資治通鑑梁紀二十 太宗簡文皇帝下 大寳 二年 551年

春正月 各地で侯景に対抗する動き

  • 春正月、新吳の余孝頃が兵を挙げて侯景に背いた。侯景は于慶を差し向けたが、討ち果たせなかった。
  • 湘東王繹は、尹悦・杜幼安・王珣らに二万の兵を授け、江夏から武昌へ進ませ、徐文盛の指揮下に入れた。
  • これと並行して、蜀方面では楊乾運が劍閣を奪い、楊法昌は石門へ退いた。乾運はさらに南陰平を押さえた。

北斉・西魏・梁諸勢力の動静

  • 辛亥、北斉の君主は圓丘で祭祀を行った。
  • 張彪配下の趙稜が錢塘を、孫鳳が富春を囲んだが、侯景が田遷・趙伯超を派遣すると撃ち破られた。なお趙稜は趙伯超の兄の子である。
  • 北斉では籍田の儀と太廟祭祀が続けて行われた。
  • 西魏の楊忠が汝南を攻め、李素は戦死した。二月、城が陥落すると邵陵王蕭綸は捕らえられて殺され、遺体は江辺に捨てられたが、岳陽王詧がこれを収めて葬った。

侯景政権の人事と猜疑

  • 北斉では、彭楽に謀反の疑いがかけられて誅殺された。
  • 北斉は曹文皎を江陵へ派遣し、湘東王繹は王子敏を返礼使として送った。
  • 侯景は王克・宋子仙・元羅・郭元建・張化仁・任約・王偉・索超世らに高位を与えたが、三公級の官を乱発し、功臣・謀臣・武断派をそれぞれ取り立てて体制を固めようとした。
  • ただし梁の旧臣のうち、王克・元羅・殷不害・周弘正らは名望を利用して厚遇されたにすぎず、腹心ではなかった。
  • 北兗州刺史の蕭邕が西魏への降伏を図ったため、侯景はこれを殺した。

蜀・嶺南方面の戦況

  • 楊乾運は平興へ進んだが、楊法琛は魚石洞に退き、乾運は平興を焼いて帰った。
  • 李遷仕は兵を集めて南康を攻め返したが、陳霸先配下の杜僧明らに生け捕られ、斬られた。
  • 湘東王繹は陳霸先に江州攻略を命じ、そのうえで江州刺史に任じた。

三月 西魏と武昌攻略

  • 三月、北斉の襄城王淯が死去した。
  • 庚戌、西魏文帝が四十五歳で死去し、太子の欽が立った。
  • 乙卯、徐文盛らは武昌を落として蘆洲まで進軍した。
  • 己未、北斉は湘東王繹を梁の相国とし、梁臺を建てて百官を総べることを認めた。
  • 同月、北斉では司馬子如が王号を求めて君主の怒りを買い、免官された。

閏月 侯景の西上

  • 任約が危急を告げると、侯景はみずから大軍を率いて西へ向かい、太子大器を人質として軍中に置いた。留守は王偉に任せた。
  • 閏月、侯景は建康を発し、石頭から新林まで艦船が連なった。
  • 任約は別動隊で齊安の田龍祖を破り、侯景本隊は西陽へ達して徐文盛軍と長江を挟んで対峙した。
  • 癸卯、徐文盛が侯景軍を破り、右丞庫狄式和を射落として溺死させた。侯景は敗れて退いた。

四月 郢州急襲と江夏陥落

  • 郢州刺史の蕭方諸はまだ十五歳で、実務を握る鮑泉・和弱常から軽んじられていた。彼らは徐文盛の近在を頼み、備えを怠って博戯と酒宴にふけっていた。
  • 侯景は江夏の手薄を見抜き、乙巳、宋子仙と任約に精騎四百を与え、淮水沿いから郢州を急襲させた。
  • 丙午の暴風雨のなか、城側は敵襲を味方の帰還と誤認し、門を閉ざす前に宋子仙らは入城した。蕭方諸は降り、鮑泉は床下に隠れたが見つかって捕らえられた。
  • 侯景は風を利用して中流を進み、徐文盛らの軍を飛び越えて丁未に江夏へ入った。徐文盛軍は恐慌を起こして潰走し、長沙王韶らとともに江陵へ逃げた。
  • 王珣・杜幼安は家族が江夏にいたため侯景に降った。

巴陵防衛の構築

  • 湘東王繹は王僧辯を大都督に任じ、淳于量・杜龕・王琳・裴之横らを従えて東方へ出兵させた。徐文盛以下もその節度を受けた。
  • 戊申、王僧辯らは巴陵に到着したが、郢州陥落を知るとそこに留まり、防衛を固めた。
  • 湘東王繹は王僧辯に、侯景が勝ちに乗じて来るなら巴丘を守り、敵を疲弊させよと書き送った。また将兵にも、侯景が巴陵を力攻めするのは下策であり、そこに勝機があると説いた。
  • さらに徐嗣徽・杜崱にも援軍を命じた。
  • 侯景は丁和に夏首守備を任せ、宋子仙を前鋒として巴陵へ向かわせ、自身も水陸の大軍で後続した。任約には江陵直指を命じた。

巴陵攻防

  • 侯景軍は沿江の守備隊を次々と服属させ、勢いを誇示して隱磯まで進んだ。
  • 王僧辯は城にこもって旗も鼓も伏せ、あたかも人がいないように見せた。
  • 壬戌、侯景軍が江を渡ると、騎兵が城下で降伏を勧めたが、王僧辯は「大軍が荊州へ向かうならこの城は妨げにならない」と言い返した。
  • 侯景は王珣らを連れてきて王琳を説得させたが、王琳は兄を恥じて弓を射かけ、説得を退けた。
  • 侯景は総攻撃をかけたが、城中の矢石は激しく、死者が続出した。王僧辯は軽兵で十数度出撃していずれも勝ち、甲冑姿で督戦する侯景もその胆力を認めた。

岳陽王詧の牽制と湘東王の対応

  • 岳陽王詧は侯景が郢州を取ったと聞き、蔡大寶に一万を率いさせ武寧へ進ませたうえ、江陵には援軍を装う使者を送った。
  • 周囲は侯景敗北を偽って詧を退かせようとしたが、湘東王繹はそれでは逆に進軍を促すと見抜き、胡僧祐の大軍が湕水で待機していると脅して詧を引き返させた。

五月六月 任約敗北と侯景撤退

  • 五月、西魏の李虎が死去した。
  • 侯景軍は昼夜にわたり巴陵を攻めたが落とせず、食糧も疫病も尽きて兵の半ば以上を失った。
  • 湘東王繹は当初蕭惠正に援軍を命じたが辞退されたため、獄中にあった胡僧祐を出して武猛将軍とし、援軍に向かわせた。彼には、水戦なら大艦で圧し、歩戦なら交戦を避けて直進せよと命じた。
  • 胡僧祐が湘浦に着くと、侯景は任約に精鋭五千を授けて白塉に待ち受けさせた。僧祐は別路を進み、任約は追撃して芊口に至ったが、僧祐は応じず赤沙亭へ進んだ。
  • そこで異術で知られる陸法和が合流した。法和は江陵近くの百里洲に隠棲していた人物で、吉凶を予言するとしばしば当たると評判だった。侯景攻囲中にも成否両面を含む言い方で将来を示していた。
  • 壬寅、任約が赤亭に来ると、六月甲辰、胡僧祐と陸法和は総攻撃してこれを大破し、多数を殺傷・溺死させ、任約を生け捕りにして江陵へ送った。
  • 侯景はこれを聞くと乙巳、陣営を焼いて夜逃げし、丁和を郢州刺史として残し、宋子仙ら二万に郢城を守らせ、支化仁を魯山に置いた。范希榮には江州を任せ、任延和・夏侯威生には晉州を守らせた。
  • 侯景自身は麾下数千とともに流れに乗って東へ下った。
  • 丁和は鮑泉と虞豫を大石で打ち殺し、黄鶴磯に沈めた。
  • 任約は江陵で赦されたが、徐文盛は怨望の罪で投獄され、獄死した。

東方反攻の開始

  • 余孝頃は甥の余僧重に鄱陽救援を命じ、于慶を退けた。
  • 湘東王繹は王僧辯を征東将軍・尚書令に進め、胡僧祐らにも位を加えて東下を命じた。
  • 陸法和は自ら峡口へ戻り、蜀の武陵王紀の東下に備えるべきだと述べてそこに駐屯した。
  • 庚申、王僧辯は漢口へ達し、まず魯山を攻めて支化仁を捕らえ、江陵へ送った。
  • 辛酉、ついで郢州を攻め、外城を落とし、宋子仙は金城に退いた。
  • 王僧辯は土山を築いて四面から圧迫した。
  • 同時に、巢湖から出た荀朗が濡須で侯景の後軍を遮って破り、侯景は船列を乱して逃げ帰った。
  • 太子大器の船は樅陽浦へ入ってしまい、側近はこの機に北へ逃れよと勧めたが、太子は父を捨てるのは賊からの逃亡ではなく不孝だとして拒み、前進を命じた。

郢州陥落

  • 甲子、宋子仙らは追い詰められて、城を明け渡して自分たちだけ侯景のもとへ帰ることを願った。王僧辯はいったん許し、船百艘を与えて油断させた。
  • そのうえで杜龕に精兵を率いて城壁を登らせ、水軍の宋遥にも楼船を集めさせ、宋子仙が出立しようとするところを奇襲した。
  • 宋子仙らは敗走し、白楊浦あたりで完全に打ち破られた。周鉄虎が宋子仙と丁和を生け捕りにして江陵へ送り、両人は殺された。

夏から秋 諸勢力の再編

  • 庚午、北斉は司馬子如を再び太尉に戻した。
  • 江安侯圓正は西陽太守として寛厚で施しを好み、帰附する者が多く一万の兵を有した。湘東王繹はこれを警戒し、平南将軍に任じて招いた後、南平王恪と酒を飲ませて酔わせ、捕らえて部下を奪った。これがのちに荊州と益州の対立の火種となった。
  • 陳霸先は南康を発し、贛石の険しい水路が大水で通行しやすくなったため、一気に西昌まで進んだ。
  • このころ北方では、鉄勒を破った突厥の酋長土門が勢力を拡大し、柔然に婚姻を求めたが侮辱されたため、西魏に求婚し、宇文泰は長楽公主を嫁がせた。

七月八月 東方諸戦線

  • 七月乙亥、湘東王繹は長沙王韶に郢州の監督を命じた。
  • 丁亥、侯景は建康へ戻った。
  • 于慶は鄱陽から豫章へ帰ろうとしたが、侯瑱がこれを拒み、于慶は江州の郭黙城に拠った。湘東王繹は侯瑱を兗州刺史に任じた。
  • 侯景は建康に残していた侯瑱の子弟を皆殺しにした。
  • 辛丑、王僧辯は勢いに乗って湓城へ進み、陳霸先も三万を率いて巴丘に駐屯した。西軍は食糧不足だったため、陳霸先は自軍の糧五十万石のうち三十万石を分け与えた。
  • 八月壬寅朔、王僧辯の前軍が于慶を襲うと、于慶は郭黙城を捨て、范希榮も尋陽を捨てて逃げた。晉熙では王僧振らが挙兵して郡城を囲み、王僧辯は丁道貴を援軍に送った。任延和らも城を棄てて逃げた。
  • 湘東王繹は王僧辯に、しばらく尋陽に留まって諸軍の合流を待てと命じた。

侯景、帝位簒奪を進める

  • 侯景はかねて「江東の人々は弱く、中原を先に平定すべきだ」と語っていたが、溧陽公主を寵愛して政務を妨げられていた。王偉がこれをたびたび諫めたことで、公主に讒言されるのを恐れた王偉は、逆に帝を除くよう侯景に勧めた。
  • 巴陵敗戦で猛将を失った侯景は、長くは保たぬと考え、早く帝位に就こうとした。王偉は、王権奪取には廃立を伴わせて威権を示し、民の望みを断つべきだと説いた。
  • そこで謝昊に詔を作らせ、「兄弟や甥たちが争って国を乱したのは自分の正統性の不足による」として、帝位を豫章王棟へ譲る形を取らせた。
  • 戊午、侯景は彭雋らに命じて殿中へ入り、太宗を晋安王へ廃し、永福省に幽閉した。
  • 庚申、豫章王棟が迎えられた。彼は長く幽閉されて糧も乏しく、自ら畑を耕していたが、突然の法駕に驚き泣いて輿に乗った。
  • 侯景は哀太子大器、尋陽王大心、西陽王大鈞、建平王大球、義安王大昕、および建康にいた王侯二十余人を殺した。太子大器は生前から、いずれ自分は賊より先には死なぬと静かに語っており、処刑の時も顔色を変えなかった。
  • 壬戌、棟は帝位に即き、元号を天正と改めた。
  • 郭元建はこの廃立を聞いて侯景を諫めたが、王偉が再変更を止めたため、そのままとなった。
  • 乙丑、侯景はさらに南海王大臨・南郡王大連・安陸王大春・高唐王大壮らを各地で殺害した。
  • 太子妃を郭元建に与えようとしたが、郭元建は受けず、出家を許して放した。
  • 丙寅、昭明太子を昭明皇帝、豫章安王を安皇帝と追尊し、金華敬妃を敬太皇太后、王氏を皇太后、張氏を皇后とし、劉神茂を司空とした。

九月十月 太宗殺害

  • 九月、北斉の君主は趙州・定州を巡幸したのち晋陽へ向かった。湘東王繹は王僧辯を江州刺史に、陳霸先を東揚州刺史に任じた。
  • 王偉は侯景に対し、太宗を殺して人心の拠り所を断つよう勧め、侯景は従った。
  • 冬十月壬寅夜、王偉・彭雋・王修纂は太宗に酒をすすめ、「丞相が長く憂いに沈む陛下を慰めるため」と称して饗応した。太宗はすでに禅位した自分をなお陛下と呼ぶのかと笑い、この酒が命の尽きる酒であろうと見抜いていた。
  • 彼らは曲項琵琶なども持ち込み、太宗に大いに飲ませた。
  • 太宗が酔って寝入ると、彭雋らは土嚢で圧し殺した。四十九歳であった。
  • 王偉は門扉を棺代わりにして遺体を酒庫に移した。太宗は幽閉後、紙すら与えられず、壁や板障に多くの詩文を書きつけていたという。
  • 侯景は諡して明皇帝、廟号を高宗とした。

漢中・上津と東陽の動き

  • 侯景が江陵へ迫った際、湘東王繹は西魏に援軍を求め、宜豐侯循に命じて南鄭を西魏へ渡すよう求めたが、循は無命令で城を渡すのは忠臣の節に反するとして拒んだ。
  • 宇文泰は達奚武を三万で漢中へ、王雄を子午谷から上津へ向かわせた。循は記室参軍の劉璠を武陵王紀のもとへ送り、援軍を請わせ、紀は楊乾運を向かわせた。
  • 丙辰、王僧辯らは太宗の死を聞いて湘東王繹に即位を願い出たが、繹は許さなかった。
  • 劉神茂は侯景が巴丘から敗退したのを機に東陽で反旗を翻し、尹思合・劉歸義・王曅・元頵らと呼応した。元頵と李占は建德江口を押さえた。
  • 張彪は永嘉を攻め取った。
  • 新安では程靈洗が挙兵して郡を押さえ、劉神茂に呼応した。浙江以東はおおむね江陵側についた。
  • 湘東王繹は程靈洗を譙州刺史とし、新安太守を兼ねさせた。

十一月十二月 侯景の即位

  • 十一月、王僧辯らは再度、湘東王繹に即位を勧めたが、なお許されなかった。
  • 戊寅、繹は安南侯方矩を中衛将軍として側近に置き、南平王恪を湘州刺史とした。
  • 侯景は趙伯超を東道行臺として錢塘に置き、田遷を富春、李慶緒・謝答仁・李遵らを各軍に配して劉神茂討伐に当たらせた。
  • 己卯、侯景に九錫が加えられ、漢国が設けられて百官も置かれた。
  • 己丑、豫章王棟は侯景に禅位し、侯景は南郊で即位して皇帝を称した。元号は太始とされ、棟は淮陰王に降格され、弟の橋・樛とともに密室に閉じ込められた。
  • 王偉は七廟の建立を進言したが、侯景は祖先の名すら覚えておらず、父標だけは知っているが朔州にいるその父がどうしてここへ来て供物を食えるのかと答え、人々の笑いを買った。
  • 侯景は父標を元皇帝と追尊した。
  • かつて丞相時代には身分を問わず人を引見していた侯景も、禁中に入ってからは旧知しか会えぬようになり、諸将の不満が高まった。
  • 鳥を射るためにしばしば一人で小馬に乗り出ようとしたが、王偉がこれを止めたため鬱屈し、「帝位に就いても見捨てられたのと変わらぬ」と嘆くようになった。
  • 壬辰、湘東王は長沙王韶を郢州刺史とした。
  • 一方、益州では劉孝勝らが武陵王紀に帝号を勧め、紀はまだ正式には認めなかったが、天子用の車服を大々的に整え始めた。
  • 十二月丁未、謝答仁と李慶緒は建德を攻め、元頵と李占を捕らえて建康へ送った。侯景は元頵の手足を切って見せしめにし、長く苦しませて殺した。

北斉の粛清

  • 北斉の君主は常に中山王を側に置き、王妃の太原公主も身の回りを世話していたが、この月、君主は公主の酒に毒を入れ、中山王とその三子を殺した。諡して魏孝静皇帝とし、鄴西・漳水北に葬ったが、のちには陵を暴いて棺を漳水に流した。
  • 魏の宗廟神主も七帝寺に置かれていたが、これも焼かれた。
  • 元韶は高氏の婿であり比較的厚遇されていたが、元暉業は名望が高く志も並外れていたため特に警戒され、ついに元孝友とともに汾水の氷穴に沈められて殺された。
  • 君主は元韶の鬢や鬚を剃り、化粧まで施して側に置き、「彭城を側室にした」と言ってその弱さを嘲った。