資治通鑑唐紀九 太宗文武大聖大廣孝皇帝上 貞觀 二年 628年
九月 致仕官の待遇と祥瑞の抑制
- 9月丙午、致仕した官人は、同品階の現職者より上位の列で朝参するよう定められた。
- 太宗は、群臣がたびたび祥瑞を賀する上表を出すことを戒め、政治の善悪は瑞兆の多寡ではなく、人民が安んじているかどうかで決まると述べた。
- 丁未、今後は大きな瑞兆のみを朝廷へ奏聞し、それ以外は所管官司へ届けるだけとした。
- 白鵲が寝殿の槐に巣を作り、合歓の実が珍しい形をしたときも、太宗は「賢者を得ることこそ真の瑞」として賀を退け、巣を壊して鳥を野に放した。
宮人の放出
- 日照りが少なくなかったため、中書舍人李百薬は、宮中に不要な宮人が多く閉じ込められていることも陰気を鬱積させる一因ではないかと進言した。
- 太宗はこれをもっともだとして、掃除などに必要な者以外を皆出宮させ、望む者には配偶者を求めさせた。
- 尚書左丞戴胄・給事中杜正倫が掖庭西門で選別を行い、前後あわせて三千余人が放たれた。
突厥への備えをめぐる判断
- 己未、突厥が辺境を侵した。朝臣には古い長城を修理し、民を動員して堡障を増やすべきだという意見もあった。
- しかし太宗は、頡利可汗は天災や内紛が続く中でも徳を修めず、骨肉相争う有様で滅亡は近いとして、民を苦しめる大工事は不要だと退けた。
人事と学風への議論
- 壬申、前司農卿竇静を夏州都督とした。竇静は、租税収納や財用に長けた少卿趙元楷を軽んじ、今の天子は倹約で民を愛するから重斂の才能は不要だと言って元楷を恥じ入らせた。
- 太宗が王珪に「近世の治世はなぜ古に及ばぬのか」と問うと、王珪は、漢代は儒術を重んじ、宰相にも経学の士を用いたため風俗が淳厚だったが、近世は文辞や法令を重くして儒を軽んじるので教化が衰えたと答えた。太宗はこれを是とした。
十月 杜淹の死と盧祖尚の処刑
- 10月、御史大夫で参預朝政の杜淹が死去した。
- 交州都督の寿が貪欲の罪で退けられたため、太宗は瀛州刺史盧祖尚を召して交趾鎮撫を託した。祖尚はいったん拝命したが、後に病を理由に辞退した。
- 房玄齢らが再三説得しても祖尚は応じず、太宗は「君命が行われなければ政治は成り立たない」と怒って、朝堂で斬らせた。
- その後、太宗はこの処置を悔やみ、魏徴が引いた北斉文宣帝の先例を聞いて、自分の方がかえって狭量であったと省み、祖尚の官と蔭を回復させた。
魏徴の諫言
- 魏徴は容貌こそ平凡だったが胆略があり、君主の意向をよく転じ、しばしば顔を犯して強く諫めた。太宗が激怒しても少しも顔色を変えず、結果として天子の怒りを解かせることが多かった。
- あるとき魏徴が墓参の休暇から帰り、「陛下が南山へ行幸しようとしてやめたのは、私が怒るのを恐れたからだと聞きました」と言うと、太宗は笑ってそれを認めた。
- また太宗が良い鷂を腕に据えていた際、魏徴が来たので懐に隠したが、魏徴が長く奏事したため、その鷂は懐の中で死んでしまった。
十一月・十二月 祭祀と王珪の直言
- 11月辛酉、太宗は圜丘を祀った。
- 12月壬午、黄門侍郎王珪を守侍中とした。
- 閑居のとき、太宗は侍る美人を指して「これは廬江王李瑗の姫だ」と王珪に示した。李瑗がその夫を殺して奪った女であった。
- 王珪は席を避けて、「陛下は廬江王のしたことを是とするのか非とするのか」と問い、なおその女を側に置いているのは心中で是認している証ではないかと諫めた。
- 太宗は喜んでこれを受け入れ、その女を親族のもとへ返した。
祖孝孫をめぐる論争
- 太宗が太常少卿祖孝孫に宮人の音楽を教えさせたが、意にかなわず責めたため、温彦博と王珪が「雅士に宮人教育をさせた上に罪するのはよくない」と諫めた。
- 太宗は怒って、二人が下に阿って上を欺くのかと責めた。温彦博は謝ったが、王珪は拝せず、自分は忠直を尽くしたのであり、陛下こそ臣に背いたのだと抗弁した。
- 太宗は黙ってその場を終え、翌日房玄齢に、古来君主が諫言を受け入れるのは難しいものだが、昨日のことは今なお悔やまれると語った。
地方官の選抜と奴僕の告発禁止
- 太宗は、民を養う上で最も重要なのは都督・刺史であり、とくに県令は親しく民に接するので慎重に選ぶべきだとして、内外五品以上の官に適任者の推薦を命じた。
- また、奴僕が主人の謀反を訴える弊害を論じ、反乱は共謀者が必ずいるので露見しないことはないとして、今後は奴が主を告発しても受理せず、なお斬るよう命じた。
西突厥の内乱
- 西突厥では、統葉護可汗が伯父に殺され、その伯父が莫賀咄侯屈利俟毗可汗として立った。
- しかし国人は従わず、弩失畢部は泥孰莫賀設を推したが、泥孰は固辞し、統葉護の子咥力特勒を康居から迎えて立て、乙毗鉢羅肆葉護可汗とした。
- 両者は争い続け、そろって唐に婚姻を求めたが、太宗は国内未定を理由に許さず、各自の部衆を守って互いに攻めないよう諭した。
- これにより、西域諸国や敕勒のうち従来西突厥に属していた者たちも離反した。
薛延陁の興起
- 突厥北辺では諸姓が多く頡利可汗に背き、薛延陁と回紇などが俟斤夷男を共に可汗に推した。夷男は当初これを辞した。
- 太宗は頡利討伐の構想を進める中で、遊撃将軍喬師望をひそかに遣わして冊書を授け、夷男を真珠毗伽可汗に封じ、鼓纛を賜った。
- 夷男は大いに喜び、入貢したうえで鬱督軍山に牙帳を置き、東は靺鞨、西は西突厥、南は沙磧、北は俱倫水に至る広い勢力圏を築いた。回紇・拔野古・阿跌・同羅・僕骨・霫などもこれに属した。