資治通鑑唐紀十 太宗文武大聖大廣孝皇帝 貞觀 九年 635年

正月から三月 党項・洮州羌の動き

  • 正月、先に唐へ帰属していた党項の諸部がみな叛き、吐谷渾へ戻った。
  • 三月、洮州の羌が叛いて吐谷渾へ入り、刺史の孔長秀を殺した。
  • 太宗は壬辰に天下へ赦令を出した。
  • 乙酉、高甑生が叛羌を討って破った。

民の資産等級の細分

  • 庚寅、従来は民の資産を三等に分けていたが、なお粗略であるとして九等に細分することを命じた。

太宗と魏徵の亡国論

  • 太宗は魏徵に、北斉後主と北周天元帝はいずれも重税で自らを養い、ついに国を滅ぼしたが、どちらがより劣るかと問うた。
  • 魏徵は、斉後主は柔弱で政権が多方面に分かれ、周天元は驕暴で権力を独占したが、亡国の君としては後主のほうがさらに劣ると評した。

閏四月 庫山の勝利

  • 閏四月、任城王道宗は庫山で吐谷渾を破った。
  • 吐谷渾の可汗伏允は野草を焼き払い、軽兵を率いて砂漠へ逃げ込んだ。
  • 諸将は、馬がやせ草もなく深追いは危険だと主張したが、侯君集は、今こそ敵が潰走して斥候も絶え、君臣父子が離散している好機であり、逃せば悔いると進言した。
  • 李靖もこれに同意し、軍を二道に分けた。北道は李靖・薛万均・李大亮、南道は侯君集・任城王道宗が進んだ。

吐谷渾本軍への連勝

  • 戊子、李靖麾下の薛孤児が曼頭山で吐谷渾を破り、名王を斬って大量の家畜を得、軍糧に充てた。
  • 癸巳、李靖らは牛心堆で吐谷渾を破り、続いて赤水源でも勝利した。
  • 一方、侯君集と任城王道宗は人のいない地を二千余里進み、真夏なのに霜が降るほどの厳しい地勢の中、破邏真谷では水もなく、人は氷をかじり、馬は雪を食って進んだ。
  • 五月、ついに烏海で伏允を追いつめて大破し、その名王を捕えた。薛万均・薛万徹も赤海で天柱王を破った。

五月 高祖の崩御

  • そのころ太上皇は前年秋から風疾を患っており、庚子に垂拱殿で崩じた。
  • 甲辰、群臣は遺詔に従って太宗に軍国大事を見よと請うたが、太宗は辞退した。
  • 乙巳、太子承乾に東宮で庶政を平決させるよう命じた。

赤水の激戦と契苾何力

  • 赤水の戦いで、薛万均・薛万徹兄弟は軽騎で深入りして吐谷渾に包囲され、二人とも槍を受けて馬を失い、従騎の六、七割が戦死した。
  • 契苾何力が数百騎を率いて救援し、死力を尽くして突撃したため、兄弟は脱出できた。
  • 李大亮は蜀渾山で吐谷渾を破り、名王二十人を捕えた。
  • 執失思力も居茹川で吐谷渾を破った。

積石山・河源から突倫川へ

  • 李靖は諸軍を督して積石山・河源を経て且末に至り、西境の果てまで追った。
  • 伏允が突倫川にいると聞き、将兵の中には前回の失敗を恐れて追撃をためらう者もいたが、契苾何力は、定住の城郭をもたぬ遊牧国家は集まっているときに襲わねば散ってしまうと主張した。
  • そこで何力は自ら驍騎千余を選んで突倫川へ急行し、薛万均もこれに従った。
  • 砂漠では水がなく、将士は馬の血を刺して飲んだが、ついに伏允の本営を急襲して数千を斬り、家畜二十余万を得、伏允の妻子を捕えた。伏允は身ひとつで逃げた。

大寧王順の降伏と伏允の最期

  • 侯君集らはさらに星宿川から柏海に至って李靖軍と合流した。
  • 大寧王順は隋室の外戚で、伏允の嫡子であったが、長く隋に留められた間に伏允は別の子を太子に立てていたため、帰国後も不満を抱いていた。
  • 李靖が国を破り、国人が窮して天柱王を怨むと、順は人心に乗じて天柱王を斬り、全国を挙げて唐への降伏を願い出た。
  • 伏允は千余騎で砂漠に逃れたが、十日あまりで兵は散り、ついに側近に殺された。
  • 国人は順を立てて可汗とした。
  • 壬子、李靖は吐谷渾平定を奏上した。
  • 乙卯、唐はその国を再建させ、慕容順を西平郡王・趉故呂烏甘豆可汗とした。
  • 太宗は、順にはまだ部衆を完全に統御する力がないことを憂え、李大亮に精兵数千を率いて後ろ盾とさせた。

六月 太宗の親政再開

  • 己丑、群臣は改めて太宗に親政を請い、太宗はこれを受け入れた。
  • ただし細務はなお太子に委ねた。太子はおおむね政務を裁くことができ、その後は太宗が行幸するとき、しばしば留守を任され監国した。

秋 余波の処理

  • 七月、劉徳敏が叛羌を撃ち破った。
  • 党項は、もともと李靖軍に案内と兵糧を供給する約束をしていたが、赤辞が諸将に対して「隋人のように暴掠しないなら協力する」と誓わせたにもかかわらず、李道彦が途中で無防備の赤辞を襲って牛羊数千を奪った。
  • これにより羌族は激怒し、野狐峡に集結した。李道彦は進めず、赤辞の攻撃を受けて大敗し、死者は数万に及び、松州へ退いて守った。
  • また樊興も逗留して軍期を失い、兵卒の損失が多かった。
  • 乙卯、李道彦と樊興はともに死罪相当とされたが、減刑して辺地へ流した。

契苾何力と薛万均

  • 太宗は大斗抜谷に使者を遣わして諸将を慰労した。
  • その際、薛万均は契苾何力の功を押しのけて自らの功績を誇った。何力は激怒して刀を抜き、万均を殺そうとしたが、諸将が止めた。
  • 太宗は何力を責めたが、何力が赤水の戦いで薛兄弟を救った事情と、その後に侮辱された事情を詳しく述べると、太宗は怒って万均の官を奪い何力に与えようとした。
  • しかし何力は、もし自分のために漢人将軍を罰すれば、胡人たちは胡を重く漢を軽く見るものとして争い合うようになる、また「漢人将軍は皆あのような者だ」と思って侮る心が生じるとして辞退した。
  • 太宗はこれを嘉し、万均の罷免はやめ、何力には北門宿衛と屯営監督を任せ、宗女の臨洮県主を妻とした。

高甑生の誣告

  • 塩沢道行軍総管の高甑生は、軍期に遅れたことを李靖に咎められたため恨み、李靖が謀反を企てていると誣告した。
  • 調べても証拠はなく、八月に甑生は死罪相当とされたが、減刑して辺地へ流した。
  • 功臣だから赦すべきだとの声もあったが、太宗は、節度に違い、さらに謀反の虚偽告発までしたのだから赦せば法が立たないと断じた。
  • 李靖はこれ以後、門を閉ざして賓客を絶ち、親戚といえどもみだりに会わなくなった。

山陵・高祖の葬送

  • 太宗は自ら園陵へ行こうとしたが、悲嘆で衰弱していることを理由に群臣が強く諫め、中止した。
  • 十月、処月が初めて使者を遣わして入貢した。処月・処密はいずれも西突厥の別部である。
  • 庚寅、高祖を献陵に葬り、廟号を高祖とし、太穆皇后を合葬して尊号を加えた。

太原廟の議と蕭瑀の復帰

  • 十一月、太原に高祖廟を建てる案が出たが、顔師古が寝廟は京師にあるべきで、漢代の郡国廟は非礼だと論じたため中止となった。
  • 戊午、蕭瑀を特進として再び政事に参与させた。
  • 太宗は、武徳六年以後、高祖には廃立の意があったが未決で、自分は兄弟に容れられず、功高くして賞されぬことを恐れていた、そのようなとき蕭瑀は利で誘えず死で脅せぬ真の社稷臣だったと称え、「疾風に勁草を知り、板蕩に誠臣を識る」との詩を賜った。
  • ただし、善悪を明確にしすぎて行きすぎることもあると忠告した。
  • 魏徵も、蕭瑀は衆に背いて孤立したが、陛下がその忠直を知ったからこそ今日があると述べた。

吐谷渾国内の再乱

  • 李靖は、遺詔に従って常服で正殿に臨むよう上書したが、許されなかった。
  • 吐谷渾の甘豆可汗は長く中国に質としていたため、国人が心服せず、ついに家臣に殺された。
  • 子の燕王諾曷鉢が立ったが幼少で、大臣同士が争って国内は大いに乱れた。
  • 十二月、侯君集らに兵を率いさせて救援に向かわせることとし、先に使者を送って諭し、詔に従わない者はその場に応じて討つよう命じた。