかけたが、長孫無忌だけは、天子自らの遠征で危険な賭けに出るべきではない、建安・新城方面にはなお敵兵が多く、烏骨へ向かえば背後を衝かれるとし、まず安市を下して建安を取り、その後に長駆するのが万全だと述べた。太宗はこれを容れて中止した。
安市攻囲の激戦
- 包囲が長引くなか、太宗は城中から鶏や豚の鳴き声が大きく聞こえるのを察し、これは兵を饗応して夜襲を図る兆しだと見抜き、厳戒を命じた。その夜、果たして高麗兵数百人が城壁を縄で下りて来たが、太宗は自ら城下へ赴いて急撃し、数十級を斬って退けた。
- 江夏王李道宗は城東南隅に土山を築かせてじわじわと城に迫った。城内も壁を高くして応じ、双方は日に六、七度も衝突した。衝車や投石で楼堞を壊すと、城中はすぐ木柵を立てて穴を塞いだ。
- 李道宗は足を傷め、太宗が自ら針を施した。土山工事は昼夜続き、六十日ほどで五十万人分の労役を費やしたとされる。山頂は城に数丈まで迫り、城内を見下ろすほどになった。
- 李道宗は果毅の傅伏愛に兵を率いさせて山頂を守らせたが、土山が崩れて城を圧し、城壁も損じた際、伏愛が勝手に持ち場を離れた。すると高麗兵数百人が破口から出て土山を奪い、塹を掘って守った。
- 太宗は怒って傅伏愛を斬り、諸将に奪回を命じたが、三日攻めても取り返せなかった。李道宗は裸足で軍旗の下に来て罪を請うた。太宗は、本来なら死罪だが、漢武帝が王恢を殺した失策よりは秦穆公が孟明を再用した故事に倣うべきであり、しかも道宗には葢牟・遼東を破った功もあるとして赦した。
班師
- 遼東では寒さが早く、水も凍り草も枯れ、兵馬を長くとどめられず、食糧も尽きかけていた。癸未、太宗は撤兵を命じ、まず遼州・葢州の戸口を遼水の西へ渡し、その後、安市城下で軍容を示してから引き揚げた。城中は息をひそめて出てこなかった。
- 城主は城上から太宗に拝辞した。太宗はその堅守を嘉して絹百匹を与え、主君に仕える者への励ましとした。
- 李世勣と江夏王李道宗には歩騎四万を率いて殿軍を務めさせた。
撤退路の苦難と戦後総括
- 乙酉に遼東へ、丙戌には遼水を渡った。遼澤は泥深く、車馬が進めなかったため、長孫無忌に一万人を与えて草を刈って道を埋め、水の深いところには車を橋代わりに並べさせた。太宗自身も薪を馬鞍にくくりつけて土木作業を助けた。
- 冬十月丙申朔、蒲溝に着くと、太宗は馬を止めて自ら道路工事を督励した。諸軍が渤錯水を渡る際には暴風雪に遭い、多くの兵士が濡れて死んだため、道に火を焚いてこれを救わせた。
- 今回の高麗遠征で、唐は玄菟・横山・葢牟・磨米・遼東・白巖・卑沙・麦谷・銀山・後黄の十城を落とし、遼・葢・巖三州から中国へ移した戸口は七万であった。一方、新城・建安・駐驆の三大戦では首四万余を斬ったが、唐軍戦死者もおよそ二千、戦馬は十の七、八を失った。
- 太宗はついに成功しなかったことを深く悔い、「魏徴が生きていれば自分にこの遠征をさせなかっただろう」と嘆き、駅使を飛ばして少牢で祭らせ、以前倒していた自製の碑も再建し、魏徴の妻子を行在所へ呼んで慰労と褒賞を与えた。
帰路・薛仁貴の抜擢と民の処遇
- 丙午、営州に着いた。遼東で戦死した兵士たちの遺骨は柳城東南に集められ、太宗は自ら祭文を作って太牢の礼で弔い、哭礼を尽くした。遺族は、わが子は天子に泣いてもらえたのだから思い残すことはないと言った。
- 太宗は薛仁貴に、諸将はみな老いているので新たな驍勇の将を得たい、遼東を得たことより卿を得たことが嬉しいと語った。
- 丙辰、太子が出迎えに来ると聞いた太宗は、飛騎三千を率いて先に臨渝関へ馳せた。出征時に着ていた褐袍を、太子に会うまでは着替えないと約しており、遼東で盛暑に汗を流しても着替えず、秋には破れてもなお替えなかったが、このとき太子が新衣を献じてようやく着替えた。
- 唐軍が捕らえた高麗民一万四千人は、いったん幽州に集めて兵士への褒賞に回す予定だった。しかし太宗は父子・夫婦の離散をあわれみ、官に命じて相当額を銭布で支払い、全員を買い戻して民とした。歓声は三日やまなかった。
十一月・定州までの帰還
- 十一月辛未、車駕は幽州に到着した。高麗民は城東で迎え、地に伏して泣き叫び、土煙が見渡す限りに立つほどであった。
- 庚辰、易州を通過した際、司馬陳元璹が地室に火を蓄えて野菜を育て、旬に先んじて進上した。太宗はそれを媚びへつらいと嫌って免官した。
- 丙戌、定州に至った。丁亥、吏部尚書楊師道は人事登用に適材でない者が多かった罪で工部尚書へ左遷された。
- 壬辰、太宗は定州を発った。
十二月・太宗の病と薛延陀防備
- 十二月辛丑、太宗は癰を患い、歩輦に乗って進んだ。戊申に并州へ着くと、太子は自ら腫れを吸い、輦を支えて数日歩いて従った。辛亥、太宗の病が癒え、百官が祝賀した。
- 高麗遠征中、右領軍大将軍執失思力は突厥兵を率いて夏州北方に駐屯し、薛延陀に備えていた。真珠可汗の死後、多彌可汗が立つと、太宗不在を見て河南の地へ侵入した。
- 太宗は左武候中郎将田仁会を遣わして執失思力と合流させた。思力はわざと弱く見せて退き、夏州境で陣を整えて待ち、薛延陀を大破した。六百余里追撃して磧北まで威を示して帰還した。
- 多彌は再び夏州を寇したため、己未、礼部尚書江夏王道宗に朔・并・汾・箕・嵐・代・忻・蔚・雲の九州兵を率いさせて朔州に、右衛大将軍薛万徹と阿史那社爾には勝・夏・銀・綏・丹・延・鄜・坊・石・隰の十州兵を率いさせて勝州に、勝州都督宋君明と薛孤呉には霊・原・寧・塩・慶の五州兵を率いさせて霊州に、それぞれ鎮させた。さらに執失思力にも霊州・勝州の突厥兵を発して呼応させた。薛延陀は国境に来たが、備えがあると知って深入りしなかった。
劉洎の死
- この遠征の際、侍中劉洎は定州に残され、皇太子を補佐し、左庶子を兼ね、民部尚書を検校して、さらに吏部・礼部まで総覧した。
- 出征前、太宗は劉洎に「自分は遠征に赴く。太子をよく補佐して、こちらの意を深く理解せよ」と言った。すると劉洎は「大臣に罪ある者があれば、ただちに誅します」と答えた。太宗は軽率な発言だと不審に思い、卿は性が疎でせっかちだから、必ずこの点で身を滅ぼすだろう、慎めと戒めた。
- のちに太宗の病が重くなると、劉洎は宮中から出て同僚に、病勢は深刻で天子の身が心配だと語った。すると讒言する者が現れ、劉洎は「国家のことは憂えるに足りない。ただ幼主を補佐し、伊尹・霍光のように異志ある大臣を誅せばよい」と言ったと太宗に告げた。太宗はこれを真に受けた。
- 庚申、詔して、劉洎はひそかに国家をうかがい、朝政を握って伊霍になろうとし、大臣を疑って誅そうとしているとして、自尽を命じた。妻子は赦された。
- 中書令馬周は吏部尚書を摂し、四季ごとの選挙が煩わしいので十一月から三月までにまとめて終えるよう願い、認められた。
年末のその他の出来事
- この年、右親衛中郎将裴行方は、茂州で反乱した羌の黄郎弄を大破し、残党を弱水のほとり、乞習山まで追ってから帰還した。