春正月:朝集使の欠席と討賊方針
- 春正月、朝廷に参集すべき朝集使のうち、二十余郡から使者が来なかった。各地の秩序が乱れ、反乱や盗賊の広がりがすでに目立っていた。
- 朝廷では、天下を十二道に分けて使者を派遣し、兵を発して盗賊の討捕に当たらせる方針が議論された。
路道徳の造営事業
- 毗陵の通守・路道徳に命じ、十郡から数万人を集めて郡の東南に大規模な宮苑を築かせた。周囲十二里、内部に十六の離宮を置き、東都の西苑を模したが、その華麗さはさらに度を越していた。
- さらに会稽にも宮殿を築こうとしたが、のちに天下の乱れが深刻化したため、実現しなかった。
三月上巳:西苑の水上遊宴
- 三月上巳、煬帝は群臣とともに西苑の水辺で宴を開いた。
- 学士の杜宝に命じて古代の水に関する逸事七十二種を選ばせ、『水飾図経』を作らせたうえで、朝散大夫の黄袞に木製の仕掛けを作らせた。妓女を乗せた船や酒船を交え、人形が自動で動き、鐘磬・箏・瑟も音曲を奏でるという趣向であった。
三月:張金称の河北侵攻
- 己丑、張金称が平恩を陥落させ、一朝のうちに男女一万余人を殺した。
- さらに武安・鉅鹿・清河の諸県を攻め落とした。張金称は諸賊の中でもとりわけ残虐で、通過した地では住民がほとんど生き残らなかった。
夏四月:大業殿・西苑の火災と煬帝の不安
- 丁巳、大業殿と西苑で火災が起きた。煬帝は盗賊が起こしたものと思い込み、驚いて西苑の草むらに隠れ、火が鎮まってからようやく戻った。
- 煬帝は大業八年以後、夜ごとに賊の来襲を恐れて眠れず、婦人数人に揺り起こされ、なだめられてようやく眠るありさまだった。
- 癸亥、歴山飛の別将・甄翟児が十万の兵で太原に迫り、将軍潘長文が敗れて戦死した。
五月:天変・蛍狩り・蘇威失脚
- 丙戌朔、日食があった。
- 壬午、煬帝は景華宮で蛍を数斛も集めさせ、夜に山へ出て放ち、その光で岩谷を照らして遊んだ。
- 煬帝が盗賊の情勢を侍臣に尋ねると、宇文述は「減っている」と答えた。これに対し蘇威は、賊は長白山から汜水近くまで迫っており、租税や兵役に苦しんだ民が盗賊化しているのだと直言した。また、雁門で高麗遠征をやめると約束したのに再び徴発したため、賊がやまぬのだとも述べた。帝はこれを不快に思った。
- 端午の頃、百官が珍玩を献上する中で、蘇威だけは『尚書』を献じた。これを「帝の放縦を古書で諷したもの」と讒言され、帝の怒りはさらに深まった。
- その後、高麗遠征について問われた蘇威は、「天下の盗賊を赦して募り、東征に使えば数十万は得られる」と答えた。裴蘊はこれを大不敬として奏し、煬帝も蘇威を「老獪で姦邪」と罵った。
- 裴蘊は河南の白衣・張行本に訴え出させ、蘇威がかつて高陽で選事を司った際に官を濫授したこと、また突厥との関係で不審があることを調べさせた。蘇威はついに除名されて庶民に落とされ、さらに死罪に問われかけたが、帝は最終的に殺さず、子孫三代まで除名するにとどめた。
七月:江都行幸の決定
- 壬戌、済景公樊子蓋が死去した。
- 江都で新たに造られた龍舟が完成し、東都へ送られた。宇文述は帝に江都行幸を勧めた。
- 右候衛大将軍の趙才は、民は疲弊し、府庫は空で、盗賊は蜂起し、禁令は通用しないとして、都へ戻って民を安んじるよう諫めた。帝は激怒して趙才を獄に下したが、十日ほどで怒りが解けて釈放した。
- 朝臣の多くも江都行きを望まなかったが、帝の意思は固く、建節尉の任宗が朝堂で強く諫めると、その日のうちに杖殺された。
七月:江都行幸と諫臣の誅殺
- 甲子、煬帝は江都へ向かった。越王侗に、段達・元文都・韋津・皇甫無逸・盧楚らを補佐させ、東都の留後事務を統括させた。
- 帝は宮人に別れの詩を残し、「江都の夢を好み、遼東遠征もたまたまであった」といった心情を示した。
- 奉信郎の崔民象が、建国門で盗賊が満ちていることを理由に行幸中止を上表すると、帝は激怒し、まず頤を外させてから斬った。
- 戊辰、馮翊の孫華が挙兵して反乱を起こした。
- 虞世基は、賊が横行しているので洛口倉に兵を屯させるべきだと請うたが、帝は書生らしい臆病さだと退けた。
- 鞏では、箕山・公路の二府を倉城内へ移し、さらに備えのために築城させた。
- 汜水で奉信郎王愛仁が再び西京還幸を諫める上表をしたため、これも斬られた。
- 梁郡では、民が車駕を遮って「もし江都へ行けば天下は陛下の天下ではなくなる」と訴えたが、これもまた斬られた。
淮北・河北の群雄
- このころ、李子通は海陵を拠点とし、左才相は淮北を掠め、杜伏威は六合に屯し、いずれも数万人を擁していた。帝は陳稜に宿衛の精兵八千を授けて討たせ、各地でしばしば勝利を得た。
- 八月乙巳、賊帥趙万海が数十万を率いて恒山から高陽へ侵入した。
十月:宇文述の死と宇文化及兄弟
- 己丑、宇文述が死去した。
- 述の子の宇文化及・宇文智及は放埒な性格で、かつて突厥との禁制交易を行い、帝に斬られかけたこともあった。だが結局赦されていた。
- 述の死後、帝は化及を右屯衛将軍、智及を将作少監に任じた。これはのちの変乱の伏線となる。
李密の流浪と翟譲への接近
- 李密は逃亡後、郝孝徳・王薄らのもとを転々としたが礼遇されず、飢えて樹皮を食べるほど困窮した。
- 淮陽の村里に潜み、姓名を変えて徒弟を集め教授したが、追及が及ぶと、妹婿の雍丘令丘君明を頼り、さらに遊侠の王秀才宅へ移った。秀才は娘を李密に嫁がせた。
- しかし丘懐義がこれを告発し、官が包囲した際に李密だけは外出中で助かった。丘君明と王秀才は殺された。
- 一方、東郡の法曹であった翟譲は死罪にあたったが、獄吏黄君漢がその勇を惜しみ、夜に密かに脱出させた。翟譲は瓦崗に逃れ、そこで群盗の頭目となった。
- 同郡の単雄信が若者を率いてこれに従い、離狐の徐世勣もまた、地元東郡を掠めず、滎陽・梁郡の運河や舟運を襲って資を得る策を献じた。翟譲はこれに従い、勢力を増した。
李密、群盗を説いて頭角を現す
- 外黄の王当仁、済陽の王伯当、韋城の周文挙、雍丘の李公逸らもそれぞれ兵を擁していた。李密は諸賊の間を往来し、天下取りの策を説いた。
- 当初は誰も信じなかったが、しだいに「楊氏は滅び、李氏が興る」との世評や、李密がたびたび危地を逃れていることから、只者ではないと見られ始めた。
- 李密は王伯当の紹介で翟譲に会い、群盗を併呑する策や、天下を取る展望を語った。翟譲は当初は自分には及ばぬ話だと退いたが、李密の見通しに耳を傾けるようになった。
- 東都から逃れてきた李玄英は、民間の「桃李子」の謡を引き、李氏の興起と帝が揚州で帰れなくなる未来を語り、李密に身を委ねた。
- さらに房玄藻も李密に合流し、梁・宋から漢・沔にかけて豪傑を説いて回り、従う者は数百人に及んだ。
- 翟譲の軍師賈雄は陰陽・占候に通じており、李密と通じて翟譲に「この人を立てれば事は必ず成る」と言い、翟譲の決心を後押しした。
李密・翟譲、滎陽へ進出
- 李密は、天下が乱れ耕作もできず、掠奪だけでは軍の糧が続かないので、まず滎陽を取り、兵を休めて食糧を蓄えるべきだと説いた。翟譲はこれに従った。
- 一行は金隄関を破り、滎陽の諸県を攻め、多くを下した。滎陽太守では対抗できず、朝廷は張須陀を滎陽通守に移してこれを討たせた。
庚戌:張須陀の戦死
- 庚戌、張須陀が兵を率いて翟譲を討った。翟譲は従来たびたび須陀に敗れていたため恐れたが、李密は「勇はあるが驕っており、伏兵で破れる」と断じた。
- 李密は千余人を大海寺北の林に伏せ、翟譲は正面で戦って敗走を装った。須陀は軽敵して深追いし、十余里進んだところで伏兵に挟まれた。
- 包囲を破って脱出しようとした須陀は、なお部下を救うために何度も引き返し、ついに戦死した。兵は昼夜泣き続け、河南の郡県は大きく気落ちした。副将の賈務本も傷を負って梁郡へ退き、まもなく死んだ。
- 朝廷は裴仁基を河南討捕大使とし、その軍を引き継がせて虎牢に駐屯させた。翟譲は李密に独立の軍営を持たせ、「蒲山公営」と号させた。
蒲山公営の成長
- 李密は軍令を厳正にし、自らも質素を守り、得た財宝はみな部下に分け与えた。そのため兵は進んで彼に用いられた。
- 翟譲はいったん瓦崗へ戻ろうとしたが、李密は康城で数城を説得して下し、豊かな資糧を得た。翟譲はこれを悔いて再び李密に従った。
鄱陽の操師乞・林士弘
- 鄱陽の賊帥操師乞は元興王を称し、始興と改元して豫章郡を陥落させた。郷里の林士弘を大将軍とした。
- 朝廷は治書侍御史劉子翊を派遣したが、操師乞は流れ矢で死に、林士弘がその衆を継いだ。
- 林士弘は彭蠡湖で劉子翊を破って殺し、兵勢は十余万に膨れ上がった。十二月壬辰、自ら皇帝を称し、国号を楚、年号を太平とした。九江・臨川・南康・宜春などを奪い、北は九江から南は番禺に及ぶ広大な地を支配した。郡県の豪傑も隋の守令を殺して呼応した。
李淵の太原留守就任と甄翟児討伐
- 朝廷は右驍衛将軍の唐公李淵を太原留守とし、王威・高君雅を副とし、甄翟児討伐を命じた。
- 李淵は雀鼠谷で甄翟児と遭遇し、兵わずか数千で多重に包囲されたが、李世民が精兵を率いて救い出し、歩兵も到着して賊を大破した。
蔡王智積の終焉と河北の乱
- 煬帝は宗室にも薄情で、蔡王智積は常に不安を抱いていた。病にかかっても医者を呼ばず、臨終に「ようやく首を保ったまま地に葬られる」と語った。
- 張金称・郝孝徳・孫宣雅・高士達・楊公卿らが河北で郡県を掠め、隋の将帥の敗死が相次いだ。
- その中で王辯と清河郡丞楊善会だけは戦功を重ね、楊善会は前後七百余戦して一度も大敗しなかった。
楊義臣、張金称を破る
- 帝は楊義臣に張金称討伐を命じた。義臣は平恩東北にいる張金称に対し、永済渠西岸に深溝高塁を築いて月余り戦わず、相手を油断させた。
- 張金称は義臣を臆病と思い込み、しばしば陣前で罵った。義臣は「明日こそ戦う」と告げて相手に備えを解かせ、夜に館陶から河を渡ってその本営と輜重を襲った。
- 張金称は帰還途中に後方からも攻められて大敗し、清河東方へ逃れたが、ひと月余り後に楊善会が捕らえた。官はその体をさらし、仇敵に切り取って食わせたが、なお歌い続けたという。善会はその功で清河通守となった。
竇建徳、郭絢を討つ
- 涿郡通守郭絢が高士達を討つと、高士達は自らの才略が竇建徳に及ばぬことを知り、建徳を軍司馬に進めて兵を委ねた。
- 建徳は高士達と不和であるように見せ、郭絢に降伏を願って前駆を申し出た。郭絢はこれを信じて長河まで深入りし、備えを怠ったところを襲われ、数千を殺され、自身も斬られた。張金称の残党も多く建徳に帰した。
高士達の敗死と竇建徳の自立
- 楊義臣がさらに平原へ進み高鶏泊に入ろうとすると、建徳は「この将は強敵だから、戦いを避けて疲れさせた後に打つべきだ」と高士達に進言した。
- しかし高士達は従わず、自ら精兵で迎え撃って小勝したのち大宴会を開いた。建徳は破滅を予見し、その五日後、義臣は高士達を陣中で大破し斬った。
- 建徳は百余騎で逃れ、饒陽を急襲して兵三千余を得た。義臣が去ると平原へ戻り、散兵を集め、高士達のために葬儀を営んで軍心をまとめ直した。
- さらに自ら将軍を称し、隋の官吏や士族を殺さずに優遇したため、城を挙げて降る者が増え、兵力は十余万に達した。
虞世基の隠蔽
- 虞世基は帝が賊の話を嫌うのを知り、諸将や郡県からの敗報・救援要請を実情より軽くして奏し、「鼠賊や狗盗にすぎず、やがて尽きる」と言って帝を安心させた。時には使者を杖打ちして妄言としたため、天下に盗賊が満ち郡県が陥ちても、帝は実態を把握できなかった。
- 楊義臣が河北賊数十万を降したと報告したとき、帝がその多さに驚くと、世基は「小賊が多いだけで恐れるに足りない。むしろ義臣が閫外に長く兵を握ることが危険」と言った。帝はこれを容れて義臣を急ぎ召還し、兵を解散させたため、賊勢は再び盛んになった。
- 治書侍御史韋雲起は、虞世基と裴蘊が変事を隠し、賊数を減らして奏したため官軍が寡兵で敗れたのだと弾劾した。だが逆に、韋雲起のほうが名臣を誹謗したとして大理司直へ左遷された。
江都到着後の政治の乱れ
- 煬帝が江都に着くと、江淮の郡官が謁見してくるたび、礼物や贈賄の多少ばかりを問うようになった。多ければ抜擢し、少なければ罷免した。
- 江都郡丞王世充は銅鏡や屏風を献じて通守に昇進し、歴陽郡丞趙元楷も珍味を献じて江都郡丞に抜擢された。こうして郡県は争って民を搾り、貢物を整えた。
- 民は外では盗賊に襲われ、内では官に収奪され、さらに飢饉で食う物がなくなった。樹皮や葉を食べ、藁を搗き、土を煮、それも尽きると人肉食にまで至ったが、官の食膳だけは満ちていた。官吏たちは法を恐れ、救済に踏み出せなかった。
- 王世充はひそかに江淮の美女を選んで帝に献じ、いっそう寵を深めた。
格謙・高開道と燕地の乱
- 河間の賊帥格謙は十余万を率いて豆子䴚に拠り、燕王を称した。帝は王世充に討たせ、これを斬らせた。
- しかしその将の高開道が残党を収めて燕地を掠め、勢力を立て直した。
羅藝の幽州掌握
- 高麗遠征の器械・資糧は涿郡に積まれ、また臨朔宮にも珍宝が多かったため、群盗が競って襲来した。留守官の趙什住らは防げなかったが、虎賁郎将の羅藝だけはしばしば出戦して賊を破り、名声を高めた。
- 趙什住らが羅藝を嫉んだため、羅藝は先手を打って、「庫物は山のようにあるのに、留守官は施して兵や貧民を救わない」と兵に訴え、不満を煽った。
- 郡丞が出迎えに来たところを捕らえて兵を率いて入城し、趙什住らを服従させ、庫物を戦士に分け、倉を開いて貧民を救った。燕地の人心はこれに服した。異を唱える者数人は殺された。
- 柳城・懐遠もこれに帰し、羅藝は柳城太守楊林甫を退け、郡を州に戻して営州とし、襄平太守鄧暠を総管に任じ、自らは幽州総管を称した。
李淵、突厥を防ぐ
- 突厥がたびたび北辺を侵したため、帝は晋陽留守李淵に太原道の兵を率いさせ、馬邑太守王仁恭とともにこれを撃たせた。
- 隋軍は五千に満たぬ少兵だったが、李淵は騎射に優れた二千人を選び、突厥と同じような生活をさせ、機を見て攻める戦法で何度か小勝を得た。突厥もややこれを憚るようになった。