資治通鑑隋紀六 煬皇帝 大業十一年 615年

正月 二月 文事の拡充と城居令

  • 正月、秘書省の官員が大幅に増員され、多くの学士が任用された。煬帝はもともと読書と著述を好み、揚州総管時代から王府学士を多数抱え、長年にわたり経学・文章・兵農・地理・医術・占卜・仏道・さらには博奕や鷹犬に至るまで、新書編纂を続けていた。
  • 西京の嘉則殿にあった三十七万巻の蔵書も整理され、東都修文殿に正本が収められ、副本は宮省・官府へ分置された。観文殿前には豪華な書室が設けられ、機械仕掛けで幕や扉が開閉するほど凝った造りだった。
  • 二月、煬帝は戸口逃亡と盗賊増加を理由に、民をすべて城郭内に住まわせ、田地は近隣で給し、郡県・駅亭・村塢にも築城を命じた。

河北の大賊と李氏誅殺

  • 上谷の王須拔は「漫天王」を称して燕を国号とし、魏刀児は「歴山飛」を号して、ともに十余万を集めた。彼らは北で突厥と結び、南では燕・趙を荒らした。
  • かつて高祖は都城が洪水に沈む夢を見て大興へ遷都したと伝えられるが、この頃、煬帝は李氏一門を強く疑うようになった。
  • 申明公李穆の孫・李筠の相続をめぐる昔の遺恨から、宇文述はその叔父李渾を憎んでいた。煬帝も李氏の勢力を忌み、さらに方士の安伽陁が「李氏が天子になる」と唱えたため、李姓を広く誅そうとした。
  • 李渾の従子・李敏は小名を洪児といい、図讖に触れる名でもあった。裴仁基の告発を受け、元文都・裴蘊らの取り調べでは証拠が出なかったが、煬帝は宇文述に再調査を命じた。
  • 宇文述は李敏の妻に偽りの上表を書かせ、李渾が遼東遠征中に御営を襲い、李敏を帝に立てようとしていたと誣告した。煬帝はこれを信じ、三月丁酉、李渾・李敏・李善衡ら宗族三十二人を殺し、三従以上の親族まで辺境へ流した。数か月後、李敏の妻も毒殺された。

三月 孔雀を鸞とする瑞祥

  • 西苑から二羽の孔雀が宝城の朝堂前に飛来すると、親衛校尉の高徳儒らはこれを「鸞」であると奏上した。孔雀はすでに飛び去って確認不能だったが、朝廷は瑞祥として賀し、高徳儒は朝散大夫に抜擢された。そこには儀鸞殿まで建てられた。

春から夏 太原・汾陽宮と李淵

  • 三月己酉、煬帝は太原に向かい、四月には汾陽宮で避暑した。宮城は狭く、百官や兵卒は山谷に草を結んで営を張るしかなかった。
  • 李淵は山西・河東撫慰大使に任じられ、勅命を待たずに郡県の文武官の黜陟や選補を行う権限を与えられ、河東兵を率いて群盗を討った。龍門で毋端児を破ったのもこの時である。

秋八月 突厥との関係悪化

  • 裴矩は、始畢可汗の勢力が強大になるのを抑えるため、弟の叱吉設を南面可汗に立てて分裂させようとしたが、これは始畢の不信を招いた。
  • また、始畢の腹心である史蜀胡悉を互市の名目で馬邑へ誘い出して殺し、そのうえで「可汗に叛いて降ってきたので、こちらで斬った」と伝えたため、始畢は隋に強い恨みを抱いた。

八月から九月 雁門包囲

  • 八月戊辰、始畢可汗は数十万騎を率いて煬帝襲撃を図った。義成公主が先に変を知らせたため、壬申、煬帝は急いで雁門へ逃げ込んだ。
  • 齊王暕は後軍を率いて崞県を守った。翌日、突厥は雁門を包囲し、城中は大いに恐慌した。民家まで壊して防御資材とし、城中十五万口の食糧は二十日ほどしか持たなかった。
  • 雁門郡四十一城のうち三十九城が陥ち、雁門と崞だけが持ちこたえた。矢は御前にまで飛び込み、煬帝は趙王杲を抱いて泣き、目を腫らした。
  • 宇文述は精鋭騎兵で脱出すべきだと勧めたが、蘇威は騎兵戦は突厥の長所だから危険だと反対した。樊子蓋は堅城に拠って援軍を待ち、遼東遠征をやめる詔を明示すれば兵卒は奮い立つと説いた。
  • 蕭瑀は、突厥では可賀敦が軍略に関与する風習があり、義成公主に救援を求めるだけでも試す価値があると述べた。また、兵士たちは雁門を出た後でまた高句麗へ向かうのを恐れているので、高句麗遠征停止と突厥専討を宣言すれば安心して戦うと主張した。虞世基も重賞を勧めた。
  • 煬帝はこれに従い、自ら城上を巡って兵士を励まし、戦功者にはただちに六品官を与えるなど、破格の賞を約した。使者が次々に慰労に来たため、兵は昼夜戦って踏みとどまった。
  • 甲申、天下に兵募集の詔が下り、諸郡の守令は競って援軍を送った。李淵の子の李世民も十六歳でこれに応じ、雲定興配下に属した。
  • 李世民は、昼は旗を長く連ね、夜は鉦鼓を響かせて大軍に見せる策を説き、雲定興もこれに従った。煬帝はひそかに義成公主へ救援を求め、公主も始畢に北辺急変を告げた。東都や諸郡の援軍も忻口へ近づいた。
  • 九月甲辰、始畢可汗は包囲を解いて去った。煬帝は斥候で山谷が空になったのを確かめてから騎兵二千を追わせ、馬邑で老弱二千余を得て引き返した。

太原から東都へ

  • 九月丁未、煬帝は太原へ戻った。蘇威は、西京へ帰って根本を固めるべきだと説き、煬帝も最初は納得した。
  • しかし宇文述が「従官の妻子は東都に多い。潼関経由で洛陽へ行くべきだ」と述べたため、煬帝は意見を変えた。十月壬戌、東都へ到着した。
  • 東都の街路を見た煬帝は「まだ人がずいぶん残っている」と言い、以前楊玄感平定の際に殺した人数が少なすぎたのだとほのめかした。

恩賞の切り下げと将士の怨み

  • 雁門救援の勲功について、蘇威は賞格が重すぎるので調整すべきだと論じたが、樊子蓋は信用を失ってはならぬと反対した。煬帝は子蓋が人心を買おうとしているのではないかと疑い、子蓋は恐れて口をつぐんだ。
  • 煬帝はもともと官賞にけちで、楊玄感討伐後にも授勲者が多すぎたため、新たに戎秩を細かく設けて最低位の尉号にとどめていた。雁門を守った一万七千人のうち、勲を得たのは千五百人ほどで、その多くも低い等級にすぎず、無勲の者にはほとんど何の恩恵もなかった。
  • しかもなお高句麗再征が議せられたため、将士はみな憤りと怨みを抱いた。

蕭瑀・楊子崇の左遷

  • 蕭瑀は皇后の弟で、東宮以来煬帝に仕え、内史侍郎として政務を任されていたが、性格が剛直でしばしば帝意に逆らった。雁門解囲後、煬帝は「突厥はたいしたことがなかったのに、蕭瑀は過度に恐れた」と怒り、河池郡守へ左遷した。
  • 楊子崇も、汾陽宮にいた頃から突厥の来襲を予見して早期帰京を繰り返し求めていたため、煬帝に「人心を驚かせる怯懦」と決めつけられ、離石郡守へ出された。

造船・群盗の拡大

  • 楊玄感の乱で龍舟や水殿が焼かれたため、江都に命じて数千艘を新造させ、規模も旧制より大きくした。
  • 盧明月は十万を率いて陳・汝方面を侵した。
  • 東海の李子通は左才相のもとから独立して淮を渡り、杜伏威と合流した。杜伏威は壮士三十余人を養子として厚遇し、その中では王雄誕・闞稜が特に優れていた。
  • 李子通は杜伏威を殺そうとしたが失敗し、逆に来整に敗れて海陵へ逃れ、そこから再び二万人を集めて将軍を称した。
  • 城父の朱粲は軍中から逃亡して群盗となり、「可達寒賊」や「迦楼羅王」を名乗って十余万を率い、荊・沔から山南の郡県を食い荒らした。通過地では住民がほとんど生き残らなかった。

年末 樊子蓋に代わる李淵

  • 十二月、樊子蓋は関中兵数万を率いて絳郡の敬盤陀らを討ったが、善悪を区別せず、汾水北方の村落をことごとく焼き払い、降伏した賊まで埋め殺した。これにより民衆は強く怨み、かえって盗賊化した。
  • 朝廷は李淵を後任とした。李淵は降ってきた者を左右に引き置いて待遇したため、多くの賊が帰順し、前後して数万人が降り、残党は他郡へ散っていった。