資治通鑑唐紀十三 太宗文武大聖大廣孝皇帝 貞觀 十八年 644年

春正月 高麗への使節と太宗の討伐決意

  • 乙未、太宗は鍾官城に幸し、さらに鄠県、驪山温湯へと巡幸した。
  • 相里玄奨が平壌に着いたとき、莫離支の蓋蘇文はすでに兵を率いて新羅を攻め、二城を破っていた。高麗王の命でいったん呼び戻されると、玄奨は新羅侵攻をやめるよう説いた。
  • これに蓋蘇文は、隋が高麗へ侵攻した際、新羅がその隙に高麗の土地五百里を奪ったのだから、返還されぬ限り戦をやめないと言った。
  • 玄奨は、過去の事を今さら蒸し返すべきではないし、遼東の諸城はもともと中国の郡県であったが、中国もそれをことさらに言い立てないのだから、高麗も故地返還を主張すべきでないと反論した。しかし蓋蘇文は聞き入れなかった。
  • 二月乙巳朔、玄奨が帰還して事情を報告すると、太宗は、蓋蘇文は君主と大臣を害し民を虐げ、さらに詔命にも背いて隣国を侵しているので、討たないわけにはいかないと述べた。
  • 褚遂良は、海を渡って小国を遠征するのは危険が大きく、たとえ勝てても万一躓けば威望を損ない、さらに憤兵を起こすことになって安危は測りがたいと諫めた。
  • これに対し李世勣は、以前薛延陀を討とうとした時に魏徴が止めたため後患を残した、当時皇帝の策を用いていれば北辺は安まっていたと述べた。太宗も、あれは魏徴の誤りであり自分も後悔していると応じた。
  • 太宗は親征を望み、褚遂良は再び、天下を一身にたとえるなら両京は心腹、州県は四肢、四夷は身外の物にすぎず、高麗討伐は将軍数名に兵数万を授ければ足りる、太子も新しくまだ幼いのに天子自ら遼海を越えるのは危ういと上疏したが、太宗は聞かなかった。
  • 太宗は、時機を得ることが肝要であり、蓋蘇文は上下を虐げて民も救いを待っている、今こそ高麗が亡ぶべき時だと語った。

二月から四月 諸将・太子・九成宮

  • 己酉、太宗は霊口に幸し、乙卯に宮へ帰った。
  • 三月辛卯、薛万徹が右衛大将軍の守に任じられた。太宗は、当今の名将は李世勣・李道宗・薛万徹の三人のみであり、前二者は大勝も大敗も少ないが、薛万徹は大勝するか大敗するか両極端だと評した。
  • 四月、両儀殿で太宗は群臣に、太子の性行は外でも聞こえているかと問うた。長孫無忌は、太子は宮門を出なくとも天下はその徳を仰いでいると答えた。
  • 太宗は、自分は晋王治ほどの年頃にはまだ常軌を守れぬところがあったが、治は幼少より寛厚であると語り、成長すればさらによくなることを望んだ。長孫無忌は、太宗は乱世を開いた神武の主であり、太子は守成に向く仁恕の徳を備えるとして、両者の長所の違いを称えた。
  • 辛亥、太宗は九成宮へ向かい、壬子に太平宮へ着いた。人臣は顔色をうかがって迎合しがちで、面と向かって諫める者が少ないから、自分の過失を率直に言えと求めた。
  • 長孫無忌らがみな過失なしと答える中、劉洎は、意にそわぬ上書に対して面前で詰問するのは、言路を広げるやり方ではないと指摘した。馬周も、最近は賞罰にわずかに喜怒の差が出ていると述べ、太宗はこれを受け入れた。
  • 太宗は文章と弁舌を好み、臣下が政事を論ずると古今の故事を引いて言い負かすことが多かった。劉洎は上書で、聖主と凡人では能力差が大きいのだから、さらに機敏な弁舌で圧せられては臣下は応答できない、また多弁は心気を損なうとして自制を求めた。
  • 太宗は飛白で返書し、最近議論が多くなって軽率・驕慢に傾いていたかもしれない、忠言を聞いて改めたいと応じた。
  • 己未、安仁宮に至った。

秋七月 高麗遠征の準備

  • 辛卯、将作大監の閻立徳らを洪州・饒州・江州へ派遣し、軍糧輸送用の船四百艘を建造させた。
  • 甲午、営州都督の張倹らに、幽州・営州の兵と契丹・奚・靺鞨を率いて遼東を先に攻め、その反応をうかがわせた。
  • 韋挺を糧秣輸送使、崔仁師を副使とし、河北の諸州はすべてその節度を受けるようにした。また蕭瑀の子・蕭鋭には、河南諸州の糧を海路へ回送させた。

八月 群臣評定

  • 壬子、太宗は長孫無忌らに対し、人は自分の過失を自覚しにくいから、自分の欠点を指摘せよと言った。皆が避けたため、太宗の方から諸臣の長短を挙げて互いの戒めとすることにした。
  • 太宗は、長孫無忌は嫌疑を避けるのが上手く、物事への対応も速く決断力があるが、軍を率いて戦う才はないとした。
  • 高士廉は古今に通じ、心術も明らかで、節義を失わず朋党もしないが、骨のある直諫に欠けると評した。
  • 唐儉は弁舌と調整に優れるが、長年仕えながら政治の補佐に関する大きな献言がなかったとされた。
  • 楊師道は純和で過失もないが、実際には怯懦で、急難の際に頼みにしにくいとされた。
  • 岑文本は質朴で文章も巧み、議論は遠大で、期待を裏切らぬ人物だとされた。
  • 劉洎は最も堅貞で有益だが、朋友との約束を重んじすぎる傾向があるとされた。
  • 馬周は物事を見るのが早く、性格も正しく、人物評も率直で、近ごろの起用に十分こたえているとされた。
  • 褚遂良は学問が進み、性質も剛正で、忠誠心をもって親しく従ってくる様子は、人に寄る鳥のようで自然と愛おしく感じると評された。
  • 甲子、太宗は京師へ還った。
  • 丁卯、劉洎を侍中、岑文本を中書令、馬周を守中書令とした。
  • 岑文本は任命後、来客に対して、今は祝賀ではなく弔問を受ける気持ちだと言い、家でも重責を憂えた。
  • 弟の岑文昭は賓客好きで、太宗はその交遊が文本の累にならぬか心配し、外官に出そうかと相談した。文本が老母の寵愛深い弟で、離れれば母が耐えられないと涙ながらに訴えたため、太宗は思いとどまり、文昭本人だけを召して厳しく戒めた。結局、文昭に大過はなかった。

九月 西域・焉耆攻略、高麗との緊張

  • 九月、褚遂良が黄門侍郎となって朝政に参与した。
  • 焉耆が西突厥に傾き、その有力者・屈利啜が弟のために焉耆王女を娶らせたことで、唐への朝貢がしだいに疎かになった。郭孝恪は討伐を請い、唐はこれを認めた。
  • 郭孝恪は歩騎三千を率いて銀山道から進軍し、焉耆王の弟・頡鼻ら三兄弟が西州に来ていた機会を利用して、弟の栗婆準を案内役にした。
  • 焉耆城は四面を水で囲み、天然の要害を頼んで備えが薄かった。郭孝恪は倍速で進んで夜のうちに城下へ着き、兵に水を渡らせて明け方には城に登り、王・突騎支を捕え、首虜七千を得た。栗婆準を国政代行として残して撤退した。
  • 三日後、西突厥の屈利啜が救援に来たが間に合わず、栗婆準を捕えて精鋭五千で追撃してきた。郭孝恪は銀山でこれを破り、数十里追って勝った。
  • 辛卯、太宗は、郭孝恪の前報では八月十一日に出撃し二十日に着き二十二日に落城するはずで、使者も本日着くころだと言ったところ、話し終わらぬうちに捷報が届いた。
  • 西突厥の処那啜は吐屯を派遣して焉耆を代行支配させ、入貢してきたが、太宗は、唐が兵で焉耆を下したのに何者がそこを支配するのかと責めた。吐屯は恐れて退き、焉耆では栗婆準の従父兄・薛婆阿那支が王となり、なお処那啜に付いた。
  • 乙未、鴻臚寺が高麗の莫離支からの白金献上を奏上した。褚遂良は、蓋蘇文は弑逆の臣であり、その献上を受けるのは春秋で非難された郜の鼎を受ける類だとして拒否を主張した。太宗は従い、高麗使節に対して、汝らも高氏の恩を受けていたのに主君の仇を討たず、かえってその代弁をして大国を欺こうとする罪は重いと責め、全員を大理へ付した。

冬十月 洛陽行幸と高麗遠征の本格化

  • 辛丑朔、日食があった。
  • 甲寅、太宗は洛陽へ向かい、房玄齢を京師留守、李大亮を副とした。
  • 郭孝恪は焉耆王突騎支とその妻子を護送して行在所に着いたが、太宗はこれを赦した。
  • 丁巳、太宗は太子に、焉耆王は賢臣を求めず忠言も用いなかったため、遠く万里から束縛されて来る破目になったのだ、これを見て恐れを知るべきだと教えた。
  • 己巳、澠池の天池で狩猟を行った。
  • 十一月壬申、洛陽に至った。

十一月 高麗遠征軍の編成

  • かつて隋の煬帝に従って高麗を攻めた経験がある鄭元璹を召して意見を聞くと、遼東は遠く、兵站は困難で、東夷は守城に長けるから、急には落ちないと述べた。太宗は、今は隋の時代とは違うのだとして、その慎重論を退けた。
  • 張倹らの軍が遼水の増水で長く渡れずにいることを聞いた太宗は、臆病なのではないかと疑って洛陽へ召した。しかし張倹が道の険易・水草の状況などを詳しく説明すると、太宗も納得した。
  • 洛州刺史の程名振は兵法に明るいとして召し出され、その受け答えの機敏さを賞された。太宗はわざと怒って試したが、名振は動じず筋道立てて答えたため、まことの奇士だと称えて右驍衛将軍に抜擢した。
  • 甲午、張亮を平壌道行軍大総管として江淮・嶺峡の兵四万、さらに長安・洛陽の募兵三千と戦艦五百艘を率い、海路から平壌へ向かわせた。
  • また李世勣を遼東道行軍大総管とし、歩騎六万と蘭州・河州の降胡を率いて遼東へ向かわせた。両軍は呼応して進むこととなった。
  • 庚子、諸軍が幽州に大集結し、姜行本・丘行淹に命じて安蘿山で梯子や衝車など攻城具を造らせた。志願兵や器械献上者は非常に多く、太宗は自ら利便を検討して改良した。
  • 太宗はまた天下に手詔を出し、高麗討伐の名分として、隋煬帝の敗戦は暴政のゆえであり、今度は「大が小を撃つ」「順が逆を討つ」「治が乱に乗ずる」「逸が労を待つ」「喜ばれる者が怨まれる者に当たる」という五つの勝因があるから疑うなと諭した。

李大亮・承乾の死、突厥移住問題

  • 辛丑、武陽懿公李大亮が長安で死去した。遺表では高麗遠征の中止を求め、家には米五斛と布三十匹しか残っていなかった。孤児で彼に養われ、父のように喪に服した者が十五人もいた。
  • 壬寅、旧太子承乾が黔州で死去した。太宗はそのために朝を取りやめ、国公の礼で葬らせた。
  • 甲寅、諸軍に加え、新羅・百済・奚・契丹にも分道して高麗を攻めるよう命じた。
  • 以前、唐が俟利苾可汗を北へ帰して突厥旧部をまとめさせたことを、薛延陀の真珠可汗は非常に警戒していた。唐から互いに攻めるなとの命があっても、彼は、突厥はたびたび中国を犯してきた獣心の民であり、結社率の反乱もその証拠だ、自分が代わって討ちたいと述べた。
  • その後、俟利苾は十万の衆・四万の精兵を持ちながら統率に失敗し、人心を得られなかった。ついに戊午、部衆は俟利苾を捨てて南へ渡河し、勝州・夏州の間への居住を願い出た。太宗はこれを許した。
  • 群臣は、高麗遠征に出るのに突厥を黄河南岸へ置くのは京師にも近く危険だとして、太宗自身は洛陽にとどまり、諸将だけを東征させるべきだと勧めた。
  • しかし太宗は、夷狄もまた人であり、徳沢が及べば一家のようにできる、猜疑心が強ければ骨肉でも仇敵になるとし、隋の遼東遠征は暴政のため人が嫌って手足を切って逃げ、楊玄感の乱まで起きたのであって、異族のせいではない、今の出征は志願兵ばかりで隋とはまったく違うと語った。
  • さらに、突厥が北へ走らず薛延陀を避けて南に帰ってきたのが信頼の証拠であり、今後十五年は突厥の患いはないと褚遂良に記録させた。俟利苾は兵を失って軽騎だけで入朝し、太宗は右武衛将軍に任じた。

十九年正月への接続

  • 正月、韋挺は漕渠を事前に視察せず、米六百余艘が盧思台近くで浅瀬に阻まれて進めなくなった責任を問われ、洛陽へ護送されたのち除名された。李道裕が代任し、崔仁師も連座で免官された。