資治通鑑唐紀十 太宗文武大聖大廣孝皇帝 貞觀 十年 636年
正月 親政再開と阿史那社爾
- 正月甲午、太宗はこの日から正式に自ら親政した。
- 辛丑、突厥の拓設阿史那社爾を左驍衛大将軍に任じた。
- 社爾は処羅可汗の子で、幼いころから知略で知られ、かつては磧北で諸部を統率したが、税を取り立てず、部落の豊かさを自分の満足としたため人望があった。
- 頡利可汗の滅亡後、西突厥が乱れると、社爾は一時これに降るふりをして兵を挙げ、その地の半ば近くを奪って十余万の衆を有し、自ら答布可汗と称した。
- やがて先の可汗の仇を討つとして薛延陀を攻めたが、長期戦の中で部衆が人役に苦しみ離散し、薛延陀に敗れて高昌へ退いた。
- 旧兵は一万余家にまで減り、西突厥の圧迫も強かったため、ついに部衆を率いて唐に降った。
- 唐はその部落を霊州北方に住まわせ、社爾を長安に留めて皇妹南陽長公主を妻とし、苑内の屯兵を統率させた。
正月・二月 諸王の改封と出鎮
- 癸丑、太宗は弟たちと子たちの王号を大幅に改めた。
- 二月乙丑、あわせて諸王をそれぞれ荆州・梁州・徐州・潞州・遂州・幽州・潭州・相州・斉州・益州・安州・揚州などの都督に任じた。
- ただし魏王泰だけは任地へ行かせず、張亮に都督事を行わせた。
- 太宗は、泰が文学を好むため、その府に特別に文学館を置き、自ら学士を招くことを許した。
三月 吐谷渾の帰附
- 丁酉、吐谷渾王諾曷鉢が使者を送り、唐の暦を頒布して年号を行うこと、さらに子弟を入侍させることを願い、太宗はいずれも許した。
- 丁未、諾曷鉢を河源郡王・烏地也抜勤豆可汗に封じた。
- 癸丑、諸王が任地へ赴くにあたり、太宗は別れを惜しみ、「子はまた得ても兄弟は二度と得がたい」と涙を流して声を詰まらせた。
六月 温彦博・楊師道・魏徵
- 六月、温彦博を右僕射、楊師道を侍中とした。
- 魏徵はたびたび眼病を理由に散官への転任を願い、太宗はやむなく特進としたが、なお門下の事を知り、朝章国典や得失の審議、徒流以上の罪の詳査にあたらせた。俸禄や部下の待遇も現職同様とした。
長孫皇后の病と遺言
- 長孫皇后は仁孝で倹素、読書を好み、しばしば太宗と政治を語っては補佐した。
- 太宗が怒って宮人を罰しようとすると、皇后は表向きには同意しつつ自ら取り調べようと申し出て、怒りが静まってから徐々に理を述べて助けたので、宮中に冤罪の刑が少なかった。
- 妃嬪や公主、皇子たちにも慈愛を尽くし、太子の乳母が東宮の器物不足を訴えても、「太子にとって大事なのは徳が立つことであって器物ではない」と退けた。
- 太宗が病に伏したときは昼夜付き添い、もし不諱があれば自分も生きないと毒薬を帯びて誓っていた。
- 自身も持病があり、前年、夜半に変事があると聞いて太宗が甲を着けて出た際、病を押して従ったことでさらに悪化した。
- 病が篤くなると、太子が赦罪や出家による冥福祈願を願ったが、皇后は、赦しは国家の大事で乱発すべきでなく、道教や仏教で救いを求めるのも、太宗が平素とらぬことを自分のためにさせるのは忍びないとして強く拒んだ。
- 最期には、房玄齢は長年慎重に仕えて秘密を漏らしたことがなく、大事がない限り見捨てないでほしいと太宗に願った。
- また、自分の実家の長孫氏は外戚として遇されているだけであり、子孫を権要の地位に置けば危ういので、朝請を奉じる程度に留めてほしいと訴えた。
- さらに、葬礼は山によりて簡素にし、瓦木を用い、君子を親しみ小人を遠ざけ、忠諫を納れ、遊畋と土木を慎むよう願い、児女を病床へ呼ばぬでほしいとも告げた。
- そして、太宗の不予の際には自分も死を誓っていたと、帯の毒薬を見せたのち、己卯、立政殿で崩じた。
女則と房玄齢の復帰
- 皇后は生前、古今の婦人の得失を集めた『女則』三十巻を編み、また漢の馬皇后が外戚を十分に抑えられなかったことを論じていた。
- 崩御後、宮司がその書を奏上すると、太宗はこれを読んで深く悲しみ、「この書は百世の模範になる。天命は知りつつも、今後は宮中で諫めてくれる良佐を失った」と嘆いた。
- そして、かつて譴責で帰宅させていた房玄齢を召し戻し、職に復させた。
八月 密告の風を戒める
- 八月、太宗は群臣に対し、直言の道を開いて国家のためにしているのに、近ごろ封事で他人の細事をあげつらう者が多いと述べ、今後そのような上書をした者は讒言の罪に問うと警告した。
十一月 文徳皇后の葬送
- 十一月庚午、文徳皇后を昭陵に葬った。
- 将軍の段志玄と宇文士及が兵を分統して肅章門から出たが、夜中に太宗が宮官を二人の営に遣わしたところ、宇文士及は門を開いたのに対し、段志玄は「軍門は夜に開くべきでない」として勅書があると言われても朝まで拒んだ。
- 太宗はこれを聞いて「真の将軍だ」と感嘆した。
- 太宗はまた自ら文を刻ませ、皇后の節倹と薄葬の遺言を称えた。盗賊は宝を求めて陵を暴くのであり、珍宝がなければ盗掘の心も起こりにくい、自分も本来はそう考えていたと述べた。
- 昭陵は九嵕山により、石工百余人が数十日で掘り終え、金玉を納めず、人馬や器物も土木の形像だけにとどめ、後世の法とした。
昭陵を望む楼観の破却
- 太宗は皇后を思う心がやまず、苑中に高楼を建てて昭陵を望んだ。
- あるとき魏徵を伴って登り、見えるかと問うたが、魏徵は「私には見えません」と答えた。
- 太宗が指し示すと、魏徵は「昭陵は見えませんが、献陵なら見えます」と言った。太宗はこれを聞いて泣き、ただちにその楼観を壊した。
十二月 西域の朝貢と魏王泰
- 十二月、朱俱波と甘棠が使者を送って入貢した。
- 太宗は、中国が安定すれば四夷は自ずと服するが、秦始皇が強盛ののち二世で亡んだことを思えば、いまも恐れを忘れられないと語った。
- 魏王泰は寵愛を受けており、三品以上の群臣がこれを軽んじていると聞くと、太宗は激怒して高官たちを叱責した。
- しかし魏徵は、今日の群臣に魏王を軽んじる者がいるとは思えず、公卿は天子が礼遇する存在であり、秩序が壊れていない限り王が群臣を侮辱する理もない、隋文帝が諸王を驕らせて結局は一族を滅ぼしたことを法としてはならぬと正論で諫めた。
- 太宗はこれに服し、私愛で公義を忘れていたことを認め、「人主の発言は軽々しくあってはならぬ」と省みた。
法令改正への慎重論
- 太宗は、法令はしばしば変えてはならず、変更が多いと官吏が覚えきれず、前後の食い違いを利用して奸をなす者が出るので、今後は十分に検討したうえで改めるべきだと述べた。
権万紀の罷免
- 治書侍御史の権万紀は、宣州・饒州の銀山を大規模に採掘すれば、毎年数百万緡の収入になると進言した。
- 太宗は、天子として足りないのは財ではなく、民の利益となる善言と賢才である、賢者一人の進退を論ぜず銀利だけを言うのは桓帝・霊帝の私蔵財政を思わせる、と厳しく退け、その日のうちに罷免して帰郷させた。
府兵制の整備
- この年、統軍を折衝都尉、別将を果毅都尉と改称した。
- 十道に合計六百三十四府を置き、うち関内に二百六十一府を置いて諸衛や東宮六率に属させた。
- 上府千二百人、中府千人、下府八百人とし、三百人で団、五十人で隊、十人で火を構成した。
- 兵士は二十歳から六十歳まで服役し、武器・甲冑・糧食・装具は自弁して倉に納め、征行のときに支給された。
- 騎射にすぐれた者を越騎とし、毎年冬に折衝都尉が教練した。宿衛は番上制で、兵部が遠近に応じて交替周期を定めた。