春正月:改元と祭祀
- 己卯、日食があった。
- 癸未、北周は大赦して改元し、天和とした。
- 辛卯、北斉皇帝は圜丘を祭り、癸巳には太廟で祫祭を行った。
- 丙申、北斉は吏部尚書の尉瑾を右僕射に任じた。
- 己亥、北周皇帝は籍田を耕した。
- 庚子、北斉皇帝は晋陽に赴いた。
- 北周は小載師の杜杲を陳へ派遣した。
二月三月:北斉改元、陳の病勢重篤
- 二月庚戌、北斉太上皇は鄴へ帰った。
- 丙子、北斉は大赦して天康と改元した。
- 三月己卯、陳では安成王頊を尚書令とした。
- 丙午、北周皇帝は南郊を祭った。
夏四月:世祖の病と後継問題
- 辛亥、大雩が行われた。
- 陳の世祖は病が重くなり、台閣の諸務は尚書僕射到仲挙と五兵尚書孔奐に委ねられた。孔奐は孔琇之の曾孫である。
- 病状が悪化すると、孔奐・到仲挙・安成王頊・吏部尚書袁樞・中書舎人劉師知らが医薬のため近侍した。
- 太子伯宗は柔弱で、世祖はその守成を憂えた。頊に対し、自らは太伯のように天下を譲りたいと語ったが、頊は泣いて固辞した。
- 世祖はさらに仲挙・孔奐らに、今は三国鼎立の際であり、長じた君主が必要なので、近くは晋成帝の先例、遠くは殷の兄終弟及の法に従いたいと述べた。
- 孔奐は涙を流し、病はまもなく快方に向かうはずで、太子も年齢と徳が進みつつあり、安成王は周公旦のように補佐すればよい、もし廃立のことを言うなら臣は承れないと答えた。
- 世祖は「古の遺直を再び卿に見た」と称え、孔奐を太子詹事にした。
- 司馬光はここで、孔奐は本当に世祖の発言を不当と思うなら徹底して防ぐべきであり、正当と思うなら明詔を請うべきで、中途半端に迎合したのは忠臣ではないと論じている。
四月癸酉:世祖崩御
- 癸酉、世祖文皇帝が崩御した。
- その人となりは、苦難を経て民情に通じ、明察で倹約を守った。毎夜、宮中の小門で外事の判決文を次々と受け取り、殿中で更籤を石段に投げさせて音を立て、眠っていても目を覚ませるようにしていたという。
- 太子伯宗が即位し、大赦した。
五月:新帝即位後の人事
- 己卯、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后と尊んだ。
- 乙酉、北斉では武興王普を尚書令に任じた。
- 吐谷渾の龍涸王莫昌が部落を率いて北周に帰附し、その地に扶州が置かれた。
- 庚寅、陳では安成王頊を驃騎大将軍・司徒・録尚書・都督中外諸軍事とし、朝政と軍権を集中させた。
- 丁酉、徐度を司空、袁樞を左僕射、沈欽を右僕射とした。
- 御史中丞の徐陵は吏部尚書となり、梁末以来の官爵濫授を改めようとした。
- 徐陵は、梁元帝・王僧弁の乱後は官を貨幣代わりに配ったため、員外常侍が路上にあふれ、諮議参軍も市中に無数にいる有様になったが、今や国家が整ってきた以上、旧習を続けるべきではないと文書で示した。人々はこれに服した。
六月:北斉使来訪と世祖の葬礼
- 己亥、北斉は上皇の子である宏を斉安王、仁固を北平王、仁英を高平王、仁光を淮南王に封じた。
- 六月、北斉は韋道儒を陳へ派遣した。
- 丙寅、陳では世祖文皇帝を永寧陵に葬り、廟号を世祖とした。
秋:北周の巴峡平定
- 七月戊寅、北周は武功などに諸城を築き、軍士を置いた。
- 丁酉、陳では妃王氏を皇后に立てた。
- 八月、北斉太上皇は晋陽へ赴いた。
- 北周では信州の蛮である冉令賢・向五子王らが巴峡で反乱し、白帝を落として二千余里に勢力を連ねた。元契・趙剛らの討伐は成功しなかった。
- 九月、陸騰に王亮・司馬裔を属して討伐を命じた。
- 陸騰は湯口に布陣し、令賢が江南に十城を置き、さらに涔陽の蛮と結んでいる情勢を見て、まず水邏城ではなく江南の諸城を先に取る方策を採った。
- 王亮に江を渡らせると、旬日のうちに八城を落とし、捕虜・降人はそれぞれ千を数えた。
- ついで精鋭を募って多道から水邏を攻め、令賢と仲の悪い蛮帥の冉伯犂・冉安西を金帛で誘い、道案内にした。さらに石勝城を守る令賢の甥の龍真も密かに寝返らせた。
- これにより水邏は崩れ、斬首一万余、捕虜一万余、令賢も追って斬られた。陸騰はその骸を積んで京観としたため、以後、蛮族はそれを見るたび大いに泣き、再び反しなくなった。
- 向五子王は石墨城に、子の宝勝は双城に拠った。陸騰はしばしば降伏を勧めたが従わなかったため進撃し、皆捕えて斬った。向氏諸酋長を尽く誅し、捕虜は万余に及んだ。
- 信州の州治は従来白帝にあったが、陸騰は八陣灘の北へ移した。
- 小吏部の辛昂は、梁・益へ使しつつ軍糧督運を担当し、各州の民に利害を説いて協力させた。さらに巴州万栄郡の反乱では、上奏を待たず自ら兵三千を募って急行し、賊を撃退して郡を救った。この功で渠州刺史となった。
冬:各国の動き
- 十月、北斉は侯莫陳相を太傅、任城王湝を太保、婁叡を大司馬、馮翊王潤を太尉、韓祖念を司徒とした。
- 庚申、陳皇帝は太廟を享した。
- 十一月乙亥、北周は陳へ弔使を送った。
- 丙戌、北周皇帝は武功などの新城を視察した。
- 十二月庚申、長安へ帰還した。
年末:北斉で河間王孝琬が殺される
- 河間王孝琬は、兄の孝瑜を殺した執政層を怨み、草人を作って射た。
- 和士開と祖珽はこれを太上皇に告げ、「草人は聖躬を象ったものだ」と讒言した。さらに、以前突厥が并州に至った際、孝琬が兜鍪を地に叩きつけて「自分は老女ではない、こんなものが要るか」と言ったのは太上皇を婦人扱いしたものだとか、河間に関する魏代の謡が孝琬の即位兆と結びつくとか、さまざまに罪を重ねた。
- 太上皇はこれを信じかけた。たまたま孝琬が仏牙を邸に置き、夜に光が見えると聞くと、捜索して鎮庫用の矟幡数百を見つけ、反乱の道具とみなした。
- さらに寵愛の薄かった陳氏という姫が、孝琬は陛下の像を描いて泣いていたと証言した。実際にはそれは父の世宗像であった。
- 太上皇は怒り、武衛の赫連輔玄に逆手の鞭で打たせた。孝琬が「叔父上」と呼ぶと、太上皇は「どうして私を叔父と呼ぶのか」と怒った。
- 孝琬は、自分は神武帝の嫡孫、文襄帝の嫡子、魏孝静帝の甥なのだから、叔父と呼んで何が悪いのかと言い返した。
- 太上皇はさらに怒り、両脚を折って殺した。
- 安徳王延宗は兄の死を哭して涙が血となり、また草人を作って鞭打ち、「なぜ我が兄を殺したのか」と問いつめた。家奴がこれを告げると、太上皇は延宗を地に覆して二百鞭打ち、死にかけさせた。
年末:元文遥の改革
- この年、北斉は侍中・中書監の元文遥に高氏の姓を賜り、やがて尚書左僕射に進めた。
- 魏末以来、県令には下級吏や雑役出身者が多く、士人は県令となるのを恥としていた。
- 元文遥は、県令こそ民政の根本だとして、この風を改め、名家の子弟からひそかに人選して勅命で任じた。
- なお不満が出るのを恐れ、神武門に集めて趙郡王叡に詔意を宣べさせ、丁重に慰撫して送り出した。
- 北斉の士人が県令に就くようになったのは、この時からである。