資治通鑑陳紀三 世祖文皇帝下 天嘉四年 563年

春正月:北斉の政変と高元海の失脚

  • 北斉では、太子少傅の魏収が尚書右僕射を兼ねた。皇帝は酒宴にふけり政務を侍中の高元海に任せていたが、高元海は凡庸で、皇帝自身も軽んじていたため、名望ある魏収を起用したのである。
  • しかし魏収は臆病で責任を避け、ほどなく放任の罪で罷免された。
  • 兗州刺史の畢義雲が高元海に時政を論じる書を送ったところ、高元海がそれを宮中に置き忘れ、給事中の李孝貞が拾って奏上した。これをきっかけに皇帝は高元海を疎んじ、李孝貞を中書舎人に取り立て、畢義雲も召し戻した。
  • さらに和士開の讒言もあって、高元海は皇帝から激しく責められ、かつて反乱を勧めたことや兵をもって并州に対抗したことをなじられたうえ、兗州刺史として外に出された。

周迪の敗走と陳宝応への依附

  • 甲申、周迪の軍は潰走し、本人は山を越えて晋安に逃れ、陳宝応を頼った。
  • 官軍は臨川を平定し、周迪の妻子を捕えた。
  • 陳宝応は兵糧や兵力を周迪に与え、留異もまた子の忠臣を添えて支援した。

虞寄の十箇条の諫書

  • 虞寄は陳宝応に書を送り、反抗を思いとどまるよう十項目にわたって説いた。要旨は、陳朝こそ天命を受けた王朝であること、王琳・侯瑱ほどの強敵も既に屈したこと、朝廷は旧敵にも寛大であること、今は周・斉との関係も安定しており挙兵の好機ではないこと、留異軍は衰えていて将兵も信頼できないこと、民も戦乱を厭っていること、少数の郡で天下の兵に抗するのは無謀であること、異族や姻族は土壇場で頼れないこと、官軍は遠征軍であっても士気が高く、陳宝応側は地元ゆえにかえって後顧の憂いが大きいこと、などであった。
  • そのうえで、留異との関係を断ち、兵を解いて詔命に従えば、宗室待遇のまま富貴を保てると勧めた。
  • 陳宝応はこれを読んで激怒したが、周囲の者が「虞寄は病が重く、言葉に錯乱もある」と取りなしたため、怒りをやや収めた。虞寄が民望を集めていたため、なお厚遇は続けた。

北周:侯莫陳崇の死

  • 北周の侯莫陳崇は、皇帝が原州から夜に急いで長安へ帰還した事情について、「晋公宇文護に不吉があると聞く。おそらく死ぬのだろう」と親しい者に語った。
  • この発言が漏れ、乙酉、皇帝は諸公を大徳殿に集めて侯莫陳崇を面前で責めた。崇は恐れて謝罪した。
  • その夜、宇文護は使者と兵を侯莫陳崇の邸に送って自殺を強制し、葬礼だけは通常どおりに行わせた。

陳・周の人事と北周の法典編纂

  • 壬辰、陳では高州刺史の王法氍を南徐州刺史に、臨川太守の周敷を南豫州刺史に任じた。
  • 北周では司憲大夫の拓跋迪に命じて新たな律を編ませた。内容は十五篇とされるが、伝えによっては二十五篇に及んだともいう。
  • その刑罰体系は、杖・鞭・徒・流・死の五刑を基本とし、死刑にも絞・斬・梟・裂などの等差を設け、全体で二十五等級に整理された。

侯安都の転任

  • 庚戌、陳では司空・南徐州刺史の侯安都を江州刺史に移した。

北周:宇文護への尊崇

  • 辛酉、北周は、大冢宰・晋国公の宇文護について、皇帝の兄に等しい近親であり、元輔の任にあるとして、今後は詔勅や百司の文書にその名を直接記さないこととした。
  • 宇文護は固辞の表を出した。

三月:日食

  • 乙丑朔、日食があった。

北斉の築城

  • 北斉では斛律光に歩騎二万を与え、軹関に勲掌城を築かせ、さらに長城二百里を修築して十二の戍を置いた。

夏四月:北周の太学行幸と于謹への敬老礼

  • 乙未、北周は柱国の達奚武を太保に任じた。
  • 北周皇帝は太学に臨むにあたり、太傅・燕国公于謹を三老に立てた。于謹は辞退したが許されず、延年杖を賜った。
  • 戊午、皇帝は太学に幸し、門前で于謹を迎えて拝礼した。大臣たちが老者の席や几を整え、皇帝自ら跪いて食事を供し、酒をすすめ、礼の後には北面して教えを請うた。
  • 于謹は、君主は諫言を受け入れること、信義を失わないこと、賞罰を明らかにすること、言行を慎むことを説き、皇帝は再拝してこれを受けた。
  • 後世の学制・養老の儀礼のうち、視学・養老・乞言を兼ねてこれほど整った例は、漢の明帝とこの周の武帝くらいだとされる。

侯安都の専横と誅殺

  • 侯安都は功績を誇って驕慢となり、文武の士を集めて騎射や詩作を楽しみ、邸宅には千人規模の客が出入りした。配下の将帥にも法度を守らぬ者が多く、取り締まりを受けると安都のもとへ逃げ込んだ。
  • 皇帝は内心これを憎んだが、安都は気づかなかった。宴席でも無礼が目立ち、かつて臨川王であった頃を引き合いに出して軽口を叩き、御座を借りて妻妾と遊びたいと願うなど、皇帝の不快感を深めた。
  • 重雲殿の火災の際には、安都が甲冑姿の将兵を率いて殿中に入ったため、皇帝は強い警戒心を抱いた。
  • 周迪の反乱に対して朝議では安都を派遣すべきとの意見もあったが、皇帝はあえて呉明徹を用い、さらに台使を何度も派遣して安都の配下を調査し、逃亡兵の摘発も進めた。
  • 安都は別駕の周宏実を蔡景歴のもとにやり、内情を探らせたが、景歴はその様子を詳しく奏上し、意を迎えて安都謀反の疑いを強めた。
  • 皇帝は、安都が召命に応じないことを恐れ、まず江州刺史に転出させた。
  • 五月、安都は京口から建康へ戻り、部隊は石頭に入った。
  • 六月、皇帝は嘉徳殿に安都を招いて宴を開き、またその部下将帥も尚書朝堂に集めたうえで、席上で安都を逮捕して嘉徳西省に幽閉した。配下の将帥も捕えられたが、兵仗を取り上げたのち釈放した。
  • 朝廷は蔡景歴の奏表を公示し、続いて詔で安都の罪を列挙した。翌日、安都に死を賜り、妻子は赦され、葬送費も支給された。
  • 陳の高祖はかつて諸将を評して、杜僧明は志が大きいが識見に乏しい、周文育は交友を選ばず心を許しすぎる、侯安都は傲慢で欲が深く軽薄だとして、いずれも身を全うしがたいと述べていた。結末はその言葉どおりとなった。

六月:北斉使の来聘と和士開の専寵

  • 乙卯、北斉は崔子武を使者として陳に派遣した。
  • 北斉では和士開が皇帝の寵愛を独占し、外朝で政務を執る時も、内廷で遊宴する時も、片時も離れられぬ存在となっていた。頻繁に宮中を出入りし、卑俗な言葉と振る舞いで主君を喜ばせ、ついには「帝王も死ねば皆同じ、若いうちに快楽を尽くすべきだ」と勧めた。
  • 皇帝はこれを喜び、官爵は趙彦深、財政は元文遥、外兵・騎兵は唐邕ら、東宮は馮子琮と胡長粲に委ね、自身は数日ごとに少し朝見するだけになった。
  • 和士開は皇后とも遊戯し、河南王孝瑜はこれを強く諫めた。また趙郡王叡についても警戒すべきと進言したため、叡と和士開はともに孝瑜を讒言した。
  • さらに孝瑜が宮中の女性と密通したことが露見し、庚申、皇帝は酒を無理に飲ませたうえで車中で毒殺した。諸王は宮中で声も立てられず、ただ河間王孝琬だけが大いに泣いて退出した。

秋冬:各地の動き

  • 七月戊辰、北周皇帝は原州に幸した。
  • 八月辛丑、北斉は三台宮を大興聖寺と改めた。
  • 九月壬戌、陳の広州刺史・陽山穆公欧陽頠が死去し、子の欧陽紇が爵位と地位を継いだ。
  • 甲子、北周皇帝は原州から隴に登った。
  • 周迪は再び東興嶺を越えて侵攻した。
  • 辛未、陳は護軍章昭達に兵を与えて討伐させた。

北周と突厥の連携、対斉遠征決定

  • 北周は突厥の木杆可汗と連携して北斉を討つため、その娘を皇后に迎える約束をして楊荐・王慶らを派遣した。
  • これを知った北斉もまた突厥に厚い贈物をして婚姻を求めたため、木杆可汗は一時、楊荐らを捕えて斉へ送ろうとした。
  • 楊荐は、かつて周の太祖が蠕蠕の降人をすべて突厥へ渡して恩を施したことを挙げ、今それを忘れては義に反すると強く責めた。木杆可汗はこれを受け入れ、東の賊を平らげたのちに娘を送ると約した。
  • 北周の公卿たちは十万の兵を求めたが、楊忠だけは「万騎で足りる」と主張した。
  • 戊子、北周は楊忠に歩騎一万を授けて北道から、達奚武に歩騎三万を授けて南道から出させ、晋陽で会する計画とした。

冬十一月:章昭達の勝利

  • 辛酉、章昭達は周迪を大破した。周迪は身を隠して山谷へ逃れ、民衆が匿ったため、誅殺を加えても居所を明かす者はなかった。

十二月:周主帰還、陳宝応討伐へ

  • 辛卯、北周皇帝は長安に帰還した。
  • 丙申、陳は大赦した。
  • 章昭達はさらに嶺を越えて建安へ進み、陳宝応討伐に向かった。余孝頃には会稽・東陽・臨海・永嘉の兵を率い、東道から合流するよう命じた。

始興昭烈王への天子礼祭祀

  • この年、陳は初めて始興昭烈王を建康で天子の礼をもって祭った。

年末:北周・突厥軍の晋陽進攻開始

  • 北周の楊忠は北斉の二十余城を奪い、陘嶺の険阻を守る斉軍を破った。
  • 突厥では木杆・地頭・歩離の三可汗が十万騎を率いて合流した。
  • 己丑、恒州から三道に分かれて進軍したが、この時大雪が数十日続き、南北千余里にわたり雪が深く積もっていた。
  • 北斉皇帝は鄴から晋陽へ急行し、戊午に到着した。
  • 斛律光は歩兵三万で平陽に駐屯し、達奚武を防いだ。
  • 己未、周軍と突厥軍は晋陽に迫った。皇帝はその強勢を恐れ、戎装して宮人を伴い東へ避難しようとしたが、趙郡王叡と河間王孝琬が馬前で諫めた。皇帝は叡に軍の節度を委ね、并州刺史段韶に総指揮を取らせた。