資治通鑑唐紀八 太宗文武大聖大広孝皇帝上之上 貞観 二年 628年
正月 長孫無忌の辞職
- 春正月辛亥、右僕射長孫無忌が罷免された。
- 当時、無忌の権勢が盛りすぎるという密表があり、太宗はそれを無忌に見せて、自分は少しも疑っていないが、互いに聞いたことを言わずにいれば君臣の意思疎通が絶えると伝えた。
- さらに百官に向かって、自分の諸子はまだ幼く、無忌を子のように見ており、他人がどうこうできる関係ではないと明言した。
- それでも無忌は満ち足りて危うくなることを恐れて固く辞し、皇后もまた強く願ったため、太宗はこれを許し、開府儀同三司とした。
正月 官制整備
- 六部尚書を補佐する六司侍郎を置き、左右司郎中を各一人設けた。
正月 吐谷渾の侵入と皇子の移封
- 癸丑、吐谷渾が岷州を寇したが、都督李道彦がこれを撃退した。
- 丁巳、漢王李恪を蜀王へ、衛王李泰を越王へ、楚王李祐を燕王へ移封した。
正月 兼聴の重要
- 太宗が魏徴に、人主は何によって明となり、何によって暗となるのかと問うた。
- 魏徴は、兼聴すれば明らかになり、偏信すれば暗くなると答え、堯・舜が広く民意を聞いて四凶の讒言を遮ったこと、秦二世・梁武帝・隋煬帝がそれぞれ趙高・朱异・虞世基への偏信で禍を招いたことを引いた。
- 太宗はこれを是とした。
二月 倉廩・畏れ・至公
- 太宗は王珪に、隋文帝は大旱でも賑給を渋って民を山東へ食を求めさせ、その結果として末年には五十年分にも及ぶ蓄えができたが、煬帝はその富を頼みに奢侈に走って国を亡ぼしたと語った。
- 凶年に備えるに足る倉廩があれば、それ以上の蓄積に意味はないとし、節度のある財政観を示した。
- また侍臣に、人は天子に何も恐れるものがないと言うが、自分は天の監臨を畏れ、群臣の目を憚って、常におののき励んでいると述べた。魏徴は、それこそ治世の要であり、終始この姿勢を守るべきだと応じた。
- 房玄齢らには、諸葛亮が廖立・李厳を南夷に流しても、彼らがなお亮の死を悲しんだのは、亮が至公だったからだといい、高熲も公平に治体を識ったため隋の興亡はその存没にかかったと評した。
- 太宗は、自分が前代の明君を慕う以上、臣もまた前代の賢相を模範にせよと命じた。
三月 日食・死刑審議の厳格化
- 三月戊寅朔、日食があった。
- 壬子、大理少卿胡演が毎月の囚帳を進めたことから、太宗は今後、大辟にあたる重罪案件はすべて中書・門下の四品以上と尚書が合議するよう命じ、冤罪や濫刑を防ごうとした。
- さらに囚人を引見した際、岐州刺史鄭善果が一般囚人と一緒に引き出されているのを見て、官位が高い者を雑囚と同列に扱うべきではないとし、以後三品以上の罪人は朝堂で取り調べて裁可を待たせることにした。
三月 旱饑と子の身請け
- 関内は旱と飢饉に見舞われ、食いつなぐために子を売る者が多く出た。
- 己巳、太宗は御府の金帛を出して身請けし、親元へ帰させた。
- 庚午、前年の長雨に続く今年の旱と蝗害を理由に天下に大赦を行い、「もし豊年となり天下が安んずるなら、災いは自分一身に移してもよい」との趣旨を詔した。折よく各地に雨が降り、民は大いに喜んだ。
四月 野ざらしの遺骸の埋葬
- 夏四月己卯、隋末以来の乱と飢饉で野にさらされている遺骸が人心を痛めているとして、各地の官に命じてこれを収め、埋葬させた。
四月 突利可汗の救援要請
- 突利可汗は幽州北方に牙帳を置き、奚・霫など東方諸部を支配していたが、多くの部族が離反して唐へ降った。
- 頡利可汗はこれを責め、さらに薛延陁や回紇が欲谷設を破った際、突利に討伐を命じたが、突利はまた敗れて軽騎で逃げ帰った。
- 頡利は怒って突利を十余日拘束し、鞭打ったため、突利は深く怨み、ひそかに離反を望むようになった。
- 頡利がたびたび兵を徴発しても、突利は応じず、ついに入朝を願い出た。
- 太宗は侍臣に、かつて百万騎を誇って中夏を凌いだ突厥がここまで追い詰められて自ら入朝を求めるのだから、辺境安定の意味では喜ばしいが、自分に失道があればいずれ唐も同じになるかもしれず、恐ろしくもあると語り、遠慮ない苦諫を求めた。
- 頡利は突利を攻め、丁亥、突利は使者を遣わして救援を求めた。
四月 契丹来降と梁師都問題
- 太宗は大臣に、突利とは兄弟の盟があるので救わぬわけにいかないが、頡利とも渭橋の盟があるのでどうすべきかを問うた。
- 杜如晦は、夷狄はもともと信が薄く、いずれ約を破るから、今その乱に乗じて取らねば後悔すると答え、古来の「乱を取り、亡びを侮る」道を引いた。
- 丙申、契丹の酋長が部落を率いて来降した。
- 頡利は使者を送って、契丹を梁師都と交換してくれと求めたが、太宗は、契丹は異民族ながら帰附した民であり、梁師都は中国人でありながら土地と民を奪い、しかも突厥がこれをかくまってきたのだから、比べる余地はないと拒絶した。
四月 梁師都討滅
- 太宗は以前から、突厥の乱れにより梁師都を守りきれなくなると見て、たびたび書を送って帰順を促したが、師都は従わなかった。
- そこで夏州都督長史劉旻・司馬劉蘭成に攻略を図らせ、軽騎で禾稼を踏ませ、反間を多く用いて君臣を離間したため、国内は次第に弱体化し、降る者が相次いだ。
- 名将李正宝らが師都を縛ろうとして発覚し、唐へ奔るに及び、梁国内の疑心暗鬼はさらに強まった。
- 劉旻らの要請により、太宗は右衛大将軍柴紹・殿中少監薛万均を派遣し、また劉旻らには朔方東城を据えさせて圧迫した。
- 梁師都は突厥兵を率いて城下に来たが、劉蘭成は旗を伏せ鼓を止めて出撃せず、師都が夜に退くと追撃して破った。
- さらに突厥が大軍で救援に来たが、柴紹らは朔方近くでこれを大破し、そのまま朔方を包囲した。城内は食糧が尽きた。
- 壬寅、師都の従父弟である梁洛仁が師都を殺して城をもって降り、その地は夏州とされた。
四月から六月 雅楽整備と礼楽論
- 太常少卿祖孝孫は、梁・陳の音楽には呉楚の色が強く、周・斉の音楽には胡夷の気風が強いとして、南北の音を折衷し、古声を考えて唐の雅楽を整えた。八十四調・三十一曲・十二和から成った。
- 太宗は協律郎張文収を加えて、ともに修定させた。
- 六月乙酉、孝孫らが新楽を奏すると、太宗は、礼楽は聖人が人情に応じて教化のために設けるものであり、治乱の盛衰が音楽そのものによって決まるわけではないと述べた。
- 杜淹は、北斉末の「伴侶曲」や陳末の「玉樹後庭花」は、行く人まで哀しませる亡国の音だったと反論した。
- 太宗は、悲しみや喜びは人の心にあるのであり、亡国の民がその音を聞いて悲しんだのは、政がすでに乱れていたからだとし、今その曲が残っていても自分が奏して悲しむわけではないと応じた。
- 魏徴も、『論語』を引いて、礼や楽の本質は玉帛や鐘鼓そのものではなく、人の中和と和合にあると補った。
六月 隋煬帝を鏡とする
- 戊子、太宗は侍臣に、隋煬帝は文章の面では奥深く博く、堯舜を知り桀紂を非難する程度の識見はあったのに、行いはなぜこれほど逆だったのかと述べた。
- 魏徴は、君主はたとえ聖哲でも虚心に人を受け入れねばならず、煬帝は俊才を恃んで驕り、自用したため、口では堯舜を唱えて身では桀紂を行い、ついに滅んだと答えた。
- 太宗は、前事は遠くない、自分たちの師であると語った。
六月 蝗を呑む
- 畿内で蝗害が発生した。
- 辛卯、太宗は苑中に入り、蝗を数匹拾い上げ、「民は穀を命としているのに、それを食うのなら、むしろ私の肺腸を食え」と祈って、手ずから飲み込もうとした。
- 左右は病を恐れて止めたが、太宗は「民のために災いを受けるのだ」と言ってついに呑み込んだ。この年、蝗は大きな災いとならなかった。
六月 起居注・梁武帝の失政
- 太宗は、朝に臨んで一言を発するにも三思し、民を害することを恐れるので、多言しないのだと述べた。
- 給事中で知起居事の杜正倫は、自分の役目は帝の言葉を記録することであり、もし失言があれば必ず書き残す、今だけでなく後世の譏りにもなると答えた。太宗は喜んで帛二百段を賜った。
- また太宗は、梁武帝の君臣が「苦」「空」を論じるばかりで、侯景の乱には百官が馬にも乗れず、元帝が周軍に囲まれてもなお『老子』を講じていたことを、深く戒めるべき前例として挙げた。
- 自分が好むのは堯・舜・周公・孔子の道だけであり、鳥に翼、魚に水のように、失えば生きられぬものだと述べた。
六月から七月 裴虔通・宇文化及党人の処分
- 辰州刺史裴虔通は、隋煬帝の旧臣として特に寵任を受けながら、その殺害に加担した人物である。幾度も赦令にあって族誅こそ免れていたが、民を治める任にあるのは不当として、太宗は除名して驩州へ流した。
- 裴虔通は、自ら隋室を除いて大唐を開いた功臣だと日ごろ吹聴し、不満げな様子を見せていたが、罪に問われると怨んで死んだ。
- 秋七月には、宇文化及の党人である萊州刺史牛方裕・絳州刺史薛世良・広州都督長史唐奉義・元礼らも除名して辺地に流した。
七月 大赦抑制の方針
- 太宗は侍臣に、「赦は小人の幸いであり、君子の不幸だ」という古語を引いた。
- 一年に二度も大赦すれば、善人は口をつぐみ、悪草を養って嘉穀を害するように、罪人をゆるして良民を苦しめることになるという。
- そのため、自分は即位以来みだりに赦さず、小人が赦をあてにして法を軽んじないようにしているのだと語った。