資治通鑑唐紀一 高祖神堯大聖光孝皇帝上之上 武徳 一年 618年

正月 唐王への殊礼と各地の帰附

  • 正月丁未朔、隋の恭帝は唐王李淵に対し、剣を帯びたまま・履を着けたままで昇殿すること、賛拝の際に実名を避けることを許した。これは極めて高い特別待遇で、実質的に禅譲への地ならしであった。
  • 李淵が長安を平定して以後、諸郡県へ書を送って帰順を促していたため、東は商洛、南は巴蜀に至るまで、郡県の長官・群盗の首領・氐羌の酋長らが競って子弟を派遣し、降伏を請うた。
  • その結果、関中を基盤とする唐政権は急速に版図を広げ、日ごとに各地から返書が山のように届く情勢となった。

王世充と李密の洛北決戦

  • 王世充は東都の兵を率いて洛北で李密を攻めたが、大敗した。各軍に浮橋を造らせて洛水を渡らせたものの、進撃の足並みが乱れ、虎賁郎将王辯が李密の外柵を破ったところで世充軍の統制が崩れた。
  • 李密は敢死隊を率いて反撃し、橋に殺到した世充軍は多数が溺死した。王辯も戦死し、洛北の諸軍は総崩れとなった。
  • 世充は東都へ戻れず、北の河陽へ逃走した。その夜は暴風と寒雨に見舞われ、渡河して濡れた兵士たちは凍死し、被害はさらに拡大した。世充が連れ帰れた兵はわずか数千であった。

王世充の再起と李密の東都圧迫

  • 越王楊侗は王世充を赦し、東都へ召し返して金帛・美女を与え、敗戦後の動揺を鎮めようとした。世充は散った兵を再集結させ、含嘉城に拠ったが、しばらくは外へ出られなかった。
  • 李密は勝利に乗じて金墉城へ進み、門や城壁、居住施設を整えてここを本拠とした。軍勢はやがて三十万に達し、北邙に布陣して上春門に迫り、東都に大きな圧力をかけた。
  • 乙丑、段達・韋津が出撃したが、段達が敵の強大さを見て先に退いたため全軍が崩れ、韋津は戦死した。
  • これを見て、偃師・柏谷・河陽などの周辺勢力や官人が相次いで李密に降り、竇建徳・朱粲・孟海公・徐圓朗らも使者を送って李密に即位を勧めた。
  • だが李密は、東都がまだ平定されていない以上、帝号を論ずるべきではないとして退けた。

唐の東都救援準備

  • 戊辰、唐王李淵は世子李建成を左元帥、秦公李世民を右元帥とし、十余万の軍を率いて東都を救援させた。
  • 東都では食糧不足が深刻となり、元文都らは「官糧を食べずに守城する者には散官二品を授ける」と募ったため、商人まで象笏を執って朝列に並ぶほどであった。

二月 唐の南方経略と李密の外交

  • 己卯、唐は鄭元璹を商洛方面に派遣して南陽を巡撫させ、馬元規には安陸・荊襄を慰撫させた。
  • 李密もまた房彦藻・鄭頲らを東方に送り、州県の帰附を促した。梁郡太守楊汪には宋州総管の地位を与え、かつて敵対した旧怨を越えて懐柔した。
  • 房彦藻は竇建徳にも李密への帰順を勧めたが、建徳は羅藝への備えを口実に婉曲に断った。房彦藻は帰途、衛州の賊帥王徳仁に殺された。
  • 王徳仁は林慮山に拠って数万の兵を集め、周辺数州を掠める大患となった。

三月 元吉の北辺担当

  • 己酉、李淵は斉公李元吉を鎮北将軍・太原道行軍元帥とし、十五郡の諸軍を統べさせ、便宜に応じて処置する権限を与えた。

三月 江都の乱前夜

  • 隋の煬帝は江都でますます放縦となり、宮中に多数の宴席用の部屋を設け、美人を満たして日替わりで宴を開いた。趙元楷が酒食を掌り、帝は蕭后や寵姫たちと日夜飲酒した。
  • とはいえ、天下の乱れに心安からず、夜には天文を見て不吉を口にし、自らの末路を長城公になぞらえることさえあった。
  • 煬帝は中原の混乱を見て北帰の意を失い、丹楊への遷都を考えた。群臣に諮ると、虞世基らは賛成し、李才や李桐客だけが強く反対したが、反対論は退けられた。
  • 江都では食糧も尽きかけ、従駕の驍果の多くは関中出身で、長く郷里を離れていたため逃亡や叛帰の気配が強まっていた。竇賢が西走して斬られた後も、脱走はやまなかった。

三月 宇文化及らの謀反計画

  • 司馬徳戡・元礼・裴虔通らは、驍果の逃亡を防げず、自分たちも一族誅滅を免れないと恐れ、いっそ挙兵しようと相談した。
  • これに元敏・趙行樞・孟秉・牛方裕・許弘仁・薛世良・唐奉義・張愷・楊士覧らが加わり、広く同志を募って反乱計画を進めた。
  • 趙行樞と親しい宇文智及も謀議に加わり、単なる逃亡ではなく大事を起こすべきだと主張した。そこで、兄の右屯衛将軍宇文化及を盟主に担ぎ出すことが決まった。化及は初めこそ恐れて顔色を失ったが、やがて同意した。
  • 徳戡らは備身府の知己に対し、「帝は驍果を毒酒で皆殺しにし、南人だけを残そうとしている」と流言を流したため、兵の恐怖と反感は一気に高まった。
  • 乙卯、徳戡は驍果の軍吏を集めて決起を告げ、兵はみな従った。この日は昼間から風霾で空が暗く、不穏な気配が漂った。

三月丙辰 江都宮のクーデターと煬帝の死

  • 夜半、徳戡は東城で数万人を集めて火を上げ、城外の同党と呼応した。帝が騒ぎを問うと、裴虔通はただの火事だと偽ってごまかした。
  • 燕王楊倓は変を察して宮中に入ろうとしたが、裴虔通らに遮られて捕らえられた。
  • 未明、裴虔通は諸門の宿衛を置き換え、殿内の兵を追い払った。独孤盛は「天子がここにいるのに何事か」と戦ったが殺され、独孤開遠も救援を試みたものの果たせなかった。
  • もともと帝が玄武門に置いていた精鋭の給使は、内応した宮人魏氏の偽詔で外へ出されており、肝心の時に宮中にはいなかった。
  • 反乱軍が玄武門から入り、帝は衣を替えて西閤へ逃れたが、裴虔通・元礼らに発見された。帝は裴虔通に「お前は旧臣ではないか、何を恨んで反するのか」と問うたが、裴虔通は「将士が帰郷を望むので、陛下を西へお連れするだけだ」と言い繕った。
  • 夜が明けると宇文化及が呼び込まれ、丞相と称された。帝は宮門外に出されかけたが、化及が「そんなものを持ち出すな」と言い、再び寝殿へ戻された。
  • その場で賊徒は帝の罪を列挙した。帝も天下に対しては負い目を認めたが、自分に重く取り立てられた臣下まで叛くのかと嘆いた。
  • 帝の寵愛した趙王杲は泣き叫び、裴虔通に斬られた。帝自身は「天子の死には定まった法がある。刃を加えるな」と言って毒酒を求めたが許されず、令狐行達に首を絞められて殺された。
  • 蕭后は宮人とともに急ごしらえの小棺を作り、帝と趙王杲を流珠堂に仮殯した。

江都の乱後の粛清と宇文化及の擁立政権

  • 宇文化及は当初、蜀王楊秀を立てようとしたが、群議で不可とされ、楊秀とその七子、斉王暕とその二子、燕王楊倓らを殺した。隋の宗室・外戚はほとんど皆殺しとなり、秦王浩だけが宇文智及との交情によって助かった。
  • さらに虞世基・裴蘊・来護児・袁充・宇文協・宇文皛・蕭鉅ら有力臣下も誅殺された。
  • 裴矩は平素から下役にも厚く接していたうえ、驍果の婚姻政策を進めていたため、反徒からも怨まれず助命された。蘇威も政務から遠ざかっていたので命を保った。
  • 許善心は朝堂での賀礼に出ず、無理に連行されても舞拝せず退出したため、宇文化及に殺された。その老母范氏は、子が国難に死んだことを誇りとして泣かず、食を断って世を去った。
  • また、張季珣の弟張仲琰も先に上洛で殺され、その弟張琮もこの乱で殺され、兄弟三人とも国難に殉じた。

三月末 宇文化及の政権運営

  • 宇文化及は大丞相を自称し、皇后令によって秦王浩を皇帝に立てたが、浩は別宮に置かれ、詔勅に署名させられるだけの傀儡であった。
  • 化及は弟の宇文智及を左僕射、宇文士及を内史令、裴矩を右僕射とした。
  • 乙卯、唐では秦公世民を趙公に改封した。
  • 戊辰、隋の恭帝は唐国に十郡を加え、李淵を相国として百官を総べさせ、九錫も加えようとした。だが李淵は、魏晋以来の形式的な譲位の演出を偽飾として嫌い、相国府への改称だけを受け、九錫などの殊礼は辞退した。
  • 宇文化及は陳稜を江都太守として後事を任せ、壬申、長安へ帰ると称して江都を出発した。皇后・六宮も旧来どおり随従させ、自らはほとんど帝王同然の儀仗を用いた。

三月末 沈光・麦孟才の反撃失敗

  • 化及は驍勇で知られる沈光に給使を率いさせて禁中に宿営させたが、麦孟才・銭傑らは「先帝の厚恩を受けながら仇に仕えるのは忍びない」と語り、化及誅殺を図った。
  • しかし計画は漏れ、化及は夜のうちに逃げ出した。沈光らは空の営を襲って元敏を斬ったが、司馬徳戡の軍に包囲されて戦死した。部下もほとんど降らず、皆戦って死んだ。
  • 麦孟才も殺され、江都宮廷内から化及に抗しうる勢力は消えた。

三月 江南で沈法興が挙兵

  • 呉興太守沈法興は、宇文化及の弑逆を聞いてこれを討つ名目で挙兵した。
  • 烏程に至るまでに精兵六万を集め、余杭・毗陵・丹陽を攻略し、長江南岸の十数郡を支配下に置いた。
  • 法興は江南道大総管を自称し、独自に百官を置いた。

三月癸酉 竇抗の帰降

  • 煬帝の命で霊武方面の長城を巡察していた陳国公竇抗は、李淵が関中を平定したと聞き、霊武・塩川など数郡を率いて唐に降った。

夏四月 稽胡討伐

  • 稽胡が富平を侵したため、王師仁がこれを破った。
  • また別の五万余が宜君方面へ侵入すると、相国府諮議参軍の竇軌が討伐を命じられた。黄嶔山での戦いでは、稽胡が高地から火を放って唐軍を押し返した。
  • 竇軌は退いた味方の部将十四人を斬って軍律を正し、小校を抜擢して再編成したうえ、自ら騎兵数百をもって後方から督戦した。
  • その結果、唐軍は奮戦して稽胡を大破し、男女二万口を捕えた。

四月 唐軍の東都遠征撤退

  • 李建成・李世民らは東都に到着して芳華苑に駐屯したが、東都は門を閉ざして応じず、李密もまた出兵してこれを牽制した。
  • 城中には内応を望む者も多かったが、李世民は「関中はまだ根本が固まっていない。たとえ東都を得ても守りきれない」と判断し、入城の誘いを受けなかった。
  • 戊寅、唐軍は撤退した。李世民は東都側が追撃すると見て三王陵に伏兵を置き、果たして追ってきた段逹果の軍を破って四千余を斬った。
  • そのうえで新安・宜陽の二郡を設置し、史万宝・盛彦師を宜陽に、呂紹宗・任瓌を新安に置いて東都防衛線への拠点とし、自軍は長安へ帰還した。

四月 五原・武都などの帰属工作

  • もと五原通守の張長遜は、乱世に乗じて突厥に附き、可汗側から割利特勒に任じられていた。
  • 郝瑗は薛挙に対し、梁師都・突厥と連合して長安を奪うよう勧め、薛挙も従った。啓民可汗の子である莫賀咄設も一時これに応じた。
  • しかし唐の宇文歆が莫賀咄設を賄賂と利害説明で翻意させ、張長遜に唐への帰属を勧めさせた。長遜はさらに薛挙らの密謀を知っていたかのように見せる偽詔まで作り、突厥は薛挙・梁師都の使者を拒んだ。
  • 己卯、武都・宕渠・五原などが唐に降り、張長遜は五原太守とされた。

四月 東都の内応計画失敗

  • 唐軍の撤退後、東都ではなお号令が四門の外へ及ばず、段世宏らは西方の唐軍に呼応しようとした。
  • しかし唐軍がすでに帰還していたため、彼らは計画を変えて李密を迎え入れようとした。だが事が漏れ、越王楊侗は王世充に命じて反対派を誅殺させた。李密も城中の粛清を知って撤退した。

四月以降 宇文化及軍の東進と内部対立

  • 宇文化及は十余万の兵と六宮を抱えて進み、自らは帳中で南面して政務を取ったが、実際には唐奉義・牛方裕・薛世良・張愷らが事を裁いていた。
  • 彭城への水路が通れないため、民間の牛車二千両を徴発し、宮人や宝物を載せ、兵士には武具まで担がせたので、遠征はきわめて過酷となった。
  • 司馬徳戡は、宇文化及が暗愚で取り巻きも小人物ばかりだとして、趙行樞らと再び謀反を企てた。孟海公とも通じ、後軍で化及を襲おうとしたが、許弘仁・張愷の密告で露見した。
  • 徳戡は宇文士及の誘いで営外に出たところを捕えられ、化及に「昏君を討っておきながらお前はさらにひどい」と言い残し、縊殺された。党与十余人も処刑された。
  • 孟海公は化及の強さを恐れ、牛酒を備えて迎えた。

四月辛丑 王君廊の唐帰順

  • 李密配下の将となっていた井陘の王君廊が唐に降った。もとは群盗で、韋宝・鄧豹とともに活動していたが、李密のもとでは厚遇されず、再び転じたものである。
  • 唐は彼を上柱国・仮河内太守とした。

四月 蕭銑の即位と南方拡張

  • 蕭銑は皇帝を称し、梁朝の旧制にならって百官を置いた。従父の蕭琮には孝靖皇帝の諡を贈り、祖先も王・帝として追尊した。
  • 董景珍ら七人を王に封じ、楊道生に南郡を攻めさせてこれを落とし、都を江陵へ移した。
  • 岑文本を中書侍郎として文書と機密を掌らせ、さらに張繡を嶺南へ派遣した。
  • 煬帝の死が伝わると、張鎮周・王仁寿ら隋将も相次いで降り、寧長真は鬱林・始安方面をもって附属した。
  • 漢陽太守馮盎は蒼梧・高凉・珠崖・番禺の地を林士宏に附した。

四月 交趾と始安の動向

  • 蕭銑と林士宏はいずれも交趾太守丘和を招いたが、丘和は従わなかった。蕭銑は寧長真に海路から攻めさせたが、高士廉の進言により丘和は籠城から反撃に転じ、これを破った。
  • しかし江都から驍果が到来して煬帝の死が伝わると、丘和は結局郡ごと蕭銑に帰附した。
  • 始安郡では郡丞李襲志が私財を投じて三千人を募り、蕭銑・林士宏・曹武徹の攻撃を退け続けた。周囲からは嶺表で独立して尉佗の業を継げと勧められたが、襲志は忠義に反すると怒って拒んだ。
  • 彼は二年にわたり孤城を守ったが、やがて援軍なく城が陥ち、蕭銑の捕虜となった。
  • このころ蕭銑の勢力は、東は九江、西は三峡、南は交趾、北は漢水南岸に及び、兵四十余万を数えた。

五月 煬帝凶問と唐の対応

  • 煬帝の死の報が長安に届くと、李淵は激しく慟哭し、「自分は北面して仕えた臣でありながら、君主の失道を救えなかった」と述べた。

五月 各地の帰附と唐の受禅

  • 山南撫慰使の馬元規は、朱粲を冠軍で破った。
  • 徐世勣に攻められた王徳仁は敗れ、甲寅に武安通守袁子幹とともに降り、王徳仁は鄴郡太守に任じられた。
  • 戊午、隋の恭帝は唐へ禅位し、代邸に退いた。
  • 甲子、李淵は太極殿で皇帝に即位し、大赦して武徳と改元した。郡を廃して州を置き、太守を刺史とし、土徳を称して黄を尚ぶこととした。

五月 東都で皇泰政権成立

  • 煬帝の凶問が東都に届くと、戊辰、留守官たちは越王楊侗を皇帝に立て、年号を皇泰と改めた。
  • 朝堂では鐘と兵革の非常時ゆえ、官私とも即日に大祥を行うと宣せられ、煬帝には明皇帝の諡、世祖の廟号が贈られた。元徳太子も成皇帝・世宗として追尊され、母の劉良娣は皇太后となった。
  • 段達・王世充・元文都・皇甫無逸・盧楚・郭文懿・趙長文らが要職に任じられ、時人は彼らを「七貴」と呼んだ。
  • 皇泰主楊侗は容姿端正で温厚仁愛と評された。

五月辛未以後 突厥との関係

  • 突厥の始畢可汗は骨咄禄特勒を派遣し、東都で歓待を受けた。九部楽も奏された。
  • 当時、乱を避けて多くの中国人が突厥へ流れ込み、突厥は東は契丹・室韋、西は吐谷渾・高昌まで服属させる大国となっていた。
  • 唐の李淵も、起兵以来その兵馬を借りていたため贈賄が絶えず、突厥の使者はしばしば長安で驕横に振る舞ったが、李淵は当面これを容認せざるを得なかった。

五月壬申以後 唐の法制と学校整備

  • 裴寂・劉文静らに命じて律令を修定させ、国子・太学・四門学を置いて生徒三百余人を収容した。州県にも学校生員を設けた。

六月甲戌朔 唐の初期官制

  • 趙公李世民を尚書令とし、裴寂を右僕射・知政事、劉文静を納言、竇威を内史令、李綱を礼部尚書として選事に参与させた。
  • 殷開山を吏部侍郎、趙慈景を兵部侍郎、韋義節を礼部侍郎、陳叔達・崔民幹を黄門侍郎、唐儉を内史侍郎、裴晞を尚書左丞とした。
  • また、蕭瑀を内史令、竇璡を戸部尚書、屈突通を兵部尚書、独孤懐恩を工部尚書とした。唐の中央政権の骨格がこの時期に整えられた。

六月 裴寂・蕭瑀への信任

  • 李淵は裴寂を格別に厚遇し、賞賜や御膳の下賜が絶えず、朝会では同座させ、寝殿にも招き入れた。昔の晋陽宮監時代の呼び名で「裴監」と呼び、実名を避けた。
  • 一方で政務全般は蕭瑀に委ねられた。蕭瑀は法令の不整合を恐れて詔勅の発布を慎重に扱い、李淵に遅いと責められても、隋末の混乱を踏まえて丁寧に審査する必要を説いた。李淵はこれを聞いて安心した。

六月 山南・相州の帰附と新格

  • 南陽郡丞の呂子臧は当初馬元規の説得を拒み、使者を殺していたが、煬帝の死後に喪礼を尽くしたうえで降り、鄧州刺史・南郡公に任じられた。
  • 唐は大業年間の律令を廃し、新たな格式を頒布した。
  • 李淵は政務の場で自ら名乗り、近臣を同じ榻に座らせたが、劉文静は君臣の分を失うと諫めた。李淵は光武帝と厳子陵の故事を引き、旧交を忘れたくないと答えた。
  • 戊寅、隋の安陽令呂珉が相州をもって降り、相州刺史に任じられた。

六月己卯・庚辰 宗廟整備と諸王冊立

  • 四親廟の神主を祔し、李淵の高祖・曾祖・祖・父をそれぞれ追尊した。景王は景皇帝・太祖、元王は元皇帝・世祖とされ、后妃にも追諡がなされた。
  • 毎年の昊天上帝・皇地祇・神州地祇・感生帝・明堂の祭祀についても、どの先祖を配祀するかが定められた。
  • 庚辰、世子李建成を皇太子、趙公李世民を秦王、斉公李元吉を斉王とした。
  • 宗室でも、李白駒・李孝基・李道玄・李叔良・李神通・李神符・李徳良・李博乂・李奉慈らが諸王に封じられた。

六月癸未以後 薛挙への備え

  • 薛挙が涇州へ侵入したため、秦王李世民を元帥として八総管を率いさせ、これを防がせた。
  • 宇文明達は山東慰撫に派遣され、永安王李孝基は陝州総管となった。
  • このころ天下は未定であり、辺境や要地の州には総管府を置いて近隣数州の兵を統轄させる体制が取られた。

六月乙酉 隋恭帝への待遇

  • 唐は隋の恭帝を酅国公に封じた。
  • また、近世の王朝交替では前朝皇族が皆殺しにされる例が多かったことを戒め、隋の蔡王楊智積らの子孫も能力に応じて任用するよう命じた。

六月 東都と李密の和解工作

  • 宇文化及が西進してくると、東都では上下ともに震えた。盖琮の上奏を受け、元文都らは李密を赦して化及に当たらせる策を採った。
  • 李密と宇文化及を戦わせ、双方が疲弊したところを東都が制するという腹づもりで、盖琮を通直散騎常侍として李密のもとへ派遣した。
  • 李密はこれを喜び、東都に使者を送り、討賊によって罪を贖いたいと申し出た。東都は使節を厚遇し、李密を太尉・尚書令・東南道大行台・行軍元帥・魏国公に任じた。
  • 徐世勣も右武侯大将軍に任じられ、東都では李密に軍事指揮を一任する詔まで出された。
  • 元文都はこれで天下が定まると喜び、上東門で酒宴を開いたが、王世充は「官爵を賊に与えるとは何事か」と不満を露わにし、両者の亀裂は深まった。

七月 李密と宇文化及の戦い

  • 皇泰主は張権・崔善福を遣わし、李密に対して正式に協同作戦を要請した。
  • 李密は東都への懸念が薄れたため、精兵を率いて東へ向かい、宇文化及を討った。化及軍は糧食が尽きかけていたので、李密は一時講和を装って油断させた。
  • しかし李密配下から逃亡者が出て事情を漏らし、化及は怒って永済渠を渡り、童山の下で決戦に及んだ。
  • 戦闘は朝から夕方まで続き、李密は流れ矢に当たって落馬し、危うく敗死しかけたが、秦叔宝がただ一人踏みとどまって守り、再集合した兵とともに反撃して危地を脱した。
  • 化及は汲郡へ退き、糧を求めたうえ、東郡の吏民にまで拷問を加えて米粟を徴発した。

七月 王軌の離反と許敬宗の登場

  • 東郡に残された王軌らは、宇文化及の苛酷な徴発に耐えられず、通事舍人の許敬宗を李密のもとへ遣わして降伏を請うた。
  • 李密は王軌を滑州総管とし、許敬宗を元帥府記室に任じ、魏徴とともに文翰を掌らせた。許敬宗は、江都で殺された許善心の子である。
  • また蘇威も東郡で衆に従って李密へ降ったが、隋の大臣でありながら帝室の危難を語らず、ただ「聖明に再び会えた」と舞い踊ったので、人々から軽蔑された。

七月 宇文化及軍の瓦解

  • 宇文化及は王軌の離反を知ると大いに恐れ、北方諸郡へ向かった。
  • だが、その将の陳智略・樊文超・張童児らは率いる嶺南・江淮・江東の驍果を挙げて次々に李密に降り、化及の勢力は急速に縮小した。
  • 残兵は二万ほどとなり、化及は魏県へ逃れた。李密はもはや大勢に影響しないと見て、西の鞏洛へ戻り、徐世勣に後方警戒を任せた。

七月乙巳・丁未 諸方面の軍事

  • 宣州刺史周超は朱粲を破った。
  • 梁師都が霊州を侵したが、藺興粲がこれを撃破した。
  • 西突厥の闕可汗も唐への内附を求めた。もとは李軌に附き、のち曹瓊に誘われて李軌と敵対したが、やがて吐谷渾とも連携しつつ独自に動いていた。今回は唐に接近したものの、ほどなく李軌に滅ぼされた。

七月 薛挙の進撃と浅水原の敗戦

  • 薛挙は高墌へ迫り、遊兵は豳・岐にまで及んだ。秦王李世民は深い塹壕と高い塁を築いて持久策をとった。
  • ちょうど李世民が瘧病にかかり、軍事を長史の劉文静と司馬の殷開山に委ねるにあたり、「敵は遠征で兵糧も乏しく疲れている。挑発されても応戦するな。自分が快復してから破る」と戒めた。
  • だが殷開山は、出撃を控えるのは劉文静の手腕を疑っているからだと解し、敵が世民の病を聞いて侮る前に威勢を示すべきだとして、浅水原で布陣した。
  • しかし備えが疎かで、薛挙の奇襲を受けて八総管はことごとく敗れた。唐軍の死者は半数近くに及び、慕容羅睺・李安遠・劉弘基らが捕えられた。
  • 世民は兵をまとめて長安へ退き、薛挙は高墌を奪って唐兵の死体を集め、京観を築いた。劉文静・殷開山はともに官を除かれた。

七月乙卯以後 榆林・東都の政変

  • 榆林の賊帥郭子和が使者を送り唐に降り、霊州総管に任じられた。
  • 李密がたびたび東都へ戦勝を報じるたび、東都の人々は喜んだが、王世充は元文都らが最終的に李密に呑み込まれると見ていた。
  • また、これまで李密との戦いで東都軍の将兵は多くの家族を失っており、いまさら李密の下風に立てば一族の立場がないと兵を煽った。
  • 元文都・盧楚らはこれを恐れ、王世充が入朝したところを伏兵で殺そうとした。だが段達の婿張志が密告し、世充は先手を取って含嘉門を襲った。
  • 元文都は皇泰主を奉じて乾陽殿に籠もり、諸将に守らせたが、跋野綱は降り、費曜・田闍も敗れた。文都が玄武門から回り込もうとしても、門鑰が手に入らず遅れた。
  • 世充はついに太陽門から宮城へ入り、皇甫無逸は母妻を捨てて長安へ逃亡、盧楚も捕えられて斬られた。
  • 世充は紫微宮門を攻める一方、「元文都・盧楚が自分を害そうとしただけだ」と弁明した。段達は黄桃樹に命じて元文都を差し出させ、文都は「自分は朝に死に、陛下は夕べに危うくなる」と言い残して殺された。
  • 趙長文・郭文懿も誅され、世充は宿衛を全て自派に入れ替えてから皇泰主に拝謁した。涙ながらに弁明し、髪を乱して忠誠を誓ったため、皇泰主はいったんこれを信じた。
  • その結果、王世充は左僕射・内外諸軍事総督となり、兄王世惲を内史令とし、一族子弟に兵権と政務を分掌させた。皇泰主は名ばかりの存在となった。
  • 李密は温まで来ていたが、元文都らの死を聞き、入朝を断念して金墉へ引き返した。
  • 東都では飢饉がさらに進み、粗悪な私鋳銭が横行して、米一斛が八、九万銭に高騰した。

七月 徐文遠の進言

  • 李密はかつて儒者の徐文遠に学んだ縁があり、文遠が密軍に捕らえられると、師礼を尽くして問いを発した。
  • 文遠は、もし伊尹・霍光のように王室を扶ける志なら力を貸すが、王莽・董卓のように危乱に乗じるつもりなら自分は無用だと言った。
  • 李密が忠義の本志を述べると、文遠は「迷っても戻れるならなお忠臣たりうる」と諭した。
  • その後、王世充が元文都らを殺したと聞くと、文遠は「世充は残忍で狭量であり、今や異図を抱くのは必定だ。入朝する前にまず世充を破るしかない」と断じた。李密は、文遠が時勢に疎い儒者どころか大計を見抜く人だと感嘆した。

七月庚申以後 唐の整理と河北の帰附

  • 唐は隋の離宮・遊幸施設をすべて廃止した。
  • 戊辰、黄台公竇瑗を山南安撫に遣わした。
  • 己巳には、東都から逃れてきた皇甫無逸を刑部尚書に任じた。
  • 河間郡丞王琮は城を守って群盗に抵抗していたが、竇建徳に一年余り包囲された末、煬帝の死を聞いて喪を発し、のちに使者を通じて降伏を願った。
  • 建徳は彼を忠臣として厚遇し、部下が報復を主張しても退け、瀛州刺史に任じた。この処置により、河北の郡県は争って竇建徳に附いた。
  • 以前、建徳は景城の戸曹張玄素を殺そうとしたが、県民千余が泣いて助命を願ったため釈放し、治書侍御史に登用していた。江都の変後にはさらに黄門侍郎とした。
  • 饒陽令宋正本は、建徳に河北平定の策を説いて重用され、建徳は楽寿を都として金城宮と名づけ、百官を整えた。