資治通鑑陳紀三 臨海王 天嘉六年 565年

春正月:北斉と北周の人事

  • 癸卯、北斉は任城王湝を大司馬に任じた。
  • 北斉皇帝は晋陽に赴いた。
  • 二月辛丑、北周は陳公純・許公貴・神武公竇毅・南陽公楊荐らに、皇后の儀衛・行殿・後宮の人員を伴わせ、突厥可汗の牙帳に赴いて皇女を迎えさせた。竇毅は竇熾の兄の子である。
  • 丙寅、北周は李穆を大司空、陸通を大司寇とした。
  • 壬申、北周皇帝は岐州に幸した。

夏四月:安成王頊の権勢と徐陵の弾劾

  • 甲寅、陳では安成王頊を司空とした。
  • 頊は皇帝の弟として朝野に大きな勢力を持ち、その直兵の鮑僧叡もその威を借りて不法を働いた。
  • 御史中丞の徐陵はこれを弾劾し、南台の官属を率いて殿中に入り、奏案を読み上げた。
  • 頊は殿上に侍立していたが、顔色を失って汗を流した。徐陵は殿中御史に命じて頊を殿外へ引き下ろさせた。
  • 皇帝は頊の侍中・中書監の職だけは免じたが、朝廷はこれによって粛然とした。

北斉:祖珽の台頭と譲位工作

  • 丙午、北斉では大将軍・東安王婁叡が罪により罷免された。
  • 著作郎の祖珽は文才と技芸に富んだが、放縦で品行が悪く、以前から窃盗や詐欺などで何度も処罰されていた。
  • それでも顕祖はその才を惜しみ、中書省に出仕させていた。
  • 世祖が長広王だったころ、祖珽は胡桃油を献じて「殿下には非常の骨相があり、天に昇る夢を見た」と持ち上げた。即位後、祖珽は中書侍郎・散騎常侍となり、和士開とともに奸佞の中心となった。
  • 祖珽はひそかに和士開へ、「君の寵幸は古今に比類がないが、皇帝が亡くなった後に身を保つには、太子を早く即位させ、皇后と少主に恩を売るのが万全だ」と説いた。
  • ちょうど彗星が現れ、太史が「古いものを除き新しい主が立つしるし」と奏上したため、祖珽はこれに乗じて上書し、天道に応じるため東宮に位を譲るべきだと述べ、魏の顕祖の譲位先例も引いた。
  • 丙子、北斉皇帝は段韶に節を持たせて皇帝璽綬を太子緯に授け、晋陽宮で即位させた。改元して天統とし、太子妃の斛律氏を皇后とした。
  • 群臣は世祖に太上皇帝の尊号を奉り、軍国の大事はすべて奏聞することになった。馮子琮・胡長粲が少主を補導し、祖珽は秘書監・儀同三司となって両宮から重用された。

北斉の相次ぐ人事

  • 丁丑、賀抜仁を太師、侯莫陳相を太保、馮翊王潤を司徒、趙郡王叡を司空、河南王孝琬を尚書令に任じた。
  • 戊寅、尉粲を太傅、斛律光を大将軍、東安王婁叡を太尉、趙彦深を左僕射とした。

夏秋:対外関係と周迪の最期

  • 五月、突厥は使者を北斉へ送り、初めて正式に通好した。
  • 六月己巳、北斉は王季高を陳へ派遣した。
  • 七月辛巳朔、日食があった。
  • 陳では都督程霊洗が鄱陽から別道を進んで周迪を撃破した。
  • 周迪は十余人の部下と山中の穴に潜み、長く隠れ続けたが、従者たちも次第に苦しんだ。
  • 後に配下の一人がひそかに臨川の市へ魚菜を買いに出たのを臨川太守駱牙が捕え、自首すれば功にするよう命じた。さらに勇士を腹心として同行させ、山中に潜入させた。
  • その者が周迪を狩りに誘い出すと、勇士が道傍に伏せてこれを斬った。
  • 丙戌、その首が建康に送られた。

秋:北周皇帝の巡幸と陳の封王

  • 庚寅、北周皇帝は秦州に幸し、八月丙子に長安へ戻った。
  • 己卯、陳では皇子伯固を新安王、伯恭を晋安王、伯仁を廬陵王、伯義を江夏王に封じた。

冬十月:賀若敦の自殺

  • 辛亥、北周は函谷関城を通洛防とし、金州刺史賀若敦を中州刺史として函谷に鎮させた。
  • 賀若敦は才を誇り気位が高く、同輩が次々に大将軍となる中で自分だけが昇進しないことを不満とし、しかも湘州遠征では全軍を保って帰還したのに、かえって除名されたことを恨んでいた。
  • 台使に対して不満を口にしたため、宇文護は怒って召還し、自殺を強要した。
  • 臨終にあたり、子の弼に「自分は江南平定の志を果たせなかった。お前が必ず成し遂げよ。ただし自分は舌で身を滅ぼしたのだから、お前は口を慎め」と言い、錐でその舌を刺して血を出し、戒めとした。

十一月:北斉の諡号改定

  • 癸未、北斉太上皇は鄴に到着した。
  • 世祖は長広王だった頃、顕祖からしばしば鞭打たれたことを恨んでいた。祖珽もまた顕祖に「賊」と呼ばれていたため怨んでおり、太上皇に媚びるため、「文宣は狂暴で『文』にあたらず、創業者でもないのに『祖』と称するのは不当だ」と説いた。
  • 太上皇はこれに従い、己丑、太祖献武皇帝の廟号を高祖に改め、献明皇后を武明皇后とし、さらに文宣帝の諡号の再議を命じた。

十二月:北斉の改諡

  • 乙卯、陳では皇子伯礼を武陵王に封じた。
  • 壬戌、北斉太上皇は晋陽へ赴いた。
  • 庚午、北斉は文宣皇帝の諡を景烈皇帝、廟号を威宗に改めた。