資治通鑑隋紀七 恭皇帝 義寧 一年 617年

正月:杜伏威、陳稜を破る

  • 右御衛将軍陳稜が杜伏威を討ったが、伏威は兵を率いて対峙し、稜が城壁に閉じこもって出てこないので、婦人の衣を送って「陳姥」と嘲った。
  • 怒った陳稜が出戦すると、杜伏威はこれを大破し、陳稜は身一つで逃れるのがやっとだった。
  • 伏威は勝勢に乗じて高郵を破り、歴陽に拠って総管を称し、輔公祏を長史とした。諸将を分けて属県を攻略させると、江淮の小賊は争ってこれに従った。
  • 杜伏威は特に勇敢な五千人を「上募」とし、厚遇して先鋒に用いた。戦後、背中に傷を負った者は退却中に受傷したとみなし、即座に斬った。戦利品はすべて兵に分け、戦死者には妻妾を殉葬させたため、兵は死力を尽くした。

正月:竇建徳・徐円朗・盧明月

  • 丙辰、竇建徳は楽寿に壇を築き、長楽王を称して百官を置き、改元した。
  • 辛巳、魯郡の賊徐円朗が東平を陥とし、琅邪以西・東平以北の地をほぼ掌握し、兵二万余を有した。
  • 盧明月は河南から淮北へ転戦し、四十万号すると称して無上王を自称した。帝は江都通守王世充に討たせ、世充は南陽で大破して盧明月を斬った。残党は散った。

二月:梁師都・劉武周の自立

  • 壬午、朔方の鷹揚郎将梁師都が郡丞唐世宗を殺し、郡を占拠して大丞相を称し、北では突厥と結んだ。
  • 馬邑太守王仁恭は賄賂を多く受け、施しをしないため人望を失っていた。郡の豪傑劉武周は驍勇で任侠を好み、鷹揚府校尉として仁恭に親任され、親兵を率いて閤下に屯していた。
  • 武周は仁恭の侍女と密通し、露見を恐れて反乱を決意した。民が飢えて屍が道に満ちるのに、王府君が倉を閉じて救わないと豪傑たちに訴え、共感を得た。
  • 己丑、仁恭が庁に座すところへ武周が拝謁し、その党が階を上って仁恭を斬り、首を持って郡中を巡った。誰も抵抗せず、倉を開いて民を賑し、属城も次々に下った。武周は兵一万余を得て、自ら太守を称し、突厥に使者を送って帰属を願った。

二月:李密、洛口倉攻略を決断

  • 李密は翟譲に、東都は空虚で、越王侗は幼く、留守諸官は互いに統一を欠き、段達・元文都らも無能だとして、今こそ攻略の好機だと説いた。まず裴叔方を東都に潜入させて虚実を探らせたが、官側に察知され備えを固められた。
  • 李密は、だからこそ先手を打って洛口倉を襲い、都の近くで巨大な食糧庫を奪い、民に開放すれば遠近の人心が一朝にして帰服すると説いた。翟譲は全面的に李密へ委ね、自らは後殿になると約した。
  • 庚寅、李密・翟譲は精兵七千で陽城北から方山を越え、羅口経由で興洛倉を急襲して破った。倉を開いて民に自由に取らせると、老若が背負子を負って群がり、道路を埋めた。

李密の幕僚集団

  • 朝散大夫時徳叡が尉氏で李密に応じた。
  • 前宿城令祖君彦は昌平から李密のもとへ来た。博学強記・文章敏捷で名高く、かつて薛道衡が高祖に推挙したが、斛律光を歌で殺した祖珽の子であることを嫌われて用いられなかった。煬帝のもとでも低い地位に抑えられ、不遇を恨んでいた。李密は彼を上客とし、軍中の檄文を一任した。

東都軍の大敗と魏公擁立

  • 越王侗は虎賁郎将劉長恭・光禄少卿房崱らに歩騎二万五千を授けて李密を討たせた。東都では李密を「飢えた賊が米を奪っただけの烏合」と軽んじ、国子三館の学生や貴顕の親族まで競って従軍した。
  • 一方、裴仁基らには汜水から西進して背後を衝く任務が与えられた。李密と翟譲はその計画を察知し、四隊を伏兵として横嶺下に隠し、主力六隊を石子河東に布いた。
  • 東都軍は先着したが、朝食も取らぬまま洛水を渡って十余里にわたる長陣を敷いた。長恭らは賊兵が少ないのを見て軽視した。
  • 翟譲がまず戦って不利を装うと、李密が麾下を率いて突撃し、疲れ飢えた隋軍は大敗した。長恭らは衣を脱ぎ捨てて逃げ、東都へ戻った。死者は半数近くに及んだ。
  • 翟譲はここに至って李密を主と仰ぎ、上表して魏公と号させた。
  • 庚子、壇を設けて即位させ、元年と称した。大赦を行い、名目上は行軍元帥府としつつ、魏公府には三司六衛、元帥府には長史以下の官属を置いた。翟譲は上柱国・司徒・東郡公、単雄信・徐世勣は左右武候大将軍、房彦藻・邴元真・楊徳方・鄭徳韜・祖君彦らもそれぞれ要職に就いた。
  • 趙・魏以南、江淮以北の群盗はほとんど皆これに応じ、百営簿を設けて統括すると、降る者は流れのように絶えず、衆は数十万に達した。
  • 李密は田茂広に命じて洛口城を築かせ、周四十里の大営とした。
  • 房彦藻には東方攻略を任せ、安陸・汝南・淮安・済陽を取らせた。河南の郡県の多くが李密に陥ちた。

北辺の変:劉武周・梁師都・郭子和

  • 雁門郡丞陳孝意は虎賁郎将王智辯とともに劉武周を討ち、桑乾鎮を囲んだが、壬寅、武周は突厥と合兵して智辯を殺し、孝意は雁門に逃れた。
  • 三月丁卯、武周は楼煩郡を襲破して汾陽宮を奪い、得た宮人を始畢可汗に贈った。可汗は馬を返礼として与え、武周の勢いはさらに増した。
  • 武周は定襄も陥し、突厥から定楊可汗に立てられ、狼頭纛を贈られた。ついで自ら皇帝位に即き、妻沮氏を皇后とし、改元して天興とした。楊伏念を左僕射、苑君璋を内史令に用いた。
  • 武周は雁門を包囲し、陳孝意は力戦してしばしばこれを破ったが、外援はなく、江都への密使も返答を得られなかった。百余日後、食糧が尽き、校尉張倫が孝意を殺して降伏した。
  • 梁師都は雕陰・弘化・延安などを平定し、皇帝を称して国号を梁、年号を永隆とした。始畢からも狼頭纛を与えられ、大度毗伽可汗と号された。のち突厥を河南の地に居らせ、塩川郡を破った。
  • 左翊衛の郭子和は榆林へ流されていたが、大飢饉に際し敢死士十八人と郡門を襲い、郡丞王才を「民を顧みない」と責めて斬った。倉を開いて施し、自ら永楽王と称し、丑平と改元した。梁師都・突厥の双方に子を質として送り、勢力の安定を図った。始畢は当初これを「平楊天子」としようとしたが、郭子和は固辞し、屋利設の号を受けた。

四月:薛挙の蜂起

  • 汾陰の薛挙は金城に寓居し、驍勇無双で資産も巨万、隴右の豪傑と結んでいた。金城令郝瑗が数千人を募兵して挙に討賊を命じると、四月癸未、甲冑を授け酒宴を開いたその席で、薛挙は子の仁果らとともに郝瑗を劫し、兵を発した。
  • 郡県官を囚え、倉を開いて施し、自ら西秦覇王を称し、秦興と改元した。仁果を斉公、少子仁越を晋公とした。
  • 官牧の馬を奪い、賊帥宗羅㬋が帰附すると義興公に封じた。皇甫綰の屯する枹罕も二千の精鋭で襲い、岷山羌の酋長鍾利俗も二万を率いて参加した。
  • 薛挙は兵勢を大いに伸ばし、仁果を斉王・東道行軍元帥、仁越を晋王兼河州刺史、宗羅㬋を興王として各地攻略を進め、西平・澆河を取り、間もなく隴西一帯をほぼ手中にし、兵十三万に達した。

李密、東都へ圧迫を強める

  • 己丑夜、孟譲が歩騎二千を率いて東都外郭へ侵入し、豊都市を焼き払って夜明け前に退いた。このため東京の住民はみな宮城内へ移され、台省・府寺は人であふれた。
  • 鞏県長柴孝和と監察御史鄭頲が城を挙げて李密に降り、柴孝和は護軍、鄭頲は右長史となった。
  • 裴仁基は賊を破るたび得た軍資を兵に分けたが、監軍御史蕭懐静がこれを許さず、兵は不満を募らせた。蕭懐静はまたたびたび裴仁基を弾劾した。
  • 倉城の戦いで裴仁基は期日に遅れ、長恭らの敗報を聞いて百花谷に退き、固く守って進まなかった。罪を恐れる裴仁基に対し、李密は利を示して誘い、賈閏甫もまた降伏を勧めた。裴仁基はついに蕭懐静を殺し、虎牢ごと李密に降った。
  • 李密は裴仁基を上柱国・河東公、その子裴行儼を上柱国・絳郡公に封じた。秦叔宝・程咬金も得て驃騎に用い、最も勇猛な八千人を内軍として四驃騎に分属させ、自衛の中核とした。羅士信・趙仁基もまた帰附し、それぞれ総管とした。

回洛倉攻略と東都包囲

  • 癸巳、李密は裴仁基・孟譲に二万余を与えて回洛東倉を襲わせ、これを破らせた。さらに天津橋を焼き、兵を放って大掠りさせた。
  • 東都側が出兵すると裴仁基らは敗走したため、李密自ら大軍を率いて回洛倉に屯した。東都にはなお二十余万の兵があり、城上では昼夜交代で警戒し、甲を解かなかった。
  • 李密は偃師・金墉を攻めたが落とせず、乙未に洛口へ退いた。東都城内は食糧不足に苦しみ、絹を汲み縄に、布を炊事の燃料に使うほどだった。越王侗は回洛倉の米を城内に運び入れ、豊都市・上春門・北邙山に計九営を置いて備えた。
  • 丁酉、房献伯が汝陰を陥とし、淮陽太守趙陁も郡を挙げて李密に降った。
  • 己亥、李密は三万で再び回洛倉を占め、大規模な塹壕と営塁を築いて東都に迫った。段達らは七万でこれを拒み、辛丑に倉北で戦って隋軍は敗走した。
  • 丁未、李密の幕府は檄文を郡県へ回し、煬帝の十罪を並べ立てた。「南山の竹を尽くしても罪を書き尽くせず、東海の波を決しても悪を洗い流せぬ」とする有名な文句は、祖君彦の作である。

元善達の上奏と虞世基の専横

  • 越王侗は太常丞元善達を賊中から間道で江都へ送って奏上させ、李密は衆百万で東都を包囲し、洛口倉を拠点とし、城内に食糧がないため、帝が早く帰れば烏合の衆は散るが、そうでなければ東都は必ず失われると訴えた。善達は泣きながら語り、帝も一時は顔色を変えた。
  • しかし虞世基は、越王が幼いため周囲の者に欺かれているだけで、もし本当にそうなら善達がここまで来られるはずがないと退けた。煬帝は怒って善達を罵り、東陽への催運を命じたため、善達は途中で群盗に殺された。
  • 以後、賊の実情を帝に告げる者は誰もいなくなった。虞世基は容貌穏やかで言葉も帝の意にかなうため、朝臣中で比肩なく寵を専らにした。親族はその勢いを借りて官や訴訟を売買し、その門前は市のように賄賂であふれた。
  • 内史舎人封徳彝もまた虞世基に取り入り、事務に疎い世基に代わって詔勅の起草や政策の取り回しを指図し、帝意に媚びて、臣下の忤う奏疏は取り次がず、刑罰は厳酷にし、恩賞は削って薄くした。隋政がさらに壊れた一因とされた。

李淵起兵への下地

  • 唐公李淵には建成・世民・玄覇・元吉の四男と一女があり、その娘は柴紹に嫁いでいた。
  • 世民は聡明果断で人を見る目があり、隋の乱れを見て天下安定の志を抱き、士を下に置かず、自財を散じて多くの客を結んだ。長孫順徳・劉弘基・竇琮ら亡命者も晋陽でこれに依り、その人心を得た。
  • 晋陽宮監裴寂と晋陽令劉文静は同宿して城上の烽火を見、乱世の到来を嘆いた。文静は李世民を非常の人と見て裴寂に勧め、さらに獄中から世民に、今こそ兵十万を集めて関中へ入り、半年で帝業を成せると説いた。
  • 世民は裴寂と親しくなるため私財を使って歓心を買い、やがて謀を打ち明けた。裴寂もこれに同意した。
  • かねて淵は裴寂と旧交があり、宴飲を重ねていた。裴寂は私かに晋陽宮人を淵に侍らせており、それが発覚すればともに誅される立場だったため、世民の計画に強く引き込まれていった。

李淵、決断へ

  • 突厥への対応や王仁恭との戦況不振の責めで、煬帝が李淵と王仁恭を江都へ召して処断しようとしたとの風聞が流れ、李淵は恐れた。
  • 世民は、今の主上は無道で、城外はすでに戦場となり、下には賊、上には厳刑がある以上、ただ法に従っていては危亡は避けられないと説いた。李淵は激しく驚いたが、世民は天時人事の当然として語り、翌日さらに、李氏当王の図讖や李渾一族の滅亡を引いて、功を立ててもかえって危ないと迫った。
  • 李淵はついに「破家亡身もお前によるし、化家為国もお前による」と嘆じ、事を決する気になった。
  • 夏侯端や許世緒、武士彠、唐憲・唐儉らもまた、李淵に天命・図讖・地勢を説き、挙兵を勧めていた。
  • ただし建成・元吉が河東にあったため、淵はなお逡巡した。劉文静は裴寂に、先手を打たねば人に制せられると迫り、裴寂もたびたび起兵を急がせた。
  • そこで李淵は、劉文静に命じて偽の勅書を作らせ、太原・西河・雁門・馬邑の民で二十歳以上五十歳以下の男子をすべて兵として年末に涿郡へ集め、高麗を討つと称した。これにより人心は騒ぎ、乱を望む者がさらに増えた。

五月:太原での挙兵

  • 劉武周が汾陽宮を奪ったのを機に、世民は李淵へ、留守でありながら離宮を賊に奪われては禍が迫るとして決断を促した。
  • 李淵は将佐を集め、武周を抑えられなければ一族皆殺しは避けられないと語った。王威らは、江都は遠く道路も険しく他賊も多いので、いちいち朝廷の指示を待つことはできず、平賊のためには専断やむなしと答えた。李淵はあたかもやむをえず同意する形をとり、まず兵を集めた。
  • 世民・劉文静・長孫順徳・劉弘基らはそれぞれ募兵し、旬日のうちに一万人近くが集まった。李淵は建成・元吉を河東から、柴紹を長安から密かに呼び寄せた。
  • 王威・高君雅は募兵の急増を見て李淵の異志を疑ったが、武士彠は順徳・弘基が「背征」の罪人であっても唐公の客である以上、手を出せば大乱になるといさめた。
  • 晋陽郷長劉世龍は、王威と高君雅が晋祠での祈雨を機に李淵へ不利なことをしようとしていると密告した。
  • 五月癸亥の夜、李淵は世民に命じて晋陽宮城の外に伏兵を置いた。甲子の朝、淵が王威・高君雅とともに政務を見ているところへ、劉文静が開陽府司馬劉政会を連れて入らせ、「密状あり」と告げさせた。
  • 李淵がその状を開くと、王威・高君雅が突厥を引き入れて乱を起こそうとしているという内容であった。高君雅が怒号した時には、すでに世民の兵が街路を押さえていた。劉文静・劉弘基・長孫順徳らは二人を捕らえて獄に繋いだ。
  • 丙寅、突厥数万が晋陽へ侵入し、外郭北門から入り東門から出た。李淵は諸城門を開いたまま備えを固めて進撃を見せず、敵を惑わせた。人々はこれを見て、王威・高君雅が本当に突厥を呼んだのだと思いこんだ。
  • 李淵は二人を斬って軍中に徇し、部将王康達が千余人で出撃して全滅したため、城中は恐怖に陥った。
  • そこで李淵は夜中に密かに兵を出し、明け方になると別道から援軍が到着したように旗鼓を整えて現れさせた。突厥は疑って踏み込めず、城外に二日留まって掠奪したのち去った。

東都救援軍と李密の挫折

  • 煬帝は監門将軍龐玉・虎賁郎将霍世挙に関内兵を率いさせ、東都救援に向かわせた。
  • 柴孝和は李密に対し、長安を襲って関中を押さえるのが上策だと進言した。洛口と回洛は翟譲・裴仁基に守らせ、李密自ら精鋭で西へ入れば、関中の形勝を得て王業の基礎が固まり、そこから河洛を平定して天下を定められるというのである。
  • 李密も上策であることは認めたが、煬帝がまだ存命であり、部下は山東の者が多く、洛陽も落ちないうちに西進へ従う者は少ないと考えて退けた。諸将も群盗出身で留守にすれば互いに争うと見ていた。
  • 柴孝和はそれなら自ら間行して関中・陝方面の機会を探ると申し出て、数十騎で陝県へ行き、山賊一万余の帰附を得た。
  • そのころ李密は流れ矢に当たり、営中に臥していた。丁丑、越王侗は段達に龐玉らと夜襲させ、回洛倉西北に陣させた。李密は裴仁基とともに出戦したが大敗し、損害は過半に達したため、回洛倉を棄てて洛口へ奔った。
  • 龐玉・霍世挙は偃師に軍し、柴孝和の部衆は李密敗走の報に散った。柴孝和も軽騎で帰還した。楊徳方・鄭徳韜は戦死した。李密は代わって鄭頲を左司馬、鄭乾象を右司馬とした。

李建成・李元吉の河東脱出

  • 李建成・李元吉は河東から脱出する際、弟の智雲を置き去りにした。
  • 智雲は役人に捕らえられて長安へ送られ、殺された。
  • 建成・元吉は道中で柴紹と合流し、ともに行動した。