資治通鑑陳紀三 世祖文皇帝下 天嘉五年 564年

春正月:晋陽攻防と周・突厥の敗退

  • 庚申朔、北斉皇帝は晋陽北城に登って軍容を示した。兵の布陣は整っていた。
  • 突厥は周軍に対し、「斉は乱れていると聞いたから来たのに、実際にはよく備えているではないか」と不満を漏らした。
  • 周軍は歩兵を前衛として西山から進み、城の二里ほどのところまで来た。斉の諸将は迎撃を望んだが、段韶は深雪の中での逆戦は不利として、陣を固めて敵の疲れを待つ策を取った。
  • 周軍が接近すると、斉軍は精鋭を挙げて鼓噪しつつ出撃した。突厥は驚いて西山上へ退き、戦おうとしなかった。
  • 周軍は大敗して撤退し、突厥も塞外へ引き揚げたが、その途上で晋陽以北七百余里を略奪し、人畜をほとんど残さなかった。
  • 段韶は追撃したが、深く迫れなかった。突厥軍は陘嶺で凍結した道を氈で覆って馬を通したが、寒さで馬はやせ衰え、多くが死に、槊を杖代わりにして帰る有様であった。
  • 達奚武は平陽まで進んでいたが、楊忠がすでに退いたことを知らず、斛律光から「大鳥は既に遠く飛び去ったのに、なお沼沢を見張る者があるようなものだ」との書を受けて撤退した。斛律光は追撃して周境に入り、二千余人を捕えて帰還した。
  • 斛律光が晋陽で皇帝に拝謁すると、皇帝は大敵に遭ったばかりの心細さから、その頭を抱いて泣いた。任城王湝がたしなめて、ようやく泣きやんだ。
  • かつては北周が冬ごとに黄河の氷を砕いて斉の西進を防いでいたが、今や斉の側が周軍を恐れて氷を砕くほどになった。斛律光は、国家が関隴を呑む志を失い、ただ声色にふけるだけになったことを憂えた。

二月:祭祀と北斉律令の完成

  • 辛巳、陳の皇帝は南郊を祭った。
  • 庚寅朔、日食があった。
  • 北斉では、魏の麟趾格をもとに久しく編纂中だった律令がこのころ完成した。戦争続きで裁判が律に基づかず、便宜的な「変法」が横行していた弊を改めようとしたものである。
  • 律は十二篇、令は四十巻からなり、刑名は死・流・刑・鞭・杖の五種に整理された。死刑にも轘・梟首・斬・絞の区別があった。
  • 老幼・宦官・愚鈍者や流外官など、贖刑に当たる者には金の代わりに絹を納めさせた。
  • 三月辛酉、これを施行し、大赦した。
  • 以後、官吏は法令を守るようになり、仕官家の子弟にも常に学ばせたため、北斉では法律に通じる者が多くなった。
  • さらに均田・租調・兵役の制度も整えられた。男子十八歳で受田と租調負担を始め、二十歳で兵役、六十歳で力役免除、六十六歳で田と租調を免除とした。夫婦・奴婢・牛ごとの受田と租税も細かく定められた。

三月:彭城王浟の死

  • 己巳、北斉で田子礼ら数十人の盗賊が太師・彭城景思王浟を脅して主とし、使者を装って邸内に入り、刃を突きつけて南殿へ連行しようとした。
  • 浟が大声で拒んだため、盗賊はこれを殺した。

庚辰:北周で百官に笏を持たせる

  • 北周は初めて百官に笏を執らせた。

北斉の人事

  • 北斉では斛律光を司徒、武興王普を尚書左僕射、馮翊王潤を司空に任じた。

夏四月:陳・周・北斉の使節往来

  • 辛卯、北斉は皇甫亮を陳へ派遣した。
  • 庚子、北周も使者を陳に送った。
  • 癸卯、北周は鄧公・河南の竇熾を大宗伯に任じた。

五月六月:北斉の人事と百年の殺害

  • 五月壬戌、北斉は世宗の子の宇文賢を畢公に封じた。
  • 甲子、北斉皇帝は晋陽から鄴に帰った。
  • 壬午、趙郡王叡を録尚書事、前司徒の婁叡を太尉、甲申には段韶を太師、丁亥には任城王湝を大将軍とした。
  • 壬辰、皇帝は再び晋陽に赴いた。
  • 北周では達奚武を同州刺史に移した。
  • 六月、北斉皇帝は楽陵王百年を殺した。白虹が日を二重にめぐり、赤い星が現れたため、百年を厄除けに使おうとしたのである。
  • 博陵の賈徳胄が百年に字を教え、百年が「勅」の字をまねて書いたものを密奏すると、皇帝は怒って百年を召し出した。
  • 百年は死を悟って帯の玉玦を妃の斛律氏に渡し、凉風堂で皇帝に会った。筆跡を確認されたのち、乱打され、堂の周囲を引き回されて血まみれとなり、息も絶え絶えになってから斬られた。
  • 遺体は池に捨てられ、池の水は赤く染まった。妃は玉玦を握ったまま泣き続け、飲食を断って一月余りで死んだ。父の斛律光がその手をこじ開けて、ようやく玉を取り出した。

夏秋:北周と斉の和親交渉

  • 庚寅、北周は御伯を納言と改めた。
  • かつて宇文護の母・閻氏と周主の姑は晋陽に留められ、北斉の中山宮に置かれていた。宇文護は長く消息を求めていた。
  • 北斉が玉璧で互市を求めたのを機に、宇文護は尹公正を通じて消息を探らせた。韋孝寛も東方の人を放して書を託し、西朝が通好を望んでいると伝えた。
  • このころ北周は前回の晋陽攻略の失敗後で、突厥と再び斉を討とうとしていた。北斉皇帝はこれを恐れ、宇文護の母を返還し、和親を結ぶことを申し出、先に周主の姑を返した。
  • 八月丁亥朔、日食。
  • 北周は楊忠を突厥と合流させて北斉を攻めさせたが、北河に至って引き返した。
  • 戊子、北周は斉公憲を雍州牧、宇文貴を大司徒とした。
  • 九月丁巳、衛公直を大司空とし、佐命の功を追録して隴西公李昞を唐公、若干鳳を徐公に封じた。
  • 乙丑、北斉皇帝は子の綽を南陽王、儼を東平王に封じた。
  • 突厥が幽州へ十余万で侵入して長城内を荒らして帰った。
  • 北斉は宇文護の母に、護の幼少時の思い出や昔の錦袍を添えて手紙を書かせた。老母が子と会えぬ悲しみを切々と訴える内容であった。
  • 宇文護もまた、三十五年も母と離れた不孝を嘆き、今度の恩義は死者を生き返らせるほどだと感謝する返書を送った。
  • 北斉はさらに何度も往復書簡を重ねさせた。

段韶の判断と閻氏の帰還

  • 段韶が塞下で突厥を防いでいた時、北斉皇帝は黄門の徐世栄に周からの書を携えさせ、宇文護の母を返す件を諮った。
  • 段韶は、周は反覆して信用できず、前回の晋陽攻めがその証拠だと述べ、和親を確定させてから母を返しても遅くないと進言した。
  • しかし皇帝は聞き入れず、ただちに閻氏を返した。
  • 閻氏が長安に着くと、北周朝廷は大いに祝い、皇帝は大赦した。日常の奉養もきわめて華美で、四時や伏臘の節には皇帝自ら親族を率いて家人の礼で寿を捧げた。

閏月以降:再度の周・突厥連合軍

  • 突厥は幽州から帰ると、塞北にとどまって諸部を再集結させ、前約どおり周と共同で斉を攻めるよう使者で催促した。
  • 閏月乙巳、突厥は再び幽州に侵入した。
  • 宇文護は母を得たばかりで本心では斉を攻めたくなかったが、突厥との約束を破って辺患を招くのも避けられず、二十四軍・左右廂・秦隴巴蜀・内附羌胡の兵、総計二十万を徴発した。
  • 冬十月甲子、北周皇帝は廟廷で宇文護に斧鉞を授け、丁卯には沙苑で親しく慰労した。

東南:周迪再起と周敷の戦死

  • 癸酉、皇帝は宮城へ還った。
  • 宇文護の軍が潼関に着くと、尉遅迥に精兵十万を率いさせて洛陽へ向かわせ、権景宣には山南の兵で懸瓠へ、楊檦には軹関へ進ませた。
  • そのころ周迪が再び東興に出て、宣城太守銭粛が東興を守っていたが城ごと降った。
  • 呉州刺史陳詳が討ったが大敗し、周迪の勢力は再び盛り返した。
  • 南豫州刺史の周敷が兵を率いて定川で対陣すると、周迪は「昔は力を合わせた仲ではないか、降伏して朝廷に帰りたいので、まず身一つで盟約したい」と偽った。
  • 周敷がこれを許して壇に登ったところ、周迪に殺された。

章昭達、陳宝応・留異を破る

  • 陳宝応は晋安・建安二郡に拠り、水陸に柵を設けて章昭達を防いだ。
  • 章昭達は一度戦って利あらず、上流に拠って兵に木を伐らせ、筏に拍を載せた。
  • 折から大雨で川が増水すると、その筏を流して陳宝応の水柵に突入させ、これをことごとく破壊した。さらに歩兵にも攻撃を加えたところ、余孝頃が海道から到着し、力を合わせて挟撃した。
  • 十一月己丑、陳宝応は大敗して莆口に逃れ、「早く虞寄の計に従っていれば、ここまでにはならなかった」と子に語った。
  • 章昭達は追って陳宝応を捕え、留異やその一族・党与もあわせて捕え、建康へ送って斬った。留異の子の貞臣だけは公主の夫であったため助命された。
  • 陳宝応の賓客はみな死んだ。
  • 皇帝は、虞寄がかつて陳宝応を諫めたことを聞き、章昭達に礼を尽くして建康へ送らせた。拝謁ののち、衡陽王の掌書記に任じた。

北周の洛陽攻めと北斉の反撃

  • 宇文護は弘農に進み、尉遅迥は洛陽を包囲、斉公憲・達奚武・王雄らは邙山に布陣した。
  • 戊戌、北斉は劉逖を陳へ派遣した。
  • 楊檦は長く東境で勝利を重ねたため敵を侮り、軹関から深入りしたが備えを怠った。甲辰、婁叡が急襲して大破し、楊檦は斉に降った。
  • 権景宣は懸瓠を囲み、豫州行台の王士良、永州刺史の蕭世怡が城をもって降伏した。景宣は郭彦に豫州、謝徹に永州を守らせ、降人とともに長安へ送った。
  • 周軍は土山・地道で洛陽を攻めたが、一月たっても落ちなかった。宇文護は河陽路を絶って斉の援軍を防ごうとしたが、諸将は斉軍は出てこないと見て、斥候だけに頼った。
  • 北斉は蘭陵王長恭と斛律光を洛陽救援に向かわせたが、周軍の強さを恐れて進軍できずにいた。
  • そこで皇帝は段韶を召し、洛陽救援と北方防衛の優先を問うた。段韶は、北方の侵入は皮膚の病にすぎず、西方の脅威こそ腹心の病だとして南行を願い出た。
  • 段韶は精騎千で晋陽を発し、五日で黄河を渡った。連日の陰霧の中、壬戌に洛陽へ着き、手勢三百騎とともに邙阪に登って敵情を観察した。
  • 太和谷で周軍と遭遇すると、諸営の騎兵を集めて陣を整えた。段韶が左軍、蘭陵王長恭が中軍、斛律光が右軍であった。
  • 周軍はその急到を予想しておらず、動揺した。段韶は遠くから周兵に声をかけ、宇文護が母と再会したばかりなのに、なぜ侵攻するのかと嘲った。周兵は「天命だ」と答えたため、段韶は「ならば天はお前たちを死に追いやるために来させたのだ」と言い返した。
  • 周の歩兵が山上に攻め登ってくると、段韶は戦いながら退いて誘い込み、敵が疲れたところで下馬して攻撃した。周軍は総崩れとなって谷へ落ち、多数が死んだ。
  • 蘭陵王長恭は五百騎で周軍を突破し、金墉城下に達した。城上の守兵が見分けられなかったため、兜を脱いで顔を見せてようやく援護を受けた。
  • 城下の周軍も包囲を解いて逃走し、邙山から穀水まで三十里にわたり、軍資・器械が川や野に満ちた。
  • 後軍で踏みとどまったのは斉公憲・達奚武・王雄らだけだった。王雄は斛律光の陣に突入して追い詰めたが、矟がわずかに届かず、「惜しいが殺さぬ、捕えて天子に見せよう」と言って追った。斛律光はただ一矢で王雄の額を射抜き、王雄は陣へ戻って死んだ。
  • これで周軍の恐怖はさらに募り、斉公憲は兵をなだめ励ましたが、達奚武は夜のうちに撤退しなければ帰れなくなると主張し、軍は退いた。権景宣もまた豫州を捨てて逃れた。
  • 丁卯、北斉皇帝は洛陽に到着し、己巳には戦功を賞して段韶を太宰、斛律光を太尉、蘭陵王長恭を尚書令とした。
  • その後、虎牢・滑台・黎陽を経て丙子に鄴へ戻った。
  • 一方、楊忠は沃野に出て突厥と連絡していたが、軍糧が不足した。そこで稽胡の酋長たちを集め、あたかも洛陽が平定され、次は服さぬ稽胡を討つかのように見せたところ、彼らは恐れて競って糧秣を送った。周軍の撤退に伴い、楊忠も引き返した。
  • 宇文護はもともと将略に乏しく、今回の出兵も本意ではなかったため、成果を上げられなかった。帰還後、諸将とともに叩頭して謝罪したが、皇帝はこれを慰めて退けた。

年末:災害と宕昌滅亡

  • この年、北斉の山東では大水害と飢饉が起こり、死者は数えきれなかった。
  • 宕昌王梁弥定はたびたび北周辺境を侵していたが、北周の大将軍田宏が討ち滅ぼし、その地に宕州を置いた。