資治通鑑陳紀四 臨海王 光大 元年 567年

正月・改元と諸国の動き

  • 正月朔日、日食があった。
  • 尚書左僕射の袁樞が死去した。
  • 赦令が出され、年号を光大に改めた。
  • 陳の帝は南郊で祭祀を行った。
  • 北斉の上皇は、前年に晋陽へ赴いていたが、この年に鄴へ帰還した。
  • 北周の君主は籍田を耕し、親ら農耕儀礼を示した。

二月・安成王頊と劉師知の失脚

  • 北斉では君主が元服し、大赦が行われた。
  • 陳では、文帝の遺詔により安城王頊・到仲舉・劉師知らが補佐政務を担っていたが、劉師知は安成王頊の声望と兵力を恐れ、王暹らと結んで頊を中央から外へ出そうとした。
  • これを察した毛喜が頊に強く諫め、太后や帝の意向を確認させたところ、頊追放は太后の本意ではないと判明した。
  • 頊は劉師知を拘え、自ら太后と帝に会ってその罪を訴え、劉師知は獄中で死を賜った。
  • 到仲舉は金紫光禄大夫に移され、王暹は誅殺された。殷不佞も連座したが、頊がその節義を日ごろ重んじていたため、死罪は免れて免官にとどまった。
  • 以後、国政の実権はほぼ安成王頊に集中した。

韓子高・到仲舉の誅殺

  • 右衛将軍の韓子高は、建康で最も強盛な兵力を持つ将の一人で、到仲舉と通じていた。
  • 毛喜は、すぐに討つよりも安心させて油断を誘うべきだと進言し、頊もこれに従った。
  • その後、到仲舉は失脚して私邸に戻ったが不安を深め、子の到郁は韓子高と密議を重ねた。
  • 陸昉らの告発によって謀反が発覚し、頊は群臣を集める名目で二人を出頭させ、到仲舉・韓子高・到郁を捕えて獄に下し、死を賜った。
  • 余党は広く追及されなかったが、南豫州刺史の余孝頃は別件の謀反で誅された。
  • 始興王伯茂は帝の同母弟で、劉師知・韓子高らの計画にも関係していたため、頊は彼を中衛大将軍として禁中に置き、帝の側から離さないようにした。

三月・四月の人事と華皎の不安

  • 三月、沈欽が侍中・尚書左僕射となった。
  • 四月、北斉は司馬幼之を使者として陳に派遣した。
  • 湘州刺史の華皎は、劉師知・韓子高がともに文帝の側近であったため、両者の死後に自分も危ういと感じ、兵を整え、部下を手厚く遇し、さらに広州への転任を願い出て朝廷の出方をうかがった。
  • 頊は表向きこれを許す姿勢を見せたが正式の詔は出さず、その間に華皎はひそかに北周へ援軍を求め、さらに梁にも帰順し、子の華玄響を人質として送った。

五月〜閏六月・華皎討伐と周の介入

  • 頊は呉明徹を湘州刺史に任じ、華皎討伐の主力とした。
  • あわせて淳于量・楊文通・黄法慧らにも別働隊を率いさせ、章昭達・程霊洗とも連携して郢州・湘州方面から挟撃する体制を整えた。
  • 北周では、華皎と梁王が救援を求めたことを受けて出兵が議論された。司会の崔猷は、前年の東征の損耗、陳との和好、叛臣受け入れの不義を理由に反対したが、晋公宇文護は聞き入れなかった。
  • 閏六月、衛公宇文直を総帥として、陸通・田弘・権景宣・元定らが兵を率いて華皎支援に向かった。
  • 同じころ北斉では、重臣の斛律金が没した。外戚として栄華を極めた家であったが、本人は娘の寵愛に頼る家の危うさを常々戒めていた。

七月・八月・北斉の東平王儼の専寵

  • 陳では皇子至沢が太子に立てられた。
  • 北斉では大規模な官爵授与が行われ、東平王儼は父の上皇と胡太后にとくに寵愛され、京畿兵権・御史中丞の威儀など、極めて高い待遇を受けた。
  • 上皇は儼をことさらに尊び、儀礼・服飾・供給も皇帝同様とし、しばしば廃立を考えるほどであった。

秋・華皎の反乱拡大

  • 華皎は章昭達や程霊洗を誘ったが、章昭達は使者を捕えて建康へ送り、程霊洗は使者を斬った。
  • 華皎は武州・巴州・長沙方面の諸将を味方につけ、湘州・巴州一帯へ影響力を広げた。
  • 頊は上流の守宰が華皎に靡くことを恐れ、湘州・巴州の二州に特別赦免を布いて離反の拡大を防ごうとした。
  • 九月、陳は華皎の一族を皆殺しにし、梁は華皎を司空に任じて援軍を付した。
  • 北周の権景宣・元定・衛公直らも梁・華皎軍と合流し、郢州・巴陵方面へ進んだ。

沌口の戦いと華皎の敗走

  • 淳于量は夏口に陣し、元定は歩騎数千で郢州を囲んだ。華皎は白螺に軍を置き、呉明徹と対峙した。
  • 一方、徐度・楊文通らは嶺路から湘州へ回り込み、華皎が本拠に残していた将兵の家族をことごとく捕えた。
  • 華皎は巴陵から周・梁の水軍とともに大軍で下り、沌口で陳軍と決戦した。
  • 淳于量と呉明徹は小艦を先に出して敵大艦の拍撃を使い切らせ、その後に大艦で逆撃したため、周・梁軍の船は多数沈没した。
  • 敵は火攻めも試みたが、風向きが変わって自軍が焼かれ、大敗した。
  • 華皎は戴僧朔と小船で逃げ、巴陵にも上陸できず、そのまま江陵へ逃げ込んだ。衛公直も江陵へ退却した。
  • 元定は孤立し、巴陵へ向かって退こうとしたが、すでに徐度らが押さえていた。偽りの講和に応じて武装解除したところ捕えられ、配下も尽く虜となった。元定は憤死した。
  • 華皎方の曹慶ら四十余人は誅殺されたが、密かに朝廷へ通報していた章昭裕・曹宣・任忠らは赦された。
  • 呉明徹は勝勢に乗じて梁の河東を攻め落とした。

程霊洗の沔州攻略

  • 陳と北周が敵対関係に入ると、北周の沔州刺史裴寛は、襄州総管に増兵と城の移転を願い出た。洪水を避けるため羊蹄山へ移す計画であった。
  • しかし援軍が来る前に程霊洗の水軍が急襲し、大雨で増水した隙をついて大艦を城に迫らせ、拍撃で城楼・女牆を破壊した。
  • 三十日余りの猛攻の末、陳軍は城内へ突入した。裴寛はなお短兵で奮戦したが、ついに捕えられた。

冬・諸国の出来事

  • 十月、陳の帝は太廟を祭った。
  • 十一月朔日にも日食があった。
  • 北斉では大赦が行われた。
  • 北周の宇文貴が、突厥からの帰途、張掖で死去した。
  • 北斉の上皇は再び鄴に帰還した。
  • 十二月、宇文護の母が死去したが、詔で服喪を切り上げられ、引き続き政務を執らされた。

十二月・祖珽の失脚

  • 北斉の祖珽は劉逖を介して趙彦深・元文遥・和士開の罪を上奏し、宰相の座を狙った。
  • しかし相手側が先に上皇へ訴え出たため、祖珽は逆に召し出されて詰問された。
  • 祖珽はなお、和士開らの朋党・売官・宮中の乱れを激しく弾劾し、上皇の後宮政策まで批判したため、怒りを買って鞭打たれ、光州へ流された。
  • さらに地牢に入れられ、拘束されたまま灯火の煙に目をやられて失明した。

北斉・畢義雲の家の事件

  • 北斉の七兵尚書畢義雲は苛酷残忍で、家族にも常軌を逸したふるまいをしていた。
  • 夜に盗賊に殺されたが、現場の刀が子の畢善昭の佩刀と判定され、官は畢善昭を捕えて誅した。