資治通鑑唐紀十 太宗文武大聖大廣孝皇帝 貞觀 八年 634年

正月 頡利可汗の死

  • 正月、突厥の頡利可汗が死んだ。
  • 唐はその国の習俗に従い、火葬して葬らせた。

獠の平定と黜陟使

  • 辛丑、張士貴が東西王洞の反乱獠を討って平定した。
  • 太宗は大臣たちを諸道に分遣して黜陟大使とし、地方官の善悪を巡察させたいと考えたが、適任者を得がたかった。
  • 李靖は魏徵を推したが、太宗は魏徵は一日たりとも左右を離せないとして採らず、代わりに李靖・蕭瑀ら十三人を各地に送った。
  • 彼らには、長吏の賢否、民間の苦しみ、高年者の礼遇、困窮者の救済、埋もれた人材の抜擢を命じ、「朕が親しく見るのと同じようにせよ」と指示した。

三月 九成宮行幸

  • 三月、太宗は九成宮へ行幸した。

夏五月 日食と吐谷渾問題

  • 五月朔、日食が起こった。
  • 以前、吐谷渾の可汗伏允は使者を遣わして貢を献じたが、その使者が帰る前に鄯州を大いに掠めて去った。
  • 唐は使者を送って責め、伏允を朝貢に来させようとしたが、病を理由に来なかった。そこでその子の尊王のために婚姻を求めると、太宗はいったん許し、親迎を命じた。
  • しかし尊王も来なかったため婚約は破棄され、伏允はさらに蘭州・廓州を侵した。
  • 伏允は老いて、臣の天柱王の謀を信じ、たびたび辺境を犯し、ついには唐の使者趙徳楷を拘束した。唐はたびたび説諭し、太宗自身も使者を殿前に引き出して禍福を説いたが、伏允はついに改めなかった。

六月 吐谷渾討伐の開始

  • 六月、左驍衛大将軍段志玄を西海道行軍総管、左驍衛将軍樊興を赤水道行軍総管とし、辺兵に契苾・党項の兵を合わせて吐谷渾討伐に向かわせた。

七月 大水

  • 山東・河南・淮海の間で大水が起こった。

上皇の避暑拒否

  • 太宗はしばしば太上皇に九成宮での避暑を勧めたが、太上皇は、隋文帝がこの地で崩じたことを嫌って応じなかった。

十月 大明宮の造営

  • 太上皇のための避暑所として大明宮の造営を始めたが、完成しないうちに太上皇が病に臥し、結局そこへ移ることはなかった。

吐谷渾への追撃

  • 辛丑、段志玄は吐谷渾を破り、八百余里追撃して青海まで三十余里に迫った。
  • 吐谷渾は牧馬を追ってさらに逃れた。
  • 甲子、太宗は京師へ帰還した。

李靖の退任と平章政事

  • 右僕射の李靖は病を理由に位を退こうとし、太宗はこれを許した。
  • 十一月、李靖を特進とし、封爵や俸禄、部下や吏卒の待遇は従前どおりとし、病が少しよくなれば三、二日ごとに門下・中書へ赴いて政事を平章するよう命じた。

吐蕃の初通交

  • 甲申、吐蕃の賛普棄宗弄讃が使者を送り、朝貢するとともに婚姻を求めた。
  • 吐蕃は吐谷渾の西南にあって近年急速に強大化し、周辺諸国を併呑しつつあったが、中国との正式な往来はこれが初めてであった。
  • 太宗は馮徳遐を使者として遣わし、慰撫した。

十一月 吐谷渾再侵と大討伐決定

  • 丁亥、吐谷渾が涼州を侵した。
  • 己丑、太宗は大規模な吐谷渾討伐を決定した。
  • 太宗は李靖を将にしたかったが、高齢ゆえに重労をかけることを案じていた。ところが李靖自身が出征を願い出たため、太宗は大いに喜んだ。

十二月 李靖を大総管に任命

  • 辛丑、李靖を西海道行軍大総管とし、侯君集を積石道、任城王道宗を鄯善道、李大亮を且末道、李道彦を赤水道、高甑生を塩沢道の各行軍総管として、突厥・契苾の兵も合わせ、吐谷渾を討たせた。

鄭仁基の娘の冊立中止

  • 太宗は隋の通事舎人鄭仁基の娘を充華に立てようとし、冊使も出発寸前であった。
  • しかし魏徵が、その娘はもと士人の陸爽に許嫁していたと聞いて急ぎ諫めた。太宗は驚いて自らを責め、冊立を取りやめた。
  • 房玄齢らは、陸氏との婚約に明確な証拠はなく、大礼を中止すべきでないと奏した。陸爽自身も婚姻の約束はないと上表した。
  • 太宗がこれを魏徵に問うと、魏徵は、陸爽は外では赦されても内々に罪を得ることを恐れてそう言ったのだろうと答えた。
  • 太宗は、外の者は自分をそう見るのかと笑いながらも、自分の言葉が人に十分信じられていないことを嘆いた。

皇甫徳参の直言

  • 中牟丞の皇甫徳参は、洛陽宮の修造が民を疲れさせ、地租も重く取り立てられ、また世の婦人が高髻を結うのも宮中の風俗が広まったせいだと上言した。
  • 太宗は激怒し、「この者は国が一人も使役せず、一斗の租も取らず、宮人はみな髪をなくして初めて満足するのか」と言って、誹謗の罪に処そうとした。
  • 魏徵は、賈誼らの古来の上書は人主の心を動かすために激切であり、「狂夫の言にも聖人は取るべきところを取る」と諫めた。
  • 太宗は、「この人を罪すれば誰が再び言うだろうか」として、逆に絹二十匹を賜った。
  • 後日、魏徵はさらに「近ごろ陛下は直言を好まなくなっており、以前ほど心が広くない」と奏したため、太宗は追加の恩賞を与え、皇甫徳参を監察御史に抜擢した。

高季輔の上言

  • 中書舎人高季輔は、地方の低い官位では俸禄が乏しく、清廉を保ちにくいので、国家財政が満ちてきたいま待遇改善をすべきだと述べた。
  • また、密王元暁ら諸王が帝の子と相互に拝礼し、叔父であるのに甥に答拝するのは昭穆の秩序を乱すので、礼によって正すべきだと主張した。
  • 太宗はこれを善しとした。

西突厥の可汗交代

  • 西突厥の咄陸可汗が死に、その弟の同娥設が立って、沙鉢羅咥利失可汗となった。