資治通鑑陳紀四 高宗宣皇帝上之上 大建 元年 569年

正月・高宗の即位

  • 正月、北周の君主は北斉武成帝の喪にあたり朝会を停止し、李綸を弔問と賻贈のために派遣した。
  • 甲午、安成王頊が即位し、年号を大建と改め、大赦を行った。
  • 太皇太后は皇太后に戻され、皇太后は文皇后とされた。
  • 妃の柳氏を皇后とし、世子叔宝を太子に立て、皇子叔陵を始興王として昭烈王の祭祀を継がせた。
  • その後、太廟拝謁・南郊祭祀・太廟祭祀が行われ、叔英を豫章王、叔堅を長沙王に封じた。

二月・耕籍田と北斉の動き

  • 二月、陳の帝は籍田を耕した。
  • 北斉では武成帝が永平陵に葬られ、廟号を世祖とした。
  • 東平王儼は琅邪王に改封された。
  • 北斉は叱列長乂を北周へ派遣した。
  • 北斉では徐顕秀が太尉、婁定遠が司空となった。

北斉・和士開と八貴

  • 和士開は武成帝に寵遇され、寝所にも自由に出入りするほどで、さらに胡太后とも深く結びついていた。
  • 武成帝の死後、後主は遺命を理由に士開を厚く信任し、権勢はいっそう盛んになった。
  • 婁定遠・趙彦深・元文遥・唐邕・綦連猛・高阿那肱・胡長粲らとともに権力を握り、当時「八貴」と称された。

北斉・趙郡王叡らの和士開排斥運動

  • 太尉の趙郡王叡、大司馬の馮翊王潤、安徳王延宗らは、和士開を外任へ出すよう後主に求めた。
  • あるとき胡太后が朝臣を前殿で饗応した場で、叡は士開を先帝の弄臣・賄賂の常習者・宮中を乱した者として面前で激しく弾劾した。
  • 太后はその場では聞き入れず、翌日以後も叡らの請願は続いたが、ついに妥協として、士開を兗州刺史、元文遥を西兗州刺史に出すことになった。
  • しかし士開は、婁定遠に贈り物をして油断させたうえで、辞去前に二宮へ拝辞したいと願い、太后と帝に面会して涙ながらに危機を訴え、自分が去れば帝位も危ういと説いた。

北斉・趙郡王叡の死

  • 士開の説得を受けて、後主と太后は急変し、婁定遠を外へ出し、趙郡王叡には不臣の罪を着せた。
  • 叡は家族に止められてもなお諫言のため宮中へ入り、太后の前でも主張を曲げなかった。
  • 宮中を出る途中で兵に捕えられ、華林園の仏院へ送られて殺された。
  • 叡は長年朝政を担い、清廉で自らを律する人物として惜しまれた。
  • 和士開はふたたび侍中・尚書左僕射となった。

春〜夏・北斉の宮廷と幸臣

  • 三月、北斉の後主は晋陽へ赴いた。
  • 四月には并州尚書省を大基聖寺、晋祠を大崇皇寺とした。
  • 後主は若く、嬖幸の臣を多く用いた。高阿那肱は武成帝・和士開に取り立てられ、韓長鸞も後主の近臣として内省機密を握った。
  • 宮婢出身の陸令萱は、幼い後主を養育した縁で胡太后と後主から特別の信任を受け、宮中で強大な影響力を持った。
  • その子穆提婆も引き立てられて高位に進み、令萱は女侍中とされた。
  • また宮人の穆舎利は斛律后の侍女から寵妃となり、令萱は彼女の養母となって連携した。

祖珽の復帰と胡長仁の死

  • 後主は、即位時に自分を助けた祖珽を思い出した。
  • 祖珽は流罪の身で失明していたが、和士開もまたその才略を利用しようと考え、陸令萱を通じて復帰を勧めた。
  • 祖珽は趙彦深の専横を警戒すべきだと陸令萱の弟に書を送り、宮廷工作を促した。
  • こうして祖珽は秘書監・開府儀同三司として呼び戻された。
  • ついで和士開は胡長仁を讒言して斉州刺史に出し、反感を抱いた長仁が刺客を放とうとすると、その罪を理由に州で死を賜った。祖珽は漢の薄昭の例を引き、外戚でも処断すべきだと論じた。

夏〜秋・陳の内政と周・斉の戦線

  • 五月、陳では徐陵が左僕射になった。
  • 七月、皇太子叔宝は沈君理の娘を太子妃に迎えた。
  • 八月、北周の孔城防主が殺され、その地が北斉に付いた。
  • 九月、北周は斉公宇文憲と李穆に宜陽方面を攻めさせ、崇徳など五城を築いた。

九月以後・欧陽紇の反乱

  • 広州に長く根を張っていた欧陽紇は、華皎の叛乱以来、朝廷に疑われていると感じていた。
  • 朝廷が彼を左衛将軍として召還しようとすると、部下たちは反乱を勧め、紇はついに兵を挙げて衡州刺史銭道戢を攻めた。
  • 陳は徐儉を派遣して説得したが、欧陽紇はしばらく寺に留め置き、最終的に徐儉を帰しただけで従わなかった。

冬・章昭達出征と諸国の動き

  • 十月、陳は章昭達に欧陽紇討伐を命じた。
  • 陳の帝は太廟を祭った。
  • 十一月、北周の長孫儉が死去した。
  • 北斉では斛律光が太傅、馮翊王潤が太保、琅邪王儼が大司馬となった。
  • 十二月、蘭陵王長恭が尚書令、魏収が左僕射となった。
  • 北周の宇文憲らは宜陽を囲み続けていた。
  • 一方、華皎の乱以来断絶していた陳と北周の関係修復が進み、北周は杜杲を派遣して旧好の回復を求め、陳もこれを受けて使者を返した。