資治通鑑唐紀九 太宗文武大聖大廣孝皇帝上 貞觀 三年 629年

正月 籍田と裴寂の失脚

  • 正月戊午、太宗は太廟を祀った。
  • 癸亥、東郊で親耕を行った。籍田の場所をめぐって孔穎達は古礼では天子は南郊だと述べたが、太宗は春の農事は東に応じるとして東郊を正当化した。
  • 沙門法雅が妖言の罪で誅せられ、司空裴寂もその言を聞いていたとして辛未に免官され、郷里へ帰された。
  • 太宗は裴寂に対し、武徳年間の賄賂横行や紀綱紊乱の責任は重いが、旧臣ゆえに極刑を免じたのだと厳しく責めた。
  • 裴寂は後にさらに、狂人の信行が「裴寂に天命あり」と語ったのを報告しなかった罪で、本来は死罪相当とされ静州へ流された。
  • しかし山羌の乱が起きた際、裴寂は家僮を率いて賊を破ったため、太宗は佐命の功を思って召し返したものの、会う前に死去した。

二月 三相体制の整備

  • 2月戊寅、房玄齢を左僕射、杜如晦を右僕射とし、魏徴を守秘書監・参預朝政とした。
  • 太宗は房玄齢・杜如晦に、宰相の本務は訴訟の細事ではなく、広く賢人を求め、才に応じて任用することだと述べ、尚書省の細務を左右丞に委ね、大事のみ僕射に関与させた。
  • 房玄齢は政務に明るく、文雅を兼ね、法を用いても寛平で、人の善を喜んだ。杜如晦は決断に優れ、二人は一体となって人材を抜擢した。
  • 太宗が房玄齢と相談するときは「杜如晦でなければ決せられぬ」と言い、杜如晦が来れば最終的には房玄齢の策が用いられることが多かった。そこで当時は「房杜」を名相として称えた。
  • 房玄齢は寵を受けても過失で譴責されると、連日朝堂に出て叩頭して罪を請い、非常に畏れていた。

三月 囚人の放免と史書への姿勢

  • 己酉、太宗が囚人を点検すると、劉恭という者が首の文様を「天下に勝つ徴だ」と称して獄につながれていた。
  • 太宗は、もし天命があるなら自分には除けず、なければその文様に意味はないとして放免した。
  • 丁巳、太宗は房玄齢・杜如晦に改めて宰相の責務を説いた。
  • 房玄齢が国史監修を兼ねていたため、太宗は『漢書』の華麗な辞賦より、時政を論じた切直な上書の方を重んじ、自分が採用したか否かにかかわらず、そうした言論は史書に必ず載せるべきだと命じた。

四月 上皇の移居と門下の権限回復

  • 4月乙亥、上皇は弘義宮へ移り、これを大安宮と改めた。太宗もこの後、はじめて太極殿に御した。
  • 太宗は群臣に対し、中書・門下は詔勅の可否を論駁すべき枢要の官だが、近ごろは従うばかりで異議が聞こえないと責め、旧来の審議・駁正の制度を改めて申明した。
  • その結果、後に不都合な政令が少なくなった。

馬周の登用

  • 茌平の馬周は長安に遊学し、中郎将常何の家に寄食していた。
  • 6月壬午、旱魃により太宗が文武百官に得失を直言させたところ、常何は学のない武人であるにもかかわらず、二十余条の的確な建言を出した。
  • 太宗が不審に思って問いただすと、常何は家客の馬周が草案したのだと答えた。
  • 太宗はただちに馬周を召し、到着を急がせる使者を何度も出した。対面すると大いに気に入り、門下省で起居させ、まもなく監察御史に任じ、使者としてもその才能を認めた。
  • 常何には知人の功があるとして絹三百匹を賜った。

八月 薛延陁への厚遇と対突厥戦の決定

  • 8月己巳朔、日食があった。
  • 丙子、薛延陁の毗伽可汗が弟の統特勒を入貢させた。太宗は宝刀と宝鞭を与え、重罪は刀、軽罪は鞭で処せよと伝えたので、夷男は大いに喜んだ。
  • これを見た頡利可汗は恐れて使者を送り、臣従して公主降嫁を求めた。
  • 代州都督張公謹は、頡利は暴虐で忠良を殺し、薛延陁など諸部に離反され、突利・拓設・欲谷設とも対立し、霜旱で糧も尽き、胡人にも離心がある上、北方に亡命した中国人も多いので、今こそ討つべきだと上言した。
  • 太宗は、頡利が和親を求めながら梁師都を援助していることも踏まえ、丁亥、兵部尚書李靖を行軍総管、張公謹を副として討伐を命じた。

九月から十一月 降伏の相次ぎ

  • 9月丙午、突厥の俟斤九人が三千騎を率いて降った。
  • 戊午には拔野古・僕骨・同羅・奚の酋長らも次々に来降した。
  • 11月辛丑、突厥が河西を侵したが、肅州刺史公孫武達と甘州刺史成仁重が撃破し、捕虜千余を得た。

李大亮の忠直

  • 太宗が涼州都督李大亮のもとへ使者を送った際、佳鷹を献上させようと使者がほのめかした。
  • 李大亮は密かに、陛下が久しく畋遊を絶っているのに鷹を求めるのは、本意なら以前の詔旨に背き、使者の専断なら人選の誤りだと上表した。
  • 癸卯、太宗は侍臣に「李大亮は忠直だ」と語り、手詔で褒め、胡瓶と『荀悦漢紀』を賜った。

十一月から十二月 総攻勢の準備

  • 庚申、李世勣を通漢道行軍総管、李靖を定襄道行軍総管、柴紹を金河道行軍総管、薛万徹を暢武道行軍総管とし、総勢十余万を李世勣の節度下に置いて、分道して突厥を討たせた。
  • 乙丑、任城王李道宗が霊州で突厥を破った。
  • 12月戊辰、突利可汗が入朝した。太宗は、高祖がかつて百姓のために突厥へ称臣したことを痛恨としており、今ようやく雪辱の望みが見えてきたと語った。
  • 壬午、靺鞨が入貢した。太宗は、中国が安んじて四夷が自ら服するのこそ、戎狄を制する最上策だと述べた。
  • 癸未、杜如晦は病を理由に職を辞そうとし、太宗はこれを許した。
  • 乙酉、孔穎達が『論語』の「有若無、実若虚」の意を説き、帝王こそその徳を備えるべきで、聡明を誇って人を圧し、非を飾って諫めを拒めば滅亡に至ると進言した。太宗は深く賛同した。
  • 庚寅、突厥の郁射設が部衆を率いて降った。

閏十二月 南方・西南方の編成と官吏考課

  • 閏12月丁未、東謝・南謝の酋長が来朝した。彼らは黔州西方の南蛮系勢力であり、唐は東謝を応州、南謝を荘州として黔州都督に属させた。
  • 遠方からの朝貢が非常に多く、服飾も珍異だったため、顔師古の請いにより、その姿を図に写して後世に示す『王会図』を作らせた。
  • 乙丑、牂柯の謝能羽および充州蛮が入貢し、牂柯を牂州とした。
  • 党項の細封歩頼も来降し、その地を軌州とした。党項は多くの部姓に分かれ統一されていなかったが、歩頼が厚遇されると他部も続々と来降し、さらに崌・奉・巖・遠の四州を置いた。
  • この年、戸部は、塞外から帰還した中国人と、四夷から前後して降附した者が男女あわせて百二十余万口にのぼると奏上した。
  • 房玄齢と王珪が内外官の考課を担当したところ、治書侍御史権万紀が不公平だと奏した。
  • 太宗は侯君集に調査させようとしたが、魏徴は、房玄齢・王珪は旧臣で忠直の人、万紀はふだん考堂にいながら自分の考課で不満が出て初めて訴えたにすぎず、国家の治体を損なうだけだと諫めた。
  • 太宗はこれを聞き入れて不問とした。
  • 濮州刺史龐相寿が貪汚で解任され、かつて秦王府の旧臣だとして旧任復帰を願ったが、魏徴は私恩を許せば善人が懼れると諫め、太宗も「今は天下の主であり、一府の主ではない」として退けた。