資治通鑑梁紀二十一 世祖孝元皇帝下 承聖 二年 553年
春正月 梁・北齊・西魏の諸動向
- 王僧辯は建康を発し、朝廷の臨時命令によって陳霸先を揚州の後任鎮守にあてた。
- 北齊では山胡が離石を包囲したが、斉主が討伐に向かう前に撤退したため、三堆まで巡行し、大規模な狩猟を行って帰還した。王褒は左僕射に任じられた。三堆は永安郡平寇県に属した地で、のち隋代には雁門郡崞県の管内にあったとされる。
- 北齊は新たに「常平五銖」の銭を鋳造した。これは文宣帝期に魏の永安五銖を改めて作られたもので、重さは銘文どおり五銖、鋳造も精巧で価値が高かったという。
二月 湘州の陸納と李洪雅
- 李洪雅は力尽きて空雲城をもって陸納に降ったが、陸納は彼を捕えて丁道貴を殺したうえで、李洪雅を擁立して大将軍と号させた。平肩輿に乗せ、鼓吹を従え、数千の兵で左右を固めて主君のように扱った。
- 陸納は、かつて宝誌の詩讖に「十八子」が現れるとされていたことから、李氏が天下を取る前兆だと信じていた。胡三省は、この讖がもとは梁の蕭氏滅亡と李氏興起をほのめかすものとして流布していたと説明している。
二月‐三月 西魏・柔然・突厥
- 西魏では太師の宇文泰が丞相・大行台の称をやめた。王雄が東梁州に至ると、黄衆宝が降伏したため、宇文泰はこれを赦し、その有力者たちを雍州へ移した。
- 北齊は、かつて逃れてきていた柔然可汗鉄伐の父・登注と兄・庫提を本国へ送り返した。しかし鉄伐はまもなく契丹に殺され、国人は登注を立てたが、登注も阿富提に殺され、さらに庫提が立てられた。
- 突厥では伊利可汗が死に、その子科羅が乙息記可汗として即位した。さらに突厥は西魏へ馬五万を献じた。
- 柔然の別部では、阿那瓌の叔父・鄧叔子を可汗に立てる者もあり、柔然内部が分裂していたことがうかがえる。乙息記可汗は沃野北方の木頼山で鄧叔子を破ったが、その後死去し、子ではなく弟の俟斤が立って木杆可汗を称した。木杆可汗は容貌が異様で、剛勇かつ知略に富み、軍事に長けて近隣諸国に恐れられた。
三月 武陵王紀への対処と西魏の蜀侵攻
- 江陵の帝は、武陵王紀が東下してくると聞き、方士に紀の姿を板に描かせ、自ら手足に釘を打って厭勝を行った。また侯景の捕虜を使って紀に報復しようとした。
- もともと武陵王紀の挙兵は太子円照の進言によるもので、円照は巴東にあって使者を留め、侯景がまだ平定されていないと偽って紀に東進を促していた。帝はこれを深く恐れ、西魏に対して「斉の子糾の例のように、身内の反乱であるから討ってほしい」と求めた。
- 宇文泰は、蜀を取れば梁を制する大きな機会だとして、諸将の反対を押し切り、甥の尉遅迥に六軍一万二千人・騎馬一万を授け、散関から蜀へ進撃させた。尉遅迥は、蜀は長年中原から隔絶して油断しているので、精鋭騎兵で急襲すれば必ず勝てると説いた。
三月‐五月 王僧辯と陸納の戦い
- 陸納は部将の呉蔵・潘烏黒・李賢明らに車輪の要地を押さえさせた。王僧辯は巴陵に着き、宜豊侯循は総督権を譲ろうとしたが、僧辯は受けなかったため、朝廷は両者を東西都督に任じた。
- 四月、王僧辯は車輪に進軍した。陸納は湘江両岸に城を築いて守り、兵も歴戦の者が多かったため、僧辯は軽々しく攻めず、次第に連城を築いて圧迫した。陸納はこれを怯えと見て備えを怠った。
- 五月甲子、王僧辯は水陸から総攻撃し、自ら旗鼓を執って指揮し、宜豊侯循も矢石を受けながら戦って二城を落とした。陸納は敗れて長沙に逃げ込み、翌日には僧辯がこれを包囲した。
- 包囲中、呉蔵と李賢明が精鋭千人で城門を開いて突撃し、王僧辯本陣に迫った。護衛はわずか百余人で、杜崱・杜龕らが奮戦し、裴之横も側面から攻めた。王僧辯は胡床に座したまま動揺せず、ついに敵を撃退し、李賢明は戦死、呉蔵だけが城内へ逃げ戻った。
蜀中の離反と尉遅迥の進軍
- 武陵王紀が巴郡に達したころ、西魏軍来襲を知って前梁州刺史の譙淹を帰軍させ、蜀の救援に向かわせた。
- しかし、楊乾運は希望した梁州刺史になれず潼州刺史とされ、楊灋琛も黎州刺史になれず沙州に回されたため、ともに不満を抱いていた。乾運の甥の楊略は、いま兄弟で争うのは自滅の道であり、西魏に通じれば功名も保てると説き、乾運はこれを受け入れた。
- 楊乾運は楊略を剣閣に、女婿の楽広を安州に置き、ともに密かに西魏へ通じた。宇文泰は楊乾運に鉄券を与え、驃騎大将軍・開府儀同三司・梁州刺史を授けた。
- 尉遅迥の前軍の侯呂陵始が剣閣に至ると、楊略は退いて楽広の城へ移り、楽広はこれに応じて安州を開いた。尉遅迥は涪水に着くと、楊乾運も州をあげて降伏したため、守備を残して成都へ向かった。
- 当時の成都には一万人にも満たない兵しかおらず、兵糧も乏しかった。永豊侯撝は城を閉じて守り、尉遅迥はこれを包囲した。譙淹は景欣・趙抜扈らを援軍に向かわせたが、原珍らに撃破された。
武陵王紀の東進と内部崩壊
- 武陵王紀は巴東に着いて初めて侯景平定を知り、太子円照を責めた。円照は、侯景は平らいでも江陵は従っていないと弁明し、紀もすでに帝号を称していたため、今さら臣下に戻れないとして東進を続けた。
- だが将兵は日夜帰還を望み、江州刺史王開業は蜀へ戻って根本を固めるべきだと主張した。諸将も賛成したが、円照と劉孝勝が強く反対し、紀は諫める者を死罪にするとまで言って進軍を止めなかった。
- 西陵まで来ると軍勢は非常に盛大で、船が川を覆うほどだった。これに対して陸法和は峡口両岸に城を築き、石を沈め鉄鎖を張って川を遮断した。帝は獄中の任約を赦して晋安王司馬とし、劉棻とともに法和の援助に向かわせた。これは任約がかつて赤亭の戦いで法和に助けられた旧恩があったためである。
六月 長沙平定と王琳の復起用
- 王僧辯軍には余孝頃も一万人を率いて合流した。
- 一方、豫章太守の観寧侯永は若く判断力に乏しく、側近の武蛮奴が実権を握っていた。軍主文重はこれを憎み、永が陸納討伐に向かった宮亭湖で武蛮奴を殺害したため軍が潰れ、永は江陵へ逃げ、文重は開建侯蕃のもとへ走ったが、蕃に殺されて兵を奪われた。
- 六月、武陵王紀は連城を築いて鉄鎖を断とうとし、陸法和の救援要請が相次いだため、帝は謝答仁も獄から出して歩兵校尉とし、法和に配属した。また王琳を長沙へ送り、陸納の説得に当たらせた。
- 王琳が長沙に到着すると、陸納の部下たちはみな涙して拝し、もし朝廷が王琳を赦すなら城内に入れてほしいと願った。王僧辯はいったん拒否したが、帝は長沙の兵を峡口に引き抜いて陸納を逃がすことを恐れ、ふたたび王琳を送り込むことを許した。王琳入城後、陸納はついに降伏し、湘州は平定された。
- 帝は王琳の官爵を復し、西方の峡口救援に向かわせた。
七月 武陵王紀の最期
- 紀は将軍侯叡に七千を授けて陸法和と対峙させた。帝は紀にたびたび書を送り、蜀に帰って一方を専制することを認めるとまで譲歩したが、紀は家人同士の礼で返書し、君臣の分を認めなかった。
- 湘州平定後、諸軍は西上した。帝はさらに、年長の兄として乱を平めた以上、政権は自然に自分へ帰すべきだ、さもなくば兄弟の情も断たれると情理を尽くして説いた。しかし紀は長く停軍して不利が続き、しかも西魏軍が成都深くまで侵入した知らせを聞いて憂悶し、度支尚書楽奉業を和議の使者に送った。
- 楽奉業は、蜀軍は兵糧不足で死者も多く、滅亡は近いと帝に密奏したため、帝は和議を認めなかった。紀は黄金・白銀・錦綺を大量に用意しながら兵に与えず、陳智祖が散じて勇士を募るよう求めても従わなかった。智祖は泣いて死に、紀は病と称して人にも会わなくなり、軍は解体していった。
- 七月、巴東の住民符昇らが峡口の城主公孫晃を斬って王琳に降り、謝答仁・任約も侯叡を攻めて三塁を抜いた。両岸十四城が次々に降伏し、紀は退路を失った。
- 紀はやむなく流れに任せて東へ下ったが、樊猛の追撃を受け、大敗して八千余人が水死した。樊猛は密かに「生け捕りでは功にならぬ」と命じられており、ついに舟中で逃げ回る紀を斬り、その幼子円満も殺した。陸法和は太子円照ら兄弟三人を捕えて江陵へ送った。
- 帝は紀を宗籍から除き、「饕餮氏」の姓を与えて辱めた。円照・江安侯円正らも獄に入れ、断食させた末に死なせた。遠近の人はこれを哀れんだ。
八月 蜀の陥落
- 王僧辯は江陵へ帰還し、諸軍に持ち場へ戻るよう命が下った。
- 西魏の尉遅迥は成都を五十日包囲し、永豊侯撝が何度か出撃して敗れた後に降伏を申し出ると、諸将が拒否を主張する中でこれを受け入れた。遠方の人心を安んじるには受降がよいと判断したためである。
- 八月戊戌、撝と宜都王円粛は文武官を率いて軍門で降伏し、尉遅迥は礼をもって接し、益州城北で盟を結んだ。吏民には旧業への復帰を許し、奴婢と貯蔵物だけを軍賞とし、兵士の私的掠奪を禁じた。
- 西魏は撝と円粛に開府儀同三司を与え、尉遅迥を大都督・益州刺史として益潼など十二州を統轄させた。胡三省は、尉遅迥の処置が蜀人の心をつなぎ止めたと評している。
建康遷都論争
- 帝は建康へ還る詔を出そうとしたが、胡僧祐・黄羅漢・宗懔・劉㲄らは、建業の王気はすでに尽き、北敵と一江を隔てる危地であり、しかも荊州では古くから「洲が百になれば天子が出る」と伝えられていて、いま枝江の洲数が百に達したのは帝の即位に符合するとして、江陵在留を勧めた。
- これに対し周弘正と王褒は、百姓はいまだ帝の建康入城を見ておらず、諸王の一人と思っている、四海の望みに従うべきだと述べた。群臣の多くは荊州出身で、周弘正らを「東人」と呼んで牽制したが、弘正は「東人が東を勧めるのが悪いなら、西人が西を欲するのは良策になるのか」と面と向かって論破した。
- 後堂に五百人を集めた議論でも、左袒して建康帰還に賛成する者が過半を占めた。朱買臣も、建康こそ旧都であり山陵の所在、荊州は辺境の重鎮にすぎず王者の都ではないと説いた。
- しかし帝は、建康が荒廃している一方、江陵は繁栄していると見て、占いで不吉と出ても移らず、最終的に江陵残留を決した。胡三省は、帝が安住を好み卜兆にも背いたことが亡国の禍につながったとしている。
秋九月‐冬 北齊の南侵準備と梁の対応
- 王琳を衡州刺史とし、九月には王僧辯を建康鎮守に戻し、陳霸先も京口へ帰した。
- 陸法和は郢州刺史となり、刑罰よりも仏法や西域の幻術で部曲数千人を教化し、皆これを弟子と呼んだ。
- 契丹が北齊辺境を侵し、斉主は北巡して契丹を大破した。自ら露髻・肉袒で昼夜兼行し、千里を超えて山嶺を越え、兵に先んじて肉と水だけで進み、壮気はいっそう盛んだったという。青山方面でも潘相楽が別部を破った。
- 他方、北齊は郭元建に合肥で水軍二万余を整えさせ、湘潭侯退や邢景遠・歩大汗薩らを続けて派遣し、建康奇襲を図った。陳霸先が建康でこれを聞いて上奏すると、帝は王僧辯を姑孰に置いて防がせた。
閏月 東関の戦い
- 王僧辯は東関に侯瑱・張彪・裴之横らの砦を築いて北齊軍を待ち受けた。
- 閏月丁丑、侯瑱が郭元建と東関で戦い、北齊軍を大破した。溺死者は万単位に達し、湘潭侯退はまたも鄴へ逃げ帰った。王僧辯は建康へ還った。
開建侯蕃・徐仏受の争い
- 吳州刺史の開建侯蕃は兵力を頼んで強勢となり、貢献も朝廷へ納めなかった。帝は密かに部将徐仏受に討伐を命じた。
- 徐仏受は訴人を装った配下に蕃を捕えさせ、帝は仏受を建安太守、王質を吳州刺史とした。だが王質が鄱陽に着くと、徐仏受はこれを金城に閉じ込め、自分は羅城を拠点として舟艦・甲兵を整備した。
- 蕃の旧部数千人が徐仏受を攻撃すると、徐仏受は南豫州へ逃げたが、侯瑱に殺された。ようやく王質が州政を執ることができた。
十一月‐十二月 柔然・突厥と魏梁関係
- 十一月、王褒は左僕射に、張綰は右僕射に昇った。
- 突厥が再び柔然を攻めると、柔然は国をあげて北齊へ逃れた。斉主は北征して柔然可汗庫提を廃し、阿那瓌の子菴羅辰を立てて馬邑川に置き、食糧や絹を支給した。さらに朔州で突厥を追い、降伏を許して帰還した。これ以後、突厥は朝貢を続けた。
- 西魏では尚書元烈が宇文泰暗殺を謀って露見し、殺された。
- 丙寅、帝は王琛を西魏へ使わせたが、宇文泰はひそかに江陵攻略の志を抱いていた。梁王詧はその意向を知って、いっそう貢献を厚くした。
十二月 淮南の動揺
- 北齊領の宿預では東方白額が城をもって降り、江東西の州郡でもこれに呼応して兵を起こす者が相次いだ。胡三省は、江淮の民衆が北齊の苛政に苦しみ、江南への帰属を望んだ結果だとみている。