資治通鑑唐紀二 高祖神堯大聖光孝皇帝上 武徳元年 八年 618年
八月:薛舉の死と薛仁果の継立
- 薛舉が子の薛仁果を派遣して寧州を包囲したが、刺史の胡演がこれを撃退した。
- 郝瑗は薛舉に対し、唐軍は敗戦直後で関中が動揺しているから、この機に長安へ直進すべきだと進言した。薛舉も同意したが、病のため実行できなかった。
- 辛巳、薛舉が死去し、太子の薛仁果が折墌城で即位した。薛舉には武帝の諡号が贈られた。
唐と李軌の連携
- 高祖は、秦・隴方面を押さえる薛氏父子に対抗するため、凉州の李軌と結んで共に秦隴を図ろうとした。
- ひそかに使者を凉州へ送り、懐柔を試みたうえ、書簡では李軌を従弟と呼んで親近感を示した。
- 李軌は大いに喜び、弟の李懋を入朝させた。唐は李懋を大将軍とし、張俟徳を派遣して李軌を凉州総管・凉王に冊封した。
王徳仁の離反
- 朝廷は当初、呂珉を相州刺史、王徳仁を巖州刺史としたが、王徳仁はこれを不満に思った。
- 甲申、王徳仁は山東道の大使であった宇文明達を林慮山に誘い込んで殺し、王世充に帰順した。
秦王世民、薛仁果討伐へ
- 己丑、秦王李世民が元帥となり、薛仁果討伐を命じられた。
- 丁酉、臨洮など四郡が唐に降った。
隋煬帝の改葬
- 隋の江都郡太守陳稜は、煬帝の柩を得て、宇文化及が残していった儀仗をかき集め、天子に準じた礼で江都宮西の呉公台下に改葬した。
- 王公以下の者も、煬帝の陵のそばに列して葬られた。
杜伏威・沈法興の動き
- 宇文化及が江都を発つとき、杜伏威を歴陽太守に任じたが、杜伏威はこれを受けなかった。引き続き隋の皇泰主に上表し、東道大総管・楚王に任じられた。
- 沈法興も皇泰主に上表し、大司馬・録尚書事・天門公を自称して、独自に百官を置いた。
- 陳杲仁を司徒、孫士漢を司空、蔣元超を左僕射、殷芊を左丞、徐令言を右丞、劉子翼を選部侍郎、李百薬を府椽とした。李百薬は李徳林の子である。
九月:各地の帰順と河東攻防
- 九月、隋の襄国通守陳君賓が降り、邢州刺史に任じられた。陳君賓は陳伯山の子である。
- 虞州刺史韋義節は、河東を守る隋の堯君素を久しく攻めたが、なかなか落とせず、しばしば不利であった。そこで壬子、工部尚書独孤懐恩がその任を代わった。
李密政権のほころび
- 李密は翟讓を殺したのち、自負が強くなり、兵士への配慮が薄れた。食糧は多かったが、恩賞に使う財貨がなく、戦功者に報いることができなかった。
- 新たに帰順した者ばかりを厚遇したため、旧来の部下の不満が高まった。
- 徐世勣は宴席で李密を皮肉り、そのため実権を奪われて黎陽へ出され、名目上は重用でも実際には疎まれていた。
- 洛口倉の米は無秩序に配られ、受け取りの記録もなく、運び切れない分は路上に捨てられた。城から郭門まで米が積もり、車馬に踏み荒らされた。
- 食を求めて集まった群衆は家族連れでほぼ百万に達し、容器もないため、荊の籠で米をといでいた。洛水の両岸は白砂のように見えたという。
- 李密は「十分に食を足した」と喜んだが、賈閏甫は、民が集まるのは食があるからであり、このまま浪費すれば米が尽きた時に人心も散って大業は成らないと諫めた。李密は謝して、賈閏甫に倉曹関係の職務を 맡せた。
李密と王世充の対立激化
- 李密は東都軍がたびたび敗れて弱体化し、将相も互いに殺し合っているので、東都平定は目前だと考えていた。
- 一方の王世充は大権を握ると、将士に厚く賞を与え、武器を整え、ひそかに李密討伐を図った。
- 当時、隋軍は食糧不足、李密軍は衣服不足に悩んでいた。王世充は交易を求め、李密は初め難色を示したが、長史邴元真らが私利を求めて許可を勧めた。
- その結果、東都から李密側へ逃れてくる人が減り、李密は後悔して交易を止めた。
偃師の戦い前夜
- 李密が宇文化及を破って帰還した後、精鋭や良馬の損耗が大きく、兵も疲弊していた。
- 王世充は人心を一つにするため、張永通が周公の託宣を夢で受けたと偽らせ、周公廟を建てて出兵のたびに祈らせた。さらに巫者に「すぐ李密を討たねば兵は疫死する」と語らせた。
- 王世充軍には楚人が多く、妖言を信じて戦いを望んだ。そこで精鋭二万余、馬二千余を選び、壬子に出兵した。旗にはすべて「永通」と記されていた。
- 癸丑、王世充は偃師に進んで通済渠の南に営し、渠に三橋を架けた。
- 李密は王伯当を金墉に残し、自ら精兵を率いて偃師に出、邙山を頼みに王世充を待った。
李密陣営の作戦論争
- 会議で裴仁基は、王世充が全軍で出てきた今こそ東都は手薄であり、要路を押さえつつ精兵三万を黄河沿いに西から進めて東都を脅かせば、王世充は往復に疲れ、必ず破れると説いた。
- 李密はこの案をよしとしながらも、敵は武器精良・決戦覚悟・食糧切れで必死という三点で侮れず、籠城して消耗を待てば十日ほどで王世充の首を取れると述べた。
- しかし陳智略・樊文超・単雄信らは、王世充の兵は少なく、何度も敗れて気勢を失っているとし、今こそ新附の江淮兵に功を立てさせる好機だと主張した。
- 将たちの大半が戦いを望み、李密は衆議に押されてこれに従った。
- 裴仁基は強く反対したが容れられず、後悔を予言して地を叩いて嘆いた。
- 魏徴も鄭頲に対し、李密軍は勝ってきたとはいえ驍将と精兵の損耗が大きく、兵は疲れ、世充は飢えて死戦を求めているから、深い堀と高い塁で防ぎ、糧尽きを待ってから撃つべきだと述べた。だが鄭頲は聞き流した。
偃師の戦い
- 程知節が北邙山で内馬軍を率い、単雄信は偃師北で外馬軍を率いていた。
- 王世充はまず数百騎で通済渠を渡って単雄信の営を攻めた。李密は裴行儼と程知節を救援に出した。
- 裴行儼は流れ矢に当たって落馬し、程知節は救出して数人を斬り、敵を退かせた。追撃を受けて槊で貫かれながらも、槊を折って追手を斬り、裴行儼とともに帰還した。
- この戦いで李密側の騎兵将孫長楽ら千余人が重傷を負った。
- 李密は宇文化及を破った勢いから王世充を軽んじ、陣営に防壁を設けていなかった。
- 王世充は夜、二百余騎を北邙山の谷に潜ませ、軍には明朝決戦の覚悟を誓わせた。負ければ皆死ぬとして士気を奮い立たせた。
- 甲寅の朝、王世充は陣形が整わぬ李密軍を急襲した。江淮の兵は敏捷で勇猛だった。
- 王世充は李密に顔立ちの似た者を事前に捕えて隠しておき、戦闘が激する中でこれを引き回して「李密を捕えた」と叫ばせた。兵はこれを信じて歓呼した。
- さらに伏兵が高所から李密の営へ突入し、廬舎に火を放った。李密軍は大混乱となり、張童仁・陳智略らは降伏した。
- 李密は一万余人を率いて洛口へ逃れた。王世充は夜に偃師を包囲し、鄭頲の部下が城を翻して王世充を迎え入れた。
李密の瓦解
- 偃師陥落で、かつて人質同然に偃師に置かれていた王世充の家族や親族が解放された。また裴仁基・鄭頲・祖君彦ら李密の将佐も捕らえられた。
- 王世充は洛口に向かい、邴元真の妻子や鄭虔象の母、李密諸将の子弟を得ると、慰撫しつつその父兄へ密かに呼びかけさせた。
- 邴元真はもと汚職で逃亡した下級吏で、翟讓に従って書記を務め、翟讓の推挙で李密の長史になった人物だった。軍略には参与しなかったが、李密に不満と疑念を抱き、ひそかに離反を企てていた。
- 李密が洛口城に入ろうとした時、邴元真はすでに王世充を引き入れる手配をしていた。李密は気づきながら発覚させず、敵が洛水を半ば渡ったところを撃とうとしたが、候騎の報告が遅れ、王世充軍はすでに渡り切っていた。
- 単雄信らもそれぞれ兵を保って動かず、李密は支えきれないと判断して虎牢へ逃走した。邴元真は洛口城を王世充に献じた。
- 単雄信はもと飛将と呼ばれる名騎将だったが、房彦藻がその軽薄さを見て早く除くよう勧めても、李密は才を惜しんで果たさなかった。敗戦後、単雄信はついに王世充に降った。
李密、西入を決断
- 李密は黎陽へ向かうことも考えたが、翟讓を殺した際に徐世勣も危険にさらしており、今さら頼っても安全とは限らないとの声があった。
- 王伯当も金墉を捨てて河陽へ退いており、李密はそこで諸将と相談した。
- 李密は黄河の北を拠り、太行山を背にして黎陽と連携し、再起を図ろうとしたが、諸将は敗戦直後で人心が危うく、滞在すれば散亡するばかりだとして反対した。
- 李密は衆が望まぬなら道は尽きたとして自刎しようとしたが、王伯当が抱きついて止めた。
- そこで李密は、皆とともに関中へ行き、唐に帰順しようと提案した。柳燮は、李密はかねてより唐公と通じ、東都を牽制して長安攻略を容易にした功もあるから、受け入れられるだろうと説いた。
- 王伯当も、主君が敗れたからといって去就を軽々しく変えるべきではないと述べ、最後まで同行する決意を示した。
- こうして李密に従って関中へ入った者は約二万人に達した。
- その後、李密麾下の州県や将帥の多くは隋へ降り、朱粲もまた隋に降って楚王に封じられた。
泾州方面の戦いと劉感の死
- 甲寅、秦州総管竇軌が薛仁果を攻めたが敗れた。
- 驃騎将軍劉感が涇州を守っていたが、薛仁果に包囲され、城中の糧は尽きた。劉感は自分の乗馬を殺して将士に分け、自身は馬骨の汁に木屑を混ぜて食べて持ちこたえた。
- 長平王李叔良の援軍が来ると、薛仁果は一時南へ退いたふりをした。
- 乙卯には高墌城が偽って降伏を申し出たので、李叔良は劉感に兵を率いさせて向かわせた。劉感は城の様子から偽降と見抜き、歩兵を先に返し、自らは精兵を率いて殿を務めた。
- まもなく烽火が上がり、薛仁果軍が南原から殺到し、百里細川で唐軍を大破した。劉感は捕えられた。
- 薛仁果は劉感に城へ向かって援軍敗北を告げ、降伏を勧めさせようとしたが、劉感は城下で逆に「賊は飢えており滅亡は近い。秦王の大軍も来るから心配するな」と大声で叫んだ。
- 怒った薛仁果は、劉感を城の傍らで膝まで埋め、騎射の的として射殺した。最後までその気勢は衰えなかった。劉感は劉豊生の孫である。
常達の戦功と失陥
- 庚申、隴州刺史常達が宜禄川で薛仁果軍を破り、千余級を斬った。
- その後、薛仁果は仵士政に数百人を率いさせて偽降させた。常達は厚遇したが、乙丑、仵士政は隙を見て常達を劫し、城中の二千人を率いて薛仁果に降った。
- 常達は薛仁果の前でも屈せず、薛仁果はその気骨を感じて命は助けた。
- 張貴という賊将は常達を侮辱しようとしたが、常達は逆に「逃げ延びた賊奴にすぎぬ」と罵り、張貴は怒ったが周囲が救って事なきを得た。
突厥との往来と暦法
- 高祖は従子の襄武公李琛と太常卿鄭元璹を派遣し、女妓を始畢可汗に贈って関係維持を図った。
- 壬戌、始畢可汗は再び骨咄禄特勒を遣わしてきた。
- 癸亥、白馬の道士傅仁均が戊寅暦を完成させ、上奏して採用された。
宇文化及の窮状と即位
- 宇文化及が魏県に至ると、張愷らが離反を企てたが発覚して殺された。腹心を失ったうえ、軍勢も日々衰えた。
- 兄弟は互いに責め合い、酒宴にふけり、女楽を奏でて現実逃避した。酔うと宇文化及は智及に、そもそも即位もお前の計略のせいだと恨み言を言った。
- 智及も、事がうまくいった時は何も言わず、敗色が見えると責任を押しつけるのかと怒り、兄弟はしばしば争った。
- 宇文化及は自滅を悟りつつも、「人は死ぬものだが、一日でも帝でありたい」と考え、秦王楊浩を毒殺して自ら皇帝に即位した。
- 国号を許、元号を天寿とし、百官を置いた。
十月:日食と突厥使節の厚遇
- 冬十月壬申朔、日食があった。
- 戊寅、突厥の骨咄禄を宴に招き、御座にまで昇らせて厚遇した。これは突厥の心をつなぎとめようとしたものだったが、かえってその驕りを増した。
李密の入関と待遇への不満
- 李密が長安へ向かう途中、高祖は使者を道中へ送り迎えた。李密は、山東の諸城は自分を慕って帰順し、自分は竇融にも比すべき功を立てるだろうと自負していた。
- 己卯、李密は長安に到着したが、役所のもてなしは思ったほど厚くなく、配下の兵も数日食を得られず、不満を抱いた。
- やがて李密は光禄卿・上柱国・邢国公に任じられたが、本人は期待外れと感じ、朝臣たちも軽んじ、なかには賄賂を求める者もいて強く不満を抱いた。
- ただし高祖だけは格別に礼を尽くし、常に弟と呼び、独孤氏の娘を妻として与えた。
山東経略と朱粲の再起
- 庚辰、淮安王李神通が山東道安撫大使となり、黄門侍郎崔民幹が副使となった。山東諸軍はみなその節度を受けることになった。
- 鄧州刺史呂子臧と撫慰使馬元規は朱粲を破った。呂子臧は、今こそ追撃して滅ぼすべきだと進言したが、馬元規は従わず、呂子臧が単独出撃を願っても許さなかった。
- そのため朱粲は残兵を収めて再び勢いを取り戻し、冠軍で楚帝を称して昌達と改元し、鄧州へ攻め込んだ。
- 呂子臧は「私はあなたのために死ぬ」と馬元規を責めた。
- 朱粲が南陽を囲むと長雨で城が壊れ、側近は降伏を勧めたが、呂子臧は天子の方伯が賊に降れるかと言って、麾下を率いて戦死した。続いて城も落ち、馬元規も死んだ。
王世充の権力掌握
- 癸未、王世充は李密の美人・珍宝と、将卒十余万人を率いて東都へ帰還し、宮門前にその軍を並べた。
- 乙酉、皇泰主は大赦を行った。
- 丙戌、王世充は太尉・尚書令・内外諸軍事に任じられ、太尉府を開いて官属を備え、人材を厳選して配置することを許された。簒奪への道がはっきりし始めた。
- 王世充は裴仁基父子の勇を重んじ、厚く礼遇した。
- 徐文遠はかつて李密には倨傲な態度で会ったが、王世充には必ず先に拝礼した。理由を問われると、李密は君子で人を容れるが、王世充は小人で故旧すら殺すから、拝さずにはいられないと答えた。
李密旧将の離散
- 李育徳が武陟をもって唐に降り、陟州刺史となった。李育徳は李諤の孫である。
- 劉徳威・賈閏甫・高季輔らも、城邑や兵衆を率いて次々と唐へ帰順した。
北海の劉蘭成
- 北海では賊帥綦公順が三万を率いて郡城を攻め、外郭を奪って内城を攻めていた。
- 城中で食糧が尽きる中、明経の劉蘭成が驍健百余人を糾合して夜襲し、公順を大破して郡城を救った。
- その後、郡の官人や名族は城民を六軍に分けて防衛したが、宋書佐が諸軍を離間し、劉蘭成の兵権を奪った。
- 劉蘭成は禍を恐れて公順のもとへ逃れたが、公順軍はむしろ彼を主に奉じようとした。劉蘭成は辞退し、長史となって軍務を取り仕切った。
- 劉蘭成は少数精鋭で北海近郊をたびたび奇襲し、煙火や旗を利用した偽装で城中を惑わせ、樵牧の民や家畜を奪って動揺させた。
- さらに月余後、公順の大軍を導いて郡城を再び囲み、一言の招諭で城中を降伏させた。降った者たちには老幼をいたわり、郡官にも礼を尽くし、宋書佐さえ旧の如く扱って送り返したため、内外は安堵した。
臧君相の来襲と劉蘭成の計略
- 海陵の賊帥臧君相が五万を率いて北海を奪おうとすると、公順は兵少なく恐れた。
- 劉蘭成は、敵が遠来で備えがないうちに急襲すべきだと策を示し、公順は驍勇五千を率いて倍道で進んだ。
- 劉蘭成はさらに二十人の敢死士を率いて先行し、略奪帰りを装って敵陣へ紛れ込み、夜中に主将の幕前で突然斬り込みをかけた。
- そこへ公順本隊も到着して総攻撃となり、臧君相は身一つで逃れた。数千を俘斬し、資糧と甲仗を奪った。
- こうして綦公順の勢力は盛んになったが、後に李密が洛口を拠点とするとこれに附き、李密敗北後は唐へ降った。
李襲誉の帰順
- 隋末、李襲誉は西京留守陰世師に対し、永豊倉を押さえて粟を配り、庫物で兵を賞し、諸郡県へ檄を飛ばして共に賊を討つべきだと説いたが、用いられなかった。
- そこで自ら山南で兵を募り、のちに高祖が長安を取ると漢中から召し返され、太府少卿となった。
- 乙未、李襲誉は宗正に属籍され、皇族の列に加えられた。李襲誉は李襲志の弟である。
朱粲への再度の対応
- 丙申、朱粲が淅州を侵した。
- 唐は太常卿鄭元璹に歩騎一万を授けてこれを討たせた。
- この月、納言竇抗は罷免され、左武候大将軍となった。
十一月:李軌の即位
- 十一月乙巳、凉王李軌が皇帝を称し、安楽と改元した。
- 戊申、王軌が滑州をもって唐に降った。
浅水原の戦いと薛仁果の降伏
- 薛仁果は太子時代から諸将と不和で、即位後は人心が離れ、郝瑗も薛舉の死後に病んで起き上がれず、国勢は衰えていった。
- 秦王李世民が高墌に至ると、薛仁果は宗羅㬋に兵を率いさせて防がせた。羅㬋はしばしば挑戦したが、李世民は軍が新敗して士気が低いことを理由に堅く守って出ず、軽挙を禁じた。
- 六十日余り対峙すると、薛仁果軍では糧が尽き、梁胡郎らが部衆を率いて唐へ降った。
- 李世民は、行軍総管梁実を浅水原に布いて敵を誘い、宗羅㬋が精鋭を尽くして攻めてくるのを待った。梁実は水も乏しい中で耐え抜いた。
- 敵の疲弊を見極めた李世民は、暁に龐玉を浅水原へ布陣させた。宗羅㬋がこれに全力で当たると、李世民は原北から大軍を率いて不意を突き、みずから数十騎で先陣を切って敵陣に突入した。
- 唐軍は表裏から奮撃し、宗羅㬋軍は大潰れとなり、数千級を斬られた。李世民は二千余騎で追撃した。
- 竇軌は、薛仁果がなお堅城に拠る以上、軽進すべきでないと馬前で諫めたが、李世民は今こそ破竹の勢いを失ってはならないと退けた。
- そのまま折墌城下まで進み、涇水を背に陣した。薛仁果側では渾幹ら勇将数人が陣前で降った。
- 薛仁果は恐れて城へ退き、夜半には守兵が争って城から降り、己酉ついに薛仁果も降伏した。精兵一万余、男女五万口を得た。
- 諸将が、歩兵も攻城具もなく軽騎で城下に迫って勝てた理由を問うと、李世民は、宗羅㬋配下の隴外兵を城へ戻す前に追い散らし、折墌を孤立させて薛仁果に策を練る暇を与えなかったからだと説明し、皆これに服した。
- 李世民は降兵を、薛仁果の兄弟や宗羅㬋・翟長孫ら旧将にそのまま率いさせ、射猟まで許して疑わなかった。賊軍は威に服し恩に感じて、かえって死力を尽くそうと願った。
- 李世民は褚亮の名を聞いて探し出し、厚遇して王府文学に任じた。
薛氏処分と姜謩の善政
- 高祖は李世民に使者を送り、薛舉父子が唐兵を多く殺した以上、その一党を皆殺しにして怨魂を慰めたいと伝えた。
- しかし李密が、薛舉が無辜を虐殺したことこそ滅亡の原因であり、降った民は撫すべきだと諫めたため、謀主だけを誅し、その他は赦すこととなった。
- 高祖は李密に命じて、豳州まで出て李世民を迎えさせた。李密は高祖にはまだやや傲然としていたが、李世民に会うと驚いて心服し、殷開山に「まことに英主だ」と私語した。
- 員外散騎常侍姜謩が秦州刺史に任じられ、恩信で民を撫したので、盗賊はみな帰首し、士民は安んじた。
徐世勣の帰順
- 徐世勣は李密の旧地を保っていたが、なお去就を決めていなかった。
- 魏徴は李密に従って長安へ来ていたが、自ら山東の安定に当たりたいと願い、秘書丞に任じられて黎陽へ赴いた。
- 魏徴は徐世勣に書を送り、早く唐に降るよう勧めた。
- 徐世勣は西向を決断し、長史郭孝恪に対し、この土地と民衆は本来みな李密のものであり、自分が直接献上すれば主君の敗亡を自らの功に変えて富貴を求めることになるから恥ずべきだと言った。
- そこで郡県の戸口・兵馬を記録したうえで李密に送って、李密自身の名で朝廷へ献上させた。また淮安王李神通にも兵糧を送った。
- 高祖は、使者が上表を持たず李密宛ての啓書だけを持って来たのを不審に思ったが、郭孝恪の説明を聞くと、徐世勣は功を邀わず恩に背かない純臣だと感嘆した。
- そのため徐世勣に李姓を賜り、郭孝恪を宋州刺史として、徐世勣とともに虎牢以東の経略に当たらせた。
河東の堯君素
- 癸丑、独孤懐恩は蒲反で堯君素を攻めた。行軍総管趙慈景は帝女の桂陽公主を尚っていたが、堯君素に捕らえられ、首を梟されて降らぬ意思を示された。
- 堯君素は木製の鵞鳥の首に表文を結び、黄河に流して外へ知らせた。これを河陽側の守兵が拾い、東都へ届けた。
- 皇泰主はそれを見て嘆き、堯君素を金紫光禄大夫に拝した。
- 唐は龐玉や皇甫無逸ら東都からの降人を城下へ行かせて説得させ、さらに金券を与えて不死を約した。
- 妻までもが城下で降伏を勧めたが、堯君素は「天下の名義は婦人の知るところではない」と言って弓で射返した。
- 堯君素は、自らは煬帝が晋王だった頃からの旧臣であり、大義のため死は免れぬが、隋の天命がなお尽きぬなら自分の首を諸君に託すと語り、兵に変心を戒めた。
- 長く持ちこたえたものの、ついに食糧が尽きて人肉食にまで至り、江都の変も外部から知るに至った。
- 丙子、側近の薛宗・李楚客が堯君素を殺して降り、その首は長安へ送られた。
- 別働隊を率いていた王行本は急ぎ帰ってきたが間に合わず、まず堯君素を殺した者たちとその党数百人を誅し、改めて城に拠って守った。独孤懐恩は兵を引いてこれを包囲した。
北方・東北の帰順
- 丁酉、隋の襄平太守鄧暠が柳城・北平二郡をもって降り、営州総管に任じられた。
- 辛巳、鄭元璹は商州で朱粲を破った。
- 羅藝は宇文化及の招きを拒み、使者を斬って煬帝のために三日喪に服した。
- 竇建德や高開道の招きにも、いずれも大賊にすぎないと言って応じなかった。
- 唐公がすでに関中を定め、人望もそこへ帰していると聞き、これこそ真の主君だと言って従う決意を示した。
- たまたま張道源が山東慰撫に来たため、羅藝は表を奉り、漁陽・上谷など諸郡とともに唐へ降った。
- 癸未、羅藝は幽州総管に任じられた。
薛万均・薛万徹と竇建德の幽州攻め
- 薛万均・薛万徹兄弟は薛世雄の子で、勇略をもって羅藝に重んじられていた。兄は永安郡公、弟は車騎将軍・武安県公に封じられた。
- 竇建德は冀州を取って威勢が増すと、十万を率いて幽州へ攻め入った。
- 羅藝が迎撃しようとすると、薛万均は、敵が多く味方が少ない以上、羸兵を城背の水際に陣させて半渡を待ち、自分が精騎百を伏せて突くべきだと献策した。
- 羅藝が従うと、建徳は果たして渡河してきた。薛万均はこれを邀撃して大破した。
- 建徳はなお霍堡・雍奴などを掠めたが、羅藝はさらに要所で撃ち破った。百日余り対峙しても攻め切れず、建徳は楽寿へ退いた。
温彦博と西突厥
- 羅藝は隋の通直謁者温彦博を司馬とした。幽州帰順にも温彦博の賛成があったため、朝廷は彼を幽州総管府長史とし、ほどなく中書侍郎へ召した。
- 兄の温大雅は黄門侍郎で、兄弟が門下・中書の近密に並んだことから、当時これを栄誉とした。
- 西突厥の曷娑那可汗が宇文化及のもとから来降し、帰義王に封じられた。大珠を献じたが、高祖は真の宝はその赤心であるとして珠を返した。
周氏陂への行幸と旁企地の反乱
- 乙酉、高祖は周氏陂に行幸し、旧宅を過ぎた。
- 初め羌豪の旁企地は部衆を率いて薛舉に属していたが、薛仁果敗北後に唐へ降り、長安に留め置かれていた。
- ところが長安生活を楽しまず、数千を率いて再び叛き、南山へ入り、漢川へ出て、通過地で殺掠を行った。
- 武候大将軍龐玉が討ったが敗れた。
- 旁企地は始州まで進み、女性の王氏をさらって酒に酔って野に寝た。王氏はその佩刀を抜いて首を斬り、梁州に送った。
- そのため旁企地の衆は潰散し、王氏には崇義夫人の号が与えられた。
十二月:王世充の穀州攻撃と李密再叛
- 壬辰、王世充が三万を率いて穀州を囲んだが、刺史任瓌が撃退した。
- 高祖は李密にその麾下の半数を華州に留め、残りを率いて関東へ出るよう命じた。
- しかし同行していた長史張宝徳が、李密は必ず叛くと密奏したため、高祖は途中で方針を変えた。
- とはいえ李密を驚かせぬよう、いたわりの勅書を下し、しばらく所部を留めて徐行し、単騎で入朝して改めて命を受けよとした。
- 李密は稠桑で勅を受け取ると、賈閏甫に、東へ行かせたあとで呼び返すのは讒言が通った証拠であり、今帰れば生きる道はないと言った。
- 桃林県を破って兵糧を集め、北へ出て黄河を渡り、熊州へ達するころには十分離脱できる、黎陽へ行けば大事は成る、と計画を語った。
- 賈閏甫は、高祖は厚遇しており、国の命数もすでに唐にあるのだから、いったん臣下となった以上は異心を起こすべきでなく、もし東に出る便を図るにしても、まずは朝命に従って疑いを晴らすべきだと諫めた。
- さらに、翟讓を殺して以来、人々は李密を恩を忘れる人物と見ており、今また誰が兵を委ねるだろうか、とまで述べた。
- 李密は激怒して斬ろうとしたが、王伯当らが止めたため許した。賈閏甫は熊州へ逃れ、王伯当も李密をとどめようとしたが、李密は聞かなかった。
李密の最期
- 庚子の朝、李密は桃林県官に対し、詔を受けて一時帰京するので家族を県舎に寄せたいと偽った。
- 驍勇数十人に婦人の衣装と羃䍦を着せ、裙下に刀を隠して「妻妾」のように見せ、自ら率いて県舎へ入り、ほどなく変装を解いて突発的に城を奪った。
- そのまま兵を集めて南山へ入り、険路を東へ進み、旧将の伊州刺史張善相に急使を飛ばして迎えを求めた。
- 熊州の史万宝は、李密と王伯当は手強く正面では当たりにくいと言ったが、行軍総管盛彦師は数千で必ず首を取ると請け負った。
- 盛彦師は熊耳山を越え、谷道の要害に弓弩兵と刀楯兵を伏せた。李密が洛州へ向かうと見せて実は襄城の張善相を頼るつもりだと見抜いていた。
- 李密は陜を過ぎると安心してゆるゆる進んだが、果たして山南へ出たところで盛彦師が襲い、前後を断った。
- こうして李密と王伯当はともに斬られ、首は長安へ送られた。盛彦師はその功で葛国公となり、熊州を預かった。
- 李世勣は、李密の首を見せられてその反状を告げられると、北面して号泣し、遺体の収葬を願った。詔で許されると、主君の礼を尽くして縞素をもって黎陽山南に葬り、軍中で血を吐くほど哭く者も多かった。
高開道と高曇晟
- 隋の李景は北平を守って高開道に一年余り包囲されたが落ちなかった。遼西太守鄧暠が救援すると、李景はその軍を率いて柳城へ移った。
- のち幽州へ帰る途中で盗に殺され、高開道は北平を奪い、さらに漁陽郡も落として、馬数千・兵一万ほどを擁し、燕王を称して始興と改元した。
- 懐戎の沙門高曇晟は、県令の設斎に乗じて集まった士民を味方につけ、僧五千とともに反乱し、県令と鎮将を殺した。
- 自ら大乗皇帝を称し、尼の静宣を邪輸皇后として、法輪と改元した。
- 高開道を招いて斉王に立てると、高開道は五千を率いてこれに従ったが、数か月後には高曇晟を襲って殺し、その衆を併呑した。
李素立の諫言
- 犯罪が死罪に至らない者を、高祖が特命で処刑しようとしたことがあった。
- 監察御史李素立は、法は天下と共に守るものであり、創業のはじめにこれを揺るがせば人々は手足の置き所を失うと諫めた。
- 高祖はこれを聞き入れ、以後李素立を特に重んじた。
- 吏部ははじめ雍州司戸、次いで秘書郎をその任として薦めたが、高祖は前者は「要だが清くない」、後者は「清いが要でない」と言い、ついに侍御史に抜擢した。
- 李素立は李義深の曾孫である。
安比奴登用への反対
- 高祖は舞胡の安比奴を散騎侍郎に任じた。
- 礼部尚書李綱は、古来、楽工は士と同列に置かず、たとえ名人でもその職分を越えさせなかった、北斉末に曹妙達や王安馬駒を高位にしたのは亡国の戒めである、と強く諫めた。
- しかし高祖は、すでに任じてしまった以上取り消せないとして従わなかった。
- 史家は、君主の一度の不適切な任命が後世の悪例となると評している。
李軌政権の失策
- 李軌の吏部尚書梁碩は知略に富み、李軌の謀主とされていた。
- 梁碩は諸胡の勢力が次第に強まっているのを見て、李軌に用心を勧めたため、戸部尚書安修仁と対立した。
- 李軌の子李仲琰は梁碩に礼を尽くされなかったことを怨み、安修仁とともに梁碩を謀反ありと讒言した。
- 李軌はこれを信じ、梁碩を毒殺した。
- また胡巫の言を信じ、天から玉女が降るとして高台を築かせたため、河右一帯に大きな労役と費用を課した。
- 飢饉で人が人を食うほどだったので、李軌は私財を尽くして救済したが足らず、倉粟を放出すべきか群臣に諮った。
- 曹珍らは、民こそ国の本であり、倉を惜しんで餓死を見過ごすべきでないと主張した。
- しかし謝統師ら旧隋系の官人は、諸胡と結んで李軌の旧臣を排しつつ、飢えるのは弱者だけで、勇壮な者はそうならない、備蓄を弱者に与えるのは国のためにならぬと罵った。
- 李軌はこれを是としたため、士民はしだいに離反していった。