資治通鑑陳紀四 高宗宣皇帝上之上 大建 二年 570年
正月〜二月・北斉改元と宜陽戦線
- 正月朔日、北斉は年号を武平に改めた。
- 東安王婁叡が死去した。
- 陳の帝は太廟を祭り、北斉は裴讞之を使者として派遣した。
- 北斉の斛律光は歩騎三万を率いて宜陽救援に赴き、たびたび北周軍を破り、統関・豊化の二城を築いて引き揚げた。
- 北周軍が追撃すると、斛律光はさらに返し討ちにして将を捕えた。
- 二月、北斉では斛律光が右丞相・并州刺史となり、任城王湝が太師、賀抜仁が録尚書事となった。
二月・欧陽紇平定
- 欧陽紇は陽春太守馮僕を南海に呼び寄せ、反乱への参加を誘った。
- 馮僕は母の洗夫人に知らせたところ、洗夫人は「忠節を守って二代に及んだのに、子を惜しんで国に背くわけにはいかない」と言い、兵を発して境を守り、諸酋長を率いて章昭達を迎えた。
- 章昭達は急行して始興に至り、欧陽紇は狼狽して洭口に退き、水柵の外に石を詰めた竹籠を沈めて艦隊を防ごうとした。
- 章昭達は上流から大艦を進め、兵に水中で籠の竹を切らせて障害を壊し、そのまま流れに乗って突撃した。
- 欧陽紇軍は大敗し、欧陽紇は生け捕られて建康へ送られ、市で斬られた。
- 反乱時、嶺南在住の流寓士人が動揺する中、蕭引だけは平然として節義を守れば憂えることはないと語った。乱平定後、朝廷は彼を金部侍郎に召した。
- 馮僕は功により信都侯となり石龍太守に進み、洗夫人には石龍太夫人の号が与えられ、刺史級の儀仗・安車・鼓吹などが賜与された。
三月〜四月・陳の喪と諸国の動き
- 三月、皇太后章氏が死去した。
- 北斉では賀抜仁も死去した。
- 陳では大赦が行われた。
- 四月、北周は宇文盛を大宗伯とし、君主は醴泉宮へ赴いた。
- 北斉では徐之才が尚書左僕射となった。
- 陳では武宣皇后が万安陵に葬られた。
- 閏月、帝は太廟を拝した。
五月〜六月・弔問と北斉皇子誕生
- 五月、北斉は弔使を派遣した。
- 六月、広寧王孝珩が司空となった。
- 齊主の寵妃穆夫人が子の恒を生み、後主に男子がいなかったため大赦が行われた。
- 陸令萱は、この恒を太子にしたいと考え、斛律后の恨みを避けるため、斛律后に養育させるよう後主に進言した。
- 唐邕は尚書右僕射となった。
七月・和士開の専権
- 七月、北斉では城陽王彦基・梁郡王彦忠が立てられた。
- 蘭陵王長恭が録尚書事となり、和士開は尚書令に進み、淮陽王に封じられた。
- 士開の権勢は日ごとに盛んになり、朝士の中には恥を知らず彼の養子となる者もいた。
- 富商大賈と肩を並べるほどの奢侈が横行し、病気になった士開のために、見舞い客が自ら黄龍湯を先に飲んで服薬を勧めた逸話まで残る。
七月〜九月・章昭達の対梁戦
- 北周の君主は長安へ帰還した。
- 北斉では華山王凝が太傅となった。
- 章昭達は欧陽紇平定後、そのまま梁を攻めた。
- 梁主は北周の陸騰とともに防戦し、北周側は峡口南岸に安蜀城を築き、江上に大索と葦橋を設けて補給線を確保した。
- 章昭達は楼船から長戟を伸ばして索を断ち、兵糧輸送を絶って安蜀城を陥落させた。
- 北周の李遷哲が救援し、夜襲や邀撃で陳軍に損害を与えたうえ、城への潜入部隊も撃退した。
- 章昭達はさらに龍川・寧朔堤を決壊させて江陵を水攻めしたが、陸騰の反撃で不利となり、ついに軍を引いた。
秋冬・北斉太子冊立と梁王荘
- 八月、北斉の後主は晋陽へ行幸した。
- 九月、皇子恒が太子に立てられた。
- 十月朔日、日食があった。
- 北斉では広寧王孝珩が司徒、上洛王思宗が司空となった。
- 以前から保護されていた梁の永嘉王荘は、再び梁王とされ開府儀同三司を加えられたが、北斉がその復興を実現することはなく、のちに北斉滅亡後、鄴で憤死した。
- 陳の帝は太廟を祭った。
- 北斉は文宣帝の諡号を回復し、廟号を顕祖とした。
- 十二月、北周の達奚武が死去した。
- 北斉の後主は鄴に戻った。
- 北周の鄭恪は越嶲を平定し、西寧州を置いた。
年末・宜陽から汾北へ戦線移動
- 宜陽をめぐる周斉の争奪が長引く中、北周の韋孝寛は、宜陽一城の得失よりも、北斉が崤東を捨てて汾北へ転進することを警戒し、華谷・長秋に築城して備えるべきだと進言した。
- しかし宇文護は、守兵の手当てが難しいとして採用しなかった。
- その結果、北斉の斛律光は果たして晋州道から出て汾北に華谷・龍門の二城を築き、韋孝寛と対面して、宜陽を捨てた代償をここで取るのだと語った。
- さらに定陽を囲み、南汾城を築いて圧迫した。
- 北周は宜陽包囲を解いて汾北救援に転じ、宇文護は宇文憲の策に従い、同州方面に出て声勢を示しつつ挽回を図ることになった。