資治通鑑梁紀二十 世祖孝元皇帝上 承聖元年 一年 552年

正月 新帝体制の整備と北方情勢

  • 正月、湘東王は南平内史の王襃を吏部尚書に任じた。王襃は王儉の孫である。
  • 北斉はたびたび侯景の領域に侵入しており、甲戌、侯景は郭元建を歩軍で小峴へ、侯子鑒を舟師で濡須へ向かわせた。己卯には合肥まで到達したが、斉軍は籠城して戦わず、侯景軍は引き返した。
  • 丙申、北斉の君主は庫莫奚を討って大勝し、多くの捕虜と家畜を得た。
  • 唐邕は軍務・兵站・兵力・器械の実情を細かく把握し、文簿なしで将兵の名を唱えるほどの能力を示し、君主から非常に重んじられた。
  • 西魏では王雄が上津を奪い、魏興・東梁州刺史の李遷哲は敗れて降った。
  • 突厥の土門は柔然を大破し、頭兵可汗を自殺に追い込んだ。柔然の一族は北斉へ逃れ、残党は別の王を立てた。
  • 土門は自ら伊利可汗と号し、妻を可賀敦、子弟を特勒、部将を設と称した。

二月 東征軍の総進撃

  • 湘東王は王僧辯らに命じて侯景討伐の東征を開始した。
  • 二月庚子、諸軍は尋陽を発し、艦船は数百里にわたって連なった。
  • 陳霸先は甲士三万・舟艦二千で南江から湓口へ出て、白茅灣で王僧辯と合流した。二人は壇を築いて盟を結び、盟文を読み上げて涙しながら奮起を誓った。
  • 癸卯、王僧辯は侯瑱に命じて南陵・鵲頭の二戍を急襲し、これを奪わせた。
  • 戊申、王僧辯らは大雷に進み、ついで鵲頭からさらに進軍した。
  • 戊午、侯子鑒は戦鳥まで戻ったが、西軍が突然迫ると驚いて淮南へ逃げた。

東陽戦線の崩壊

  • 侯景配下の謝答仁は東陽の劉神茂を攻めていた。程靈洗や張彪は救援しようとしたが、神茂は功を独占したがってこれを許さなかった。
  • 神茂は平地の下淮に布陣したため、四面から攻められる危険があった。七里瀬に拠るべきだという進言も退けた。
  • さらに神茂の麾下の偏将・裨将には北人が多く、神茂と心を一つにしていなかった。王曅・酈通が外営ごと謝答仁に降り、劉歸義・尹思合も城を棄てて逃亡した。
  • 辛未、劉神茂もついに降伏し、建康へ送られた。

三月 姑孰決戦

  • 癸酉、王僧辯らは蕪湖に到着し、侯景の守将張黒は城を捨てて走った。
  • 侯景は大いに恐れ、湘東王繹と王僧辯への罪を赦すという詔まで出したが、人々はこれを笑った。
  • 侯子鑒は姑孰南洲に拠って西軍を防ぎ、侯景は史安和ら二千を送って援軍とした。
  • 三月己巳朔、侯景はみずから姑孰へ行くとしつつ、侯子鑒には「西軍は水戦に巧みだから争うな。岸に営を結び、船を浦へ引き入れて待て」と命じた。前年の任約敗北を教訓にしていたのである。
  • 侯子鑒は舟を捨てて上陸し、陣営を閉ざして出なかった。王僧辯らは蕪湖に十余日とどまったため、侯景側は西軍が退くと誤解した。
  • 侯景は再び水戦準備を命じ、丁丑、王僧辯が姑孰へ到着すると、侯子鑒は歩騎一万余を率いて洲を渡って挑戦し、さらに鵃䑠千艘に兵を乗せて攻めかかった。
  • 王僧辯は小船を退かせ、大艦を両岸に並べて待ち構えた。侯子鑒軍は敵水軍が退くと思って争って追い出たが、大艦が帰路を断って総攻撃し、中江で大敗した。
  • 数千が溺死し、侯子鑒は辛うじて逃れ、建康へ帰って東府に立てこもった。
  • 王僧辯は莊丘慧達を姑孰に残し、前進した。歴陽の守備隊は迎え降った。
  • 侯景は侯子鑒敗報を聞くと、衾をかぶって長く臥し、「乃公を誤って殺した」と嘆いた。

三月下旬 建康包囲へ

  • 庚辰、王僧辯は諸軍を督して張公洲に至り、辛巳には潮に乗って淮水へ入り、禪靈寺前まで進んだ。
  • 侯景は石頭津主の張賓に命じ、淮水中へ船を並べて石で沈め、淮口を塞がせたうえ、石頭から朱雀街まで十余里に楼堞の連なる防衛線を築いた。
  • 王僧辯が陳霸先に策を問うと、霸先は、かつて柳仲禮らが隔水して座視し、韋粲を救えず敗れた前例を引き、今回は必ず北岸へ渡って石頭を包囲すべきだと主張した。
  • 壬午、陳霸先は石頭西の落星山に柵を築き、諸軍も連八城に陣して石頭西北へ通じる形を取った。
  • 侯景は西州への道が断たれるのを恐れ、自ら侯子鑒らを率いて石頭東北に五城を築き、大路を遮った。
  • 乙酉、侯景は湘東王の世子方諸を殺した。
  • 劉神茂も建康に到着すると、丙戌、大きな断ち切り機で足先から少しずつ切り刻まれて殺された。留異も内心では神茂に同調していたが、ひそかに侯景と通じていたため難を免れた。

四月初 石頭・西州の決戦

  • 丁亥、王僧辯は招提寺北へ進軍した。侯景は一万余と鉄騎八百余で西州西方に布陣した。
  • 陳霸先は、味方が多く敵が少ないのだから、敵兵力を分散させて弱みを突くべきで、敵の精鋭を一点に集めさせてはならないとし、諸将を各所に配置した。
  • 侯景が王僧志の陣を突くと、僧志はやや後退した。陳霸先は徐度に弩兵二千を率いて敵後方を横撃させ、侯景軍を退かせた。
  • そこへ霸先・王琳・杜龕らが鉄騎で乗りかかり、王僧辯も大軍で続いたため、侯景軍は敗れて柵内に退いた。
  • 石頭城を守る盧暉略は北門を開いて降り、王僧辯はそこへ入った。
  • 侯景は陳霸先と死力を尽くして戦い、百余騎で槊を捨て刀だけを持って左右に突入したが、陳軍は崩れず、ついに大潰走となった。
  • 諸軍は西明門まで追撃した。
  • 侯景は宮門の下まで来たが、台城へ入ることができず、王偉を呼んで「お前が帝位を勧めたせいで今日の失敗になった」と責めた。王偉は答えられなかった。
  • 王偉はなおも車馬を止め、「宮中の衛士だけでも一戦はできる。叛臣が天子を見捨ててどこへ行くのか」と諫めたが、侯景は「今日こそ天が私を見放した」と嘆き、石闕を見上げて久しく立ち去った。
  • 侯景は江東で生まれた二子を袋に入れて鞍に掛け、房世貴ら百余騎と東へ逃げ、謝答仁を頼ろうとした。
  • 侯子鑒・王偉・陳慶は朱方へ逃げた。
  • 王僧辯は裴之横・杜龕を杜姥宅に置き、杜崱には台城を占拠させた。

建康収復後の混乱

  • 王僧辯は軍紀を厳しく保てず、兵士は石頭から東城に至るまで住民を掠奪し、男女は衣を剥がれ、泣き声が街に満ちた。
  • その夜、兵士の失火で太極殿・東西堂が焼け、宝器・羽儀・輦輅に至るまで失われた。
  • 戊子、王僧辯は侯瑱らに精鋭五千を与え、侯景追撃に向かわせた。
  • 王克・元羅ら台内の旧臣は道で王僧辯を迎えた。王僧辯は王克に対し、「夷狄の主に仕えて苦しかったであろう」と言ったが、王克は答えられなかった。
  • また璽綬の所在を問うと、王克はしばらくして「趙平原が持って行った」と述べた。
  • 王僧辯は王氏が百代にわたる名門でありながら一朝にして地に落ちたと嘆いた。
  • さらに太宗の柩を迎えて朝堂へ昇らせ、百官とともに礼に従って慟哭した。

四月 侯景追撃と棟兄弟の処断

  • 己丑、王僧辯らは江陵へ上表して改めて即位を勧め、あわせて都を建業へ迎えるよう求めた。しかし湘東王は、侯景という大敵は倒れたが、襄陽の岳陽王詧はなお帰服しておらず、天下太平を論ずる段階ではないと答えた。
  • 庚寅、南兗州刺史郭元建、秦郡戍主郭正買、陽平戍主魯伯和、行南徐州事郭子仲らはそろって降った。
  • かつて王僧辯が出征前に、侯景平定後に嗣君をどう扱うかを湘東王に問うたところ、湘東王は「宮中のことは兵威に任せよ」と答えていた。王僧辯は弑逆の汚名を避けたいとして、密かに朱買臣に処理を委ねるよう求めていた。
  • 侯景敗走後、豫章王棟とその弟の橋・樛は密室から相扶けて出てきた。杜崱がたまたま鎖を外してやると、弟たちは横死を免れたと喜んだが、棟だけは禍福は分からないと恐れていた。
  • 辛卯、彼らは朱買臣に遭い、船に乗せられて酒を飲まされたのち、そろって水中に沈められた。
  • 王僧辯は陳霸先を広陵へ向かわせ、郭元建らの降伏を受け入れさせた。また使者を送って慰撫したが、諸将の中には私的に馬や武器を要求する者もいた。
  • そこへ侯子鑒が江を渡って広陵に来て、郭元建らに「我らは梁の深い仇であり、いまさらその主に顔向けできぬ。北へ帰ろう」と説いたため、皆そろって北斉へ降った。
  • 王偉は侯子鑒と離れ、直瀆の戍主黄公喜に捕らえられて建康へ送られた。
  • 王僧辯は王偉を責めて、賊の宰相でありながら死節を立てず草むらに潜んで生き延びたのかと問うた。王偉は、もし漢帝が以前に自分の言を用いていれば、王僧辯に今日の栄光はなかったと皮肉を返した。
  • かつて辱められた虞隲は王偉の顔に唾し、王偉は「書も読まぬ者とは話せぬ」と言って相手を恥じさせた。
  • 王僧辯は徐嗣徽を朱方に置いた。

侯景の最期

  • 壬辰、侯景は晉陵で田遷の残兵を得て、住民を掠めながら東へ向かい、呉郡を目指した。
  • 四月、北斉は潘楽と郭元建に五万を授けて陽平を攻め落とした。
  • 王僧辯は陳霸先に京口を守らせた。
  • このころ武陵王紀は益州で大きな実力を持ち、内政・財政・軍備を整えていたため、侯景の乱を聞くと「七官文士に天下は救えぬ」と評した。内殿の柱に節と花が生じたのを瑞兆とみて、乙巳、自ら帝位に即き、元号を天正とした。皇太子に圓照を立て、諸子にも王爵を授け、永豐侯撝を征西大将軍・益州刺史・秦郡王に封じた。
  • 王僧略と徐怦は強く諫めたが聞き入れられず、徐怦は以前から出兵を勧めていたことで紀に恨まれており、讒言を機に一族ともども誅された。王僧略も殺された。撝はこれを見て、善人は国家の基礎であり、先にこれを殺しては滅亡を待つだけだと嘆いた。
  • 劉璠は紀に重用を勧められても宜豐侯循との節義を変えず、紀はついに彼を厚礼で帰した。循には益州刺史・隨郡王が与えられ、劉璠はその長史となった。
  • 一方、謝答仁は東陽征討から帰る途中、富陽で侯景敗走を知り、一万人を率いて北へ出て迎えようとしたが、錢塘の趙伯超がこれを阻んだ。
  • 侯景は嘉興に着くと趙伯超の離反を知り、呉へ退いた。
  • 己酉、侯瑱が松江で侯景に追いつき、侯景の二百艘・数千人を撃ち破った。彭雋・田遷・房世貴・蔡寿楽・王伯醜らが捕らえられ、侯瑱は彭雋の腹を裂いて腸を引き出し、そのまま斬った。
  • 侯景は腹心数十人と一艘で逃れ、二子を水に投げ捨てて海へ出た。
  • 羊侃の娘を側室にしていた侯景に厚遇されていたその兄・羊鵾は、王元禮・謝葳蕤と密かに侯景殺害を図った。侯景は海に出て蒙山を目指そうとしたが、羊鵾は海師に命じて進路を変えさせた。
  • 己卯、侯景が昼寝から覚めると胡豆洲付近で岸上の人から郭元建がなお広陵にいると聞き喜んだが、羊鵾は刀を抜いて、これまで十分に尽くしたのだから、今度は侯景の首で富貴を求めると言い放った。
  • 刃が一斉に下り、侯景は水へ飛び込もうとし、佩刀で舟底を裂いて沈もうともしたが、羊鵾に槊で刺し殺された。
  • 索超世も別船にいたところ、謝葳蕤に侯景の命と偽って呼び寄せられ、生け捕られた。
  • 南徐州刺史徐嗣徽は索超世を斬り、侯景の腹に塩を詰めて遺体を建康へ送った。王僧辯は首を江陵へ送り、手足を切って謝葳蕤に北斉へ届けさせた。建康では屍が市に曝され、人々は争ってその肉を食べ、骨までなくなった。溧陽公主もこれを食べた。
  • 北斉にいた侯景の五子については、世宗が長子を酷刑にし、幼子をみな去勢させ、のち顕祖は夢を理由に残りも煮殺した。
  • 趙伯超・謝答仁も侯瑱に降り、田遷らとともに建康へ送られた。王僧辯は房世貴を市で斬り、王偉・呂季略・周石珍・厳亶・趙伯超・伏知命は江陵へ送った。
  • 丁巳、湘東王は戒厳を解いた。
  • 乙丑、簡文帝は莊陵に葬られ、廟号を太宗とされた。

伝国璽と漢中の帰趨

  • 侯景は敗走の際、伝国璽を侍中趙思賢に持たせ、自分が死んだら江へ沈めよ、江東の者に再び渡すなと命じていた。
  • しかし思賢は京口から江を渡る途中で賊に遭い、従者が璽を草むらに捨てた。思賢は広陵で郭元建にそのことを告げ、郭元建は璽を取り戻して辛術に渡し、辛術はこれを鄴へ送った。
  • 甲申、北斉は楊愔を右僕射とし、太原公主を妻わせた。公主は魏孝静帝の后であった。
  • 楊乾運は劍北に到ると、西魏の達奚武に白馬で大敗し、捕虜の首を南鄭城下に並べられた。宜豐侯循は侮辱に怒って出撃したが、都督楊紹の伏兵に遭い大敗した。
  • 劉璠も帰路、白馬西で達奚武に捕らえられたが、宇文泰はその名を以前から聞いており旧友のように遇した。
  • 達奚武は南鄭がなかなか降らないため屠城を願ったが、劉璠が長安朝廷に出て必死に嘆願したので、宇文泰はついに許した。璠の忠義を見て「人に仕えるとはこうあるべきだ」と称えた。

五月六月 侯景平定後の人事と漢中喪失

  • 五月庚午、南平王恪らは再び即位を勧めたが、湘東王はなお受けず、豊城侯泰を山陵に遣わし、宗廟・社稷を修復させた。
  • 戊寅、侯景の首が江陵に届き、市で三日間梟され、煮て漆を塗って武庫に納められた。
  • 庚辰、南平王恪を揚州刺史に任じた。
  • 甲申、王僧辯を司徒・鎭衛将軍・長寧公に封じ、陳霸先を征虜将軍・開府儀同三司・長城県侯に封じた。
  • 乙酉、侯景のもとで尚書僕射だった王偉、左民尚書呂季略、少府周石珍、舎人厳亶らを市で誅し、趙伯超と伏知命は獄中で餓死させた。謝答仁だけは太宗に対して礼を失わなかったとして赦免された。
  • 王偉は獄中で長詩を献じ、湘東王はその才を惜しんで赦そうとしたが、かつて湘東王を一つ目だと嘲って梁の正統とはなり得ぬと書いた檄文があると告げられた。王は激怒し、舌を柱に釘づけ、腹を裂いて肉を切り取らせて殺した。胡三省は、父兄子弟の仇である王偉を才によって赦そうとした時点で、すでに刑の失当だと批判している。
  • 丙戌、北斉の斛斯昭は歴陽を攻め落とした。
  • 丁亥、湘東王は、王偉ら首悪はすでに死んだ以上、そのほかの旧貴族や勲臣で賊に脅されて生き延びた者は問わないと命じた。
  • 扶風出身の魯悉達は新蔡を守って乱世の流民を救い、晉熙など五郡をまとめていた。弟の魯広達が王僧辯に従って侯景討伐に参加した功により、悉達は北江州刺史に任じられた。
  • 北斉は曹文皎らを使者として湘東王に遣わし、湘東王は柳暉らを返礼使とし、侯景平定もあわせて告げた。西魏へも魏彦を送って勝報を伝えた。
  • 北斉は秦郡を攻めたが、辛術は、侯景の土地を取るならともかく、すでに王僧辯が守る地を争うのは義に反すると諫めた。しかも増水期であるから撤兵すべきだと主張したが、容れられなかった。
  • 陳霸先は徐度を助けにやって固守させ、王僧辯も杜崱を派遣した。霸先自身も歐陽から来て会戦し、士林で郭元建らを大破し、一万余を斬り千余を生け捕った。元建は残兵を収めて北へ逃れたが、まだ通好関係があったため深追いはしなかった。
  • 辛術はその後、吏部尚書に転じた。胡三省は、高澄・袁叔徳・楊愔ら歴代の選官の長短を挙げたうえで、辛術が最も偏り少なく、旧族・新進をともに用い、才実本位で人材を選んだと高く評価している。
  • 西魏では、達奚武の使者柳帶韋が南鄭城中の宜豐侯循を説得した。地の利も援軍も民衆もすでに頼めず、いまの梁朝は社稷に主なく、誰のための忠義かと迫ると、循は降伏した。
  • 賀蘭徳願は城を攻めて財貨を奪うよう求めたが、赫連達は、城が落ちるのは時間の問題であり、人民の命を惜しむべきだと主張した。達奚武もこれに従い、循の降伏を受け入れて男女二万を得て撤兵した。
  • こうして劍北一帯は西魏の支配に入った。
  • 六月丁未、北斉の君主は鄴へ戻り、乙卯には再び晋陽へ赴いた。
  • 庚寅、安南侯方矩を王太子に立てた。
  • 北斉は謝季卿を平侯景の賀使として送ってきた。
  • 衡州刺史王懷明が反乱したが、広州刺史蕭勃がこれを討って鎮圧した。

夏秋 江北政策と広陵包囲

  • 北斉の苛政と重税のため、江北の民は北斉への帰属を喜ばず、豪傑の中にはしばしば王僧辯に兵を請う者もいた。しかし王僧辯は北斉との友好を優先し、ことごとく応じなかった。
  • 七月、広陵に住む僑人の朱盛らが数千人を集め、北斉刺史温仲邕を襲撃しようとし、すでに外城を取ったとして陳霸先に救援を求めた。
  • 陳霸先は王僧辯に報告し、王僧辯は、真偽は測りがたいが、もし本当に外城を取っているなら急ぎ援助すべきだと返した。返答を待たずに霸先は渡江し、王僧辯も杜崱らに援軍を命じた。
  • しかし朱盛らの謀は漏れ、陳霸先はそのまま進んで広陵を包囲した。

八月九月 西魏・武陵王紀・陳霸先

  • 八月、西魏の安康人黄衆寳が反し、魏興を攻めて太守柳檜を捕らえ、東梁州を囲んだ。柳檜に城中への説得を命じたが、檜は応じず殺された。
  • 宇文泰は王雄と宇文虯に討伐を命じた。
  • 武陵王紀は外水から東へ下り、永豐侯撝を益州刺史として成都に残し、子の宜都王圓肅を副えた。
  • 九月甲戌、南平王恪が死去した。
  • 甲申、王僧辯を揚州刺史に任じた。
  • 北斉の君主は王僧辯・陳霸先に対し、広陵包囲を解けば広陵と歴陽を返還すると通告した。陳霸先は軍を京口へ引いた。
  • 江北の民で陳霸先に従って江を渡った者は一万余口にのぼった。
  • 湘東王は陳霸先を征北大将軍・開府儀同三司・南徐州刺史に任じた。
  • また陳霸先の世子陳昌と、兄の子陳頊を江陵へ召し、陳昌を散騎常侍、陳頊を領直とした。

宜豐侯循の帰還

  • 宜豐侯循が西魏に降った際、宇文泰は南帰を許していたが、なかなか送り返さなかった。あるとき宇文泰が劉璠に、自分を古人に比べるなら誰かと問うた。
  • 劉璠は、平素は湯武になぞらえていたが、今見るところでは斉桓公・晋文公にも及ばぬと答えた。宇文泰が驚いて理由を問うと、桓公は亡国を存続させ、文公は伐原の際に約束を違えなかったと述べ、循を帰さぬ不信義を暗に責めた。
  • 宇文泰はその意を察し、ついに循に荊州への帰還を許した。循は文武千家を伴って帰路についた。
  • 湘東王はこれを疑い、道中に使者を重ねて様子を探らせ、到着の夜には財物を奪わせた。翌朝、循が馬や武器を差し出すと、ようやく安心して対面し、涙を流して迎え、侍中・驃騎将軍・開府儀同三司とした。

十月 王琳の失脚と湘州の反乱

  • 十月、北斉の君主は晋陽から離石へ向かい、黄櫨嶺から社平戍まで四百余里にわたる長城を築き、三十六戍を設けた。
  • 戊申、湘東王は殿中で湘州刺史王琳を捕らえ、その副将殷晏を殺した。
  • 王琳は会稽の武人の家に生まれ、姉妹が王宮に入り、自身も若くして王の左右に仕えた。勇敢で、賞賜を私せず、江淮の群盗上がりの精兵一万を率いて侯景討伐で第一の功を立てた。
  • しかし建康では寵を頼んで横暴であり、王僧辯は統制できなかった。さらに王僧辯は宮殿炎上の責任を王琳に負わせようとして、密かに誅殺を願い出たという。
  • 湘東王は王琳を湘州へ出したが、王琳は疑いを抱きつつ江陵へ出頭した。出発に際し、長史陸納に部曲を率いて湘州へ赴くよう命じ、自身が帰らなければ然るべく行動せよと託した。
  • 辛酉、湘東王は方略を湘州刺史とし、黄羅漢を長史、張載を添えて先に王琳軍を掌握させようとした。
  • しかし張載は湘州軍に憎まれており、陸納と兵士たちは哭して命を受けず、黄羅漢と張載を拘束した。湘東王が宦官陳旻を遣わして諭しても、陸納は張載の腹を裂いて腸を馬に結びつけ、死体を切り刻んで踊り狂い、骨を焼いた。黄羅漢だけは清廉を惜しまれて助命された。
  • 陸納は諸将を率いて湘州を襲い、そのまま州を占拠した。
  • このころ公卿・藩鎮はしきりに湘東王へ即位を勧めていた。

十一月十二月 孝元帝即位と湘州戦線

  • 十一月丙子、湘東王は江陵で皇帝に即位し、元号を承聖と改め、大赦した。ただしこの日、正殿に昇らず、公卿を並べるだけにとどめた。
  • 丁丑、宜豐侯循を湘州刺史とした。
  • 己卯、王太子方矩を皇太子とし、元良と改名した。皇子方智を晉安王、方略を始安王、方等の子荘を永嘉王に封じた。
  • 母の阮修容は文宣皇后と追尊された。
  • 侯景の乱の結果、州郡の半数以上は西魏に入っており、巴陵から建康までは長江が境となり、荊州の支配は北は武寧、西は峡口まで、南では嶺南を蕭勃に押さえられていた。詔令の及ぶ範囲は千里ほどにすぎず、戸籍に載る民戸は三万に満たなかった。
  • 陸納は淥口で衡州刺史丁道貴を破り、丁道貴は零陵へ逃れ、兵衆はみな降った。
  • 皇帝は司徒王僧辯・杜崱・裴之横を呼び戻し、宜豐侯循とともに陸納討伐を命じた。循は巴陵に駐屯して機をうかがった。
  • 零陵では李洪雅が営州刺史として自立しており、陸納討伐を願い出て許された。丁道貴も残兵を集めてこれに合流した。
  • しかし陸納配下の呉藏が襲撃してこれを破り、李洪雅らは空靈城に退いて籠城した。
  • まもなく陸納は降伏を願い、妻子を送って誠意を示そうとした。皇帝は陳旻を派遣したが、宜豐侯循はこれを偽降と見て密かに備えた。
  • 果たして陸納は夜陰に軽兵で陳旻の後を追い、城下に至ると誤って早く鼓譟したため、巴陵まではまだ十里の地点で軍勢に気づかれた。
  • 壬午の朝、陸納は水路から攻め寄せ、矢が雨のように降った。宜豐侯循は胡牀に座って城門でこれを眺めながら甘蔗を食べ、少しも恐れず、ゆるやかに将士を配置して撃退した。一艘を奪われた陸納は退いて長沙を保った。
  • 壬午、北斉の君主は鄴へ戻り、戊午にはまた晋陽へ赴いた。