資治通鑑梁紀二十一 世祖孝元皇帝下 承聖 三年 554年

春正月 北齊の山胡討伐

  • 正月、北齊の斉主は離石から山胡を討ち、斛律金と常山王演の両道から挟撃して大破した。男子は十三歳以上を皆殺しにし、女子と幼弱者は軍に分け与えた。石楼の険地まで平定し、遠近の山胡はみな震え服した。石楼は河水沿いの険地で、魏代以来容易に到達できない場所とされていた。
  • この頃から斉主の威虐はいっそう露骨になり、戦傷した都督を救えなかった什長の路暉礼に対し、内臓をえぐって九人の部下に食わせるという残酷な処分を行った。これが暴威政治の始まりと記される。

梁の北伐と西魏の制度改革

  • 陳霸先は丹徒から江を渡って広陵を包囲し、秦州刺史厳超達は秦郡から進んで涇州を攻めた。侯瑱・張彪も石梁に出てこれを支援し、杜僧明は三千人を率いて東方白額を助けた。
  • 西魏では宇文泰が九命の官制を整え、内外の官爵を整理し、流外品を九秩に改めた。胡三省は、『周礼』にならった広範な制度改革として、各官の命数や禄秩の細目まで詳しく注している。

西魏での帝廃立

  • 西魏主は元烈処刑の件から宇文泰に怨みを抱き、ひそかに誅殺を謀ったが、臨淮王育・広平王賛が涙ながらに諫めても聞かず、しかも禁兵は宇文泰の娘婿である李基・李暉・于翼らが握っていたため、計画は漏れた。
  • 宇文泰は西魏主を廃して雍州に置き、その弟の斉王廓を立てた。去年をもって元年とし、さらに拓跋氏への復姓を命じ、以前に単字化していた九十九姓も旧姓に戻させた。
  • 加えて、魏初の三十六大姓・九十九姓になぞらえて、功臣やその兵にも新たな姓を与えた。胡三省は、多くの中原士族が鮮卑系の姓に改賜された具体例を引いて説明している。

三月 巴郡回復と梁朝の人事

  • 長沙王韶が巴郡を奪回した。西魏は成都平定直後で東方まで手が回らず、比較的容易に取れたとされる。
  • 甲辰、王僧辯は太尉・車騎大将軍に進んだ。
  • 丁未、北齊将王球が宿預を攻めたが、杜僧明が出撃して大破し、王球は彭城へ退いた。

陸法和の司徒任命と西魏との外交悪化

  • 郢州刺史陸法和が上表して自ら司徒を称したため、帝は怪しんだが、王褒は法和には道術があり先知の可能性があると述べた。そこで帝は自ら出向いて司徒に任じた。
  • 己酉、西魏の宇文仁恕が使節として来たが、同時に到着した北齊使節より厚遇されなかった。仁恕が帰ってこのことを宇文泰に伝えると、帝はさらに旧図にもとづく境界確定を求め、その言辞もやや不遜であったため、宇文泰は「天に見放された者を誰が興せようか」と評した。
  • 荊州刺史長孫儉はたびたび梁攻めを進言しており、宇文泰はこれを長安に呼び寄せて方略を問い、再び鎮所へ帰して密かに備えを進めさせた。馬伯符も秘密裏に江陵へ警告したが、帝は信用しなかった。

北齊と柔然・『魏書』論争

  • 柔然可汗菴羅辰が北齊に叛くと、斉主は自ら出撃して大破し、菴羅辰父子は北へ逃れた。
  • また安定王賀抜仁が献じた馬が駿足でないとして、斉主はその髪を抜いて庶人とし、晋陽で炭運びをさせた。
  • 中書令魏収は『魏書』を完成させたが、愛憎で褒貶を決めたと強く非難され、盧潜・盧斐・李庶・王松年らが「史が公正でない」と批判した。魏収は逆に強宗に怨まれて刺客に殺される恐れがあると訴え、斉主は怒って批判者を処罰し、盧斐・李庶は獄死した。
  • 当時の人々はなお魏収の史書を認めず、「穢史」と呼んだ。

夏四月 北齊の柔然撃退と梁の対魏使節

  • 柔然が肆州に侵入すると、斉主は晋陽から討伐に向かった。黄瓜堆で宿営中に柔然別部数万騎の急襲を受けても動じず、平明に起きて兵を指揮し、包囲を破って追撃、大きな戦果を挙げた。
  • 高阿那肱にはわずかな兵しか与えなかったが、これでも柔然を大破し、菴羅辰はかろうじて逃げ延びた。胡三省は、厳威の下ではこの人物も死力を尽くしたが、のちの後主の濫恩の下ではそうではなかったと対比している。
  • 丙寅、帝は庾信らを西魏へ派遣した。
  • 癸酉、陳霸先は司空に任じられた。
  • 丁未、斉主は再度柔然を自ら討って大破した。
  • 庚戌、西魏では宇文泰が廃帝を毒殺した。

五月 西魏の巴・信州方面進出

  • 直州の楽熾、洋州の黄国らが反乱を起こし、田弘・賀若敦では平定できなかったため、李遷哲が加わって鎮圧した。
  • 李遷哲はそのまま賀若敦とともに南へ出て巴州を巡行し、巴州刺史牟安民を降した。巴・濮の民もみな西魏に付いた。
  • さらに蛮酋の向五子王が白帝を陥したため、李遷哲はこれを破って信州刺史となり白帝に鎮した。州には蓄えがなく、彼は兵とともに葛根を掘って食べ、珍味があればまず分け与えたため、軍士は感悦した。以後、叛蛮をたびたび破り、諸蛮は震えて糧食を送るようになり、子弟を人質として差し出したので、州境は安定した。
  • 柔然の乙旃達官が広武に侵入したが、李弼がこれを破った。

五月 王琳の広州転出と庾季才の警告

  • 広州刺史の曲江侯勃は、もともと陳霸先に推されて任じられた人物で、帝の直授ではないことから不安を抱き、入朝を願い出た。帝は五月乙巳、王琳を広州刺史とし、勃を晋州刺史へ移した。
  • 帝が王琳を嶺南へ遠ざけようとしたのは、兵が強く衆望も厚いことを警戒したためである。王琳は親しい李膺に対し、自分は非望のない小人物であり、疑うならむしろ雍州刺史として武寧に置き、屯田して国を守らせるべきだと語ったが、李膺はその進言をしなかった。胡三省は、王琳は主君への忠節を持っていたのに、帝はそれを用いなかったと評している。
  • 散騎郎の庾季才は、去年八月の星変と今月の赤気を根拠に、建子の月に大軍が江陵へ入ると予言し、重臣を江陵に残して帝自身は建康へ帰るべきだと説いた。帝も天文を理解していたが、「禍福は天にあり、避けても益はない」と嘆くだけで取り合わなかった。

六月 北齊の反攻と梁北伐の失敗

  • 六月、北齊の歩大汗薩が四万を率いて涇州へ向かった。王僧辯は侯瑱・張彪に石梁から援軍を出させたが、二人は遅滞して進まなかった。
  • 尹令思は一万余で盱眙を襲おうとしたが、段韶が「梁は内紛があり、陳霸先らも見かけほど一体ではない」と読んでいたため、宿預包囲軍の一部だけを残し、自らは倍道で涇州へ向かった。途中で盱眙経由の奇襲を行うと、尹令思は風を望んで退き、段韶はさらに厳超達を破った。
  • 段韶はそのまま広陵へ転じたため、陳霸先は包囲を解いて退却し、杜僧明は丹徒へ、侯瑱・張彪は秦郡へ戻った。
  • 吳明徹は海西を十旬包囲したが、守将郎基は木で矢柄を、紙で羽を作って持ちこたえ、ついに攻略できず撤退した。
  • 柔然の残党は東へ移動しつつ南侵を図ったが、斉主が金川で邀撃し、さらに営州刺史王峻が伏兵で名王数十人を捕えた。鄧至羌の檐□は国を失って西魏へ逃れ、宇文導がこれを送り返した。

秋七月 東方白額の死

  • 段韶が宿預へ戻り、弁士を使って東方白額を説得したところ、白額は門を開いて盟約を請うた。段韶はこれを捕えて斬り、宿預の反乱を鎮めた。
  • 七月庚戌、斉主は鄴へ帰還した。
  • 西魏の宇文泰は西巡して原州に至った。

八月‐九月 北齊の内政と辺境築城

  • 八月、北齊では清河王岳を太保、尉粲を司徒、侯莫陳相を司空、平陽王淹を録尚書事、常山王演を尚書令、上党王渙を左僕射とした。
  • 九月、斉主は晋陽へ赴いた。
  • かつて高隆之は斉主がまだ魏の権臣だったころ、しばしば侮辱し、禅譲にも反対したため、斉主はこれを深く怨んでいた。崔季舒が、高隆之は訴訟人を見るたびに皇帝より仁慈であるかのような態度を示していると讒言すると、斉主はまずこれを尚書省に禁錮し、さらに元旭との交際を口実に怒りを爆発させた。
  • 高隆之は壮士に殴打され、やがて路上で死んだ。その後も怒りがやまず、子ら二十人を斬り、遺体を漳水に投げ込み、さらに墓を暴いて死体を切り刻んで焼き捨てた。胡三省は、これを崔季舒がかつての流罪の恨みに報いたものと見る。
  • 同時に斉主は、常山王演・上党王渙・清河王岳・段韶らに洛陽西南で伐悪城・新城・厳城・河南城を築かせ、西魏軍を誘い出そうとしたが、相手は出てこなかった。

九月 西魏の漢中通路整備と梁の玄談

  • 西魏では崔猷に命じて漢中へ通じる山道を切り開かせた。胡三省は、「回車路」と伝える本は誤りで、本来は梁・漢への旧路を車が通れるよう広げた道だと考証している。
  • 帝は玄談を好み、この月、龍光殿で『老子』を講じた。

王琳の広州赴任と西魏軍南下

  • 曲江侯勃は始興へ移り、王琳は副将孫瑒を先行させて番禺を押さえさせた。
  • 乙巳、西魏は于謹・宇文護・楊忠に五万を授けて梁へ侵攻させた。

十月 西魏の江陵侵攻開始

  • 十月壬戌、西魏軍は長安を発した。長孫儉が于謹に蕭繹のとるべき策を問うと、于謹は、上策は兵威を漢沔に示してそのまま江を渡り丹陽を占めること、中策は外城の住民を子城に退かせて陴堞を固めること、下策は広い外郭にこもることだと言い、蕭繹は懦弱・多疑・寡断で、民も住居への執着が強いから必ず下策を採るだろうと見抜いた。
  • 癸亥、武寧太守宗均が敵来を告げたが、胡僧祐・黄羅漢は、梁と西魏は友好関係にあり不意の侵攻はないだろうと主張し、王琛も昨年の使節経験から「宇文泰の顔色を見ればそんなことはない」と言ったため、帝は再び王琛を西魏へ遣わした。
  • 丙寅、于謹は樊・鄧に至り、梁王詧も兵を率いて合流した。
  • 辛卯、帝は講義を中止して戒厳令を敷いたが、王琛は石梵まで行っても西魏軍を見ず、「先の心配は子どもの戯れだ」と書き送ったため、帝はまた疑いを深め、庚午には百官を武装させたうえでなお講義を再開した。
  • 辛未、帝は李膺を建康へ送り、王僧辯を大都督・荊州刺史として呼び戻し、陳霸先を揚州に移そうとした。王僧辯は侯瑱・程霊洗らを前軍、杜僧明・吳明徹らを後軍として派遣したが、胡三省は、勤王に馳せつけるべきなのに、ただ軍の部署を整えるだけで江陵陥落を招いた責任は重いと批判している。
  • 甲戌の夜、帝は鳳凰閣に登って客星が翼・軫に入ったことを嘆き、「今度は必ず敗れる」と言った。
  • 陸法和は郢州から漢口へ入り、江陵救援に向かおうとしたが、帝は「自力で破れる」と言ってこれを止めた。法和は州へ帰って城門を白土で塗り、喪服姿で葦席に座した。胡三省は、これを予知の奇跡と見るより、後人が法和を神秘化した話だろうと冷静に見ている。

十一月 江陵包囲

  • 十一月、帝は津陽門外で大閲兵を行ったが、北風と豪雨のため軽輦で宮へ戻った。
  • 癸未、西魏軍は漢水を渡り、于謹は宇文護・楊忠に精騎を率いさせて先行させ、江津を押さえて東への道を断った。甲申、宇文護は武寧を陥し、宗均を捕えた。
  • 帝は城外に木柵を六十余里めぐらし、胡僧祐に城東、張綰を副として守らせ、王褒に城西、元景亮を副として守らせた。太子にも城楼巡察を命じ、住民に木石運搬をさせた。
  • 魏軍は黄華を経て柵下に迫り、戊子には裴畿・裴機・朱買臣・謝答仁らが枇杷門から出撃して敵将胡文伐を討った。胡文伐は裴之高の子で、旧来の因縁もあった。
  • 帝は王琳を湘東刺史として召し、援軍を急がせた。
  • しかし丁酉、城内で火災が起きて数千家と城楼二十五が焼け、帝は焼け落ちた楼に臨んで敵軍の渡江を見て嘆いた。その夜から宮外の民家に宿り、のち祇洹寺へ移った。
  • 于謹は長囲を築き、内外の連絡を完全に断った。徐世譜・任約は馬頭に砦を築いて対岸から援護したが、実効は乏しかった。帝はなお巡城しつつ詩を口占し、群臣もこれに唱和した。王僧辯には、帛を裂いて「死を忍んで待っている、早く来てほしい」と書き送った。

十一月下旬 総攻撃と江陵陥落

  • 戊申、王褒・胡僧祐・朱買臣・謝答仁らが出撃したが敗れた。帝は天居寺・長沙寺へと移った。
  • 朱買臣は、宗懔・黄羅漢を斬って天下に謝すべきだと進言したが、帝は「もとは自分の意思であり、二人に罪はない」と答えた。
  • 王琳軍が長沙に達すると、裴政が間道から先行して江陵へ知らせようとしたが、百里洲で魏軍に捕えられた。梁王詧は、武帝の孫である自分に従えば子孫まで富貴にすると説いたが、裴政は表面上これに従うふりをして命をつなぎ、城下に連れて来られると「援兵は大至近い、各自奮励せよ」と叫んだため、監視の者に口を打たれた。詧は怒って処刑しようとしたが、蔡大業が「この人は民望がある、殺せば荊州は下らない」と諫めて助けた。
  • 各地からの徴兵はまだ到着せず、甲寅、西魏軍は百道から総攻撃を開始した。城中では戸ごとに楯を担いで応戦し、胡僧祐は自ら矢石に当たりながら昼夜戦を督励して魏軍を退けたが、ほどなく流れ矢に当たって戦死した。城内外は大いに動揺した。
  • 反乱者が西門を開いて魏軍を引き入れ、帝は太子・王褒・謝答仁・朱買臣とともに金城へ退いた。汝南王大封・晋熙王大円を于謹への人質として講和を求めた。
  • 城南は破られても城北諸軍はなお抵抗したが、日暮れに陥落を知って散った。裴畿・裴機・歴陽侯峻らは降伏し、于謹は胡文伐を殺した裴機と裴畿を処刑した。
  • 帝は東閣竹殿に入り、古今の図書十四万巻を焼かせ、「文武の道は今夜尽きた」と嘆いた。さらに王孝祀に降文を作らせた。謝答仁と朱買臣は、夜陰に乗じて突囲し任約のもとへ渡るべきだと説いたが、帝は乗馬を得意とせず、王褒も謝答仁を信用できないとして降伏を勧めた。
  • 謝答仁にはいったん城中大都督を命じ公主を配したが、王褒の反対で取り消され、謝答仁は血を吐いて去った。

帝の降伏と捕囚

  • 于謹が太子を人質に求めると、帝は王褒にこれを送らせた。于謹の子は王褒が善書であるのを利用し、紙筆を与えると、王褒は自らを「柱国常山公の家奴王褒」と書いた。胡三省は、こうした人物が帝のために良策を尽くすはずがないと皮肉っている。
  • ほどなく裴政が門を犯して出ると、帝は羽儀文物を脱ぎ捨て、白馬に素衣で東門を出た。門扉を剣で打ち、「蕭世誠もついにここまで来たか」と嘆いた。
  • 魏兵は堑を越えて馬の手綱を引き、白馬寺北で駿馬を奪って駄馬に替え、屈強な胡人に背を押さえさせて連行した。梁王詧は鉄騎で帝を自陣に押し込み、幕舎の下に閉じ込めて厳しく辱めた。
  • 翌日、長孫儉が金城を接収した際、帝は「埋蔵金を贈る」と偽って城内に入れてもらい、そこで詧から受けた辱めの様子だけを訴えた。「天子が自分で黄金を埋めるはずがない」と述べたという。

江陵陥落後の惨状

  • 帝はふだん政治に厳格で、獄中の死囚数千人を戦士として用いる提案も退け、みな棍棒で殺すよう命じていた。だがその処分が終わらないうちに城は陥ちた。
  • 殷不害は別所で戦っていて母と離別し、氷雪の中、凍死者で埋まった溝を一つ一つ見て七日間探し続け、ようやく母の遺体を見つけた。胡三省はその孝を特筆している。

十二月 帝の殺害

  • 十二月丙辰、徐世譜と任約は巴陵へ退いた。
  • 于謹は帝に王僧辯を招く書を出させようとしたが、帝は「自分が自由でない以上、王僧辯も自分の思いどおりにはならない」と拒んだ。
  • また宮人の王氏・茍氏と幼子犀首を長孫儉に求め、返してもらった。人に「なぜ書を焼いたのか」と問われると、「万巻を読んでも今日の有様だ。だから焼いたのだ」と答えた。
  • 庚申、斉主は達速嶺まで北巡し、山川の険要を視察して長城築造を考えた。
  • 辛未、帝は西魏によって殺された。梁王詧は尚書傅凖に監刑させ、土嚢で圧殺したうえで、布で遺体を包み、蒲席に納め白茅で束ねて津陽門外に葬った。愍懐太子元良・始安王方略・桂陽王大成らも殺された。

世祖の人物評

  • 世祖は読書を好み、昼夜左右に読ませて途切れさせず、熟睡中でも巻を手放さず、誤読やごまかしがあるとすぐ目覚めた。文章は筆を執ればただちに成り、「文士には余裕で勝るが、武夫には恥じる」と自ら語ったという。論者は、この自己評価は当たっているとした。

梁王詧の即位と江陵の実態

  • 西魏は梁王詧を梁主に立て、荊州周辺の東西三百里ばかりの土地を与えたが、雍州は取り上げた。詧は江陵東城に住み、西魏は西城に防主と駐軍を置いて、表向きは守衛、実際には監視とした。胡三省は、これを「虢を滅ぼして虞を取る」たぐいの策だと評している。
  • 王悦が江陵留守に置かれ、于謹は府庫の宝物、宋代の渾天儀、梁の銅製日時計、大玉、法物をことごとく奪い、王公以下を捕虜とし、さらに男女数万を奴婢として長安へ連れ去った。幼弱な者は多くが殺され、助かった家は三百余戸にすぎず、人馬に踏まれ凍死した者も多数だった。

尹徳毅の献策と詧の後悔

  • 江陵攻略中、梁王詧の将尹徳毅は、魏軍の残虐は人々を深く恨ませるので、むしろ于謹らを宴席で油断させて誅殺し、各営を一斉に襲えば江陵百姓を収め、王僧辯らも手紙一本で招け、建康に渡って皇位にもつけると進言した。
  • しかし詧は、魏は自分を厚遇しており、ここで裏切れば人の残飯も食えぬような不義だとして拒んだ。
  • その後、城中の老若は捕虜とされ、襄陽まで失ってから、詧は「尹徳毅の言を用いなかったのが悔やまれる」と嘆いた。

江東の新体制と西魏の論功

  • 王僧辯・陳霸先らは、江州刺史の晋安王方智を奉じて太宰承制とした。
  • 王褒・王克・劉㲄・宗懔・殷不害・沈烱らは長安に送られたが、宇文泰は厚遇した。
  • 宇文泰は于謹の邸に自ら赴いて大いに宴労し、奴婢千口、梁の宝物、雅楽一部を与え、新野公にも別封した。于謹は久しく重任にあり功も立てたので、もはや閑地に退きたいとして乗馬や鎧を献じてその意を示したが、宇文泰はまだ大敵の北齊が残るとして許さなかった。

年末の西魏人事

  • この年、西魏の秦州刺史宇文導が死去した。
  • また益州刺史尉遅迥にはさらに六州が加増され、前の十二州と合わせて十八州を統轄し、剣閣以南では承制による封拝・黜陟を許された。尉遅迥は賞罰を明らかにし、威恩を布いて新たな領民を安撫し、まだ服していない勢力にも経略を進めたため、華夷ともにこれに心服した。