資治通鑑梁紀十九 太宗簡文皇帝上 大寶 一年 550年
正月:陳霸先の北上と蔡路養の撃破
- 春正月、梁では大赦が行われ、年号を大宝に改めた。
- 陳霸先は始興を発し、大庾嶺を越えて北上した。蔡路養は二万人を率いて南野に布陣し、これを阻もうとした。
- 蔡路養の妻の甥である蘭陵の蕭摩訶は、まだ十三歳ながら単騎で出撃し、敵する者がなかった。
- 戦闘中、杜僧明の馬が傷つくと、陳霸先は自らの乗馬を与えて救い、杜僧明は再び戦列に戻った。これに勢いづいた諸軍は総攻撃をかけ、蔡路養を大破した。蔡路養は逃走し、陳霸先はさらに南康へ進軍した。
- 湘東王繹は承制の立場から、陳霸先を明威将軍・交州刺史に任じた。
東魏で高洋の権勢がさらに進む
- 東魏では高洋が丞相・都督中外諸軍・録尚書事・大行台となり、斉郡王に封じられた。
邵陵王綸の江夏入り
- 邵陵王綸が江夏に到着すると、郢州刺史の南康王恪が郊外まで出迎え、州を譲ろうとした。
- 綸は受け取らず、逆に恪が綸を仮黄鉞・都督中外諸軍事に推戴し、承制して百官を置かせた。
楊忠、柳仲礼を奇襲して漢東を奪う
- 西魏の楊忠は安陸を包囲していたが、柳仲礼が救援に向かっていると知ると、諸将の強攻策を退けた。
- 楊忠は、南朝軍は水戦には慣れているが野戦には不慣れだとして、安陸攻城を急がず、夜襲で柳仲礼本隊を漴頭で破った。
- 柳仲礼とその弟の子礼は捕らえられ、兵はほぼ虜となった。
- これにより馬岫は安陸の別将王叔孫とともに、また竟陵も降伏し、漢東一帯は西魏に帰した。
広陵で祖皓が挙兵
- 広陵の人である来嶷は、前広陵太守の祖皓に対し、南兗州刺史董紹先は軽率で人望が薄いので、襲って殺すべきだと説いた。
- 祖皓はこれに同意し、勇士百余人を集めて広陵を急襲、董紹先を斬って城を奪った。
- 祖皓は前太子舎人の蕭勔を刺史に推し、東魏とも連携して援助を求めた。
- 祖皓は祖暅の子、蕭勔は蕭勃の兄である。
侯景、広陵反乱の鎮圧へ
- 侯景は郭元建を派遣して広陵を急襲させ、祖皓は籠城して抗戦した。
二月:西魏と湘東王繹の和議
- 西魏の楊忠は勝勢のまま石頭まで進み、さらに江陵へ圧迫を加えようとした。
- 湘東王繹は舎人庾恪を遣わし、「詧が叔父を攻めるのに西魏が加勢するのでは、天下の人心は離れる」と説得した。
- 楊忠は湕水の北で進軍を止めた。
- 繹はさらに王孝祀らを派遣して子の方略を人質に差し出し、講和を求めた。
- 両者は、石城を西魏側、安陸を梁側の境とし、互いに人質と通商を行い、友好を保つことで盟約した。楊忠はこれを受けて撤退した。
宕昌・羌族反乱の鎮圧
- 宕昌王梁弥定は宗族の獠甘に襲われて西魏へ逃れ、獠甘が自立した。
- また羌酋の傍乞鉄忽が渠株川を拠点にし、渭川の鄭五醜と結んで諸羌をまとめ反乱した。
- 西魏の宇文貴・史寧らが討伐し、鉄忽・五醜を斬り、獠甘も破った。獠甘は生羌の鞏廉玉のもとへ逃げたが、史寧は梁弥定を宕昌へ復帰させ、渠株川に岷州を設置した。
- さらに鞏廉玉も討って獠甘を斬り、鞏廉玉は長安へ送られた。
侯景、梁宗室諸藩を攻める
- 侯景は任約・于慶らに二万人を与え、梁の各地の宗室拠点を攻撃させた。
邵陵王綸と湘東王繹の対立
- 邵陵王綸は河東王譽を救おうとしたが兵糧が足りず、湘東王繹に書を送り、骨肉の争いをやめて侯景討伐を優先すべきだと訴えた。
- これに対し繹は、譽の罪は重く赦せないこと、また岳陽王詧が楊忠を引き入れて侵攻してきたが、自分はそれを退けたと主張し、是非は明らかだとして弁明を打ち切った。
- さらに長沙が平定されれば、ただちに出兵すると述べた。
- 綸はその返書を机に投げつけて嘆き、湘州が敗れれば自分の滅亡も近いと涙した。
侯景、広陵を屠る
- 侯景は侯子鑒に舟師八千を率いさせ、自らも歩兵一万を率いて広陵を攻めた。
- 三日で城は陥落し、祖皓は縛られて全身を射られたのち、車裂きにされた。
- 城中の住民は老若を問わず地に埋められ、その上を騎馬で踏みつけながら射殺された。広陵では大量虐殺が行われた。
- 侯子鑒は南兗州刺史として広陵に駐屯したが、実際には空城を守るような状態であった。
官職の改変と各地の戦い
- 侯景は建康に帰還し、安陸王大春を東揚州刺史に任じ、呉州を廃した。
- 王克は左僕射となった。
- 東魏では高隆之が太保となった。
- 宣城内史の楊白華は安呉に進出したが、侯景が于子悦を派遣して攻めても落とせなかった。
- 東魏の行台辛術は陽平を包囲したが、攻略できなかった。
三月:侯景の驕慢
- 侯景は皇帝の娘である溧陽公主を娶り、非常に寵愛した。
- 上巳の宴を口実に、簡文帝に楽遊苑で三日間の禊宴を開かせた。
- 皇帝が宮中に戻ると、侯景は公主とともに御座に並んで南面し、群臣を侍宴させた。
- これはもはや侯景が帝権を公然と侵食していることを示した。
始興王毅・鄱陽世子嗣の戦い
- 臨川内史の始興王毅らは荘鉄を攻撃したが、鄱陽王範配下の巴西侯瑱が救援し、毅らは敗死した。
- 鄱陽世子嗣は任約と三章で戦い、任約を破ったうえで三章へ移駐し、その柵を安楽柵と呼んだ。
四月:長沙攻略と河東王譽の死
- 湘東王繹は上甲侯韶を長沙王に封じた。
- 王僧辯は長沙を急攻し、ついにこれを落とした。
- 河東王譽は捕らえられて斬られ、首は江陵へ送られた。繹はその首を長沙に返して葬らせた。
周鉄虎の助命
- 以前、世子方等が戦死した際に最も功のあった臨蒸の周鉄虎は、河東王譽から厚遇されていた。
- 王僧辯は周鉄虎を捕らえて煮殺そうとしたが、鉄虎は「侯景がまだ滅んでいないのに、なぜ壮士を殺すのか」と叫んだ。
- 僧辯はその言葉を評価して助命し、元の部下に戻した。
湘東王繹、武帝の喪を発し侯景討伐を宣言
- 繹は前年に武帝崩御を知っていたが、長沙攻略が済むまで喪を秘していた。
- この月になって正式に喪を発し、檀で武帝像を刻んで百福殿に置き、何事もそれに諮るようにした。
- ただし繹は、天子が賊臣に拘束されている以上、大宝の年号には従わず、なお太清四年と称した。
- そして侯景討伐の大挙を命じ、諸方へ檄を飛ばした。
江州方面の不和
- 鄱陽王範は湓城に至り、晋熙を晋州としてその世子嗣を刺史にした。
- 江州の郡県では官職や統治が勝手に変えられ、尋陽王大心の命令は一郡の外にほとんど及ばなかった。
- 大心が荘鉄を討とうとすると、嗣は旧交を理由に救援を願い、範は侯瑱に精兵五千を与えて援軍に向かわせた。
- このため両陣営は互いに疑い合い、侯景討伐は後回しになった。
- 大心は徐嗣徽に稽亭に砦を築かせて範を防がせ、市での糴買も妨げたため、範軍では多数の餓死者が出た。
- 範は怒りと疲弊から背に腫物を発し、五月に死去した。
五月:東魏から北斉へ
- 東魏で高洋の即位を促す動きが本格化した。高徳政・徐之才・宋景業らは図讖や占いをもって受禅の好機だと説いた。
- 婁太妃は当初これに強く反対し、高歓や高澄でさえ帝位を妄りに求めなかったと戒めた。
- しかし徐之才らは、高洋が父兄ほどの威望を持たないからこそ、むしろ早く即位すべきだと勧めた。
- 高洋は占いを重ねて吉兆と判断し、晋陽から鄴へ向かった。
- 鄴では楊愔・邢邵・魏収らが禅譲・九錫・勧進の文書を整え、東魏宗室の諸王は北宮に留め置かれた。
- 高洋は鄴に入り、南郊で即位して国号を斉とし、年号を天保と改めた。これが北斉の建国である。
- 東魏の孝静帝は中山王に降封され、不臣の礼で遇された。
- 高歓は献武皇帝、高澄は文襄皇帝と追尊され、婁氏は皇太后となった。
- 魏以来絶えていた百官への俸給も、この時から再開された。
文成侯寧の挙兵と三呉の荒廃
- 文成侯寧は呉で一万人を集めて再び挙兵し、呉郡を攻めた。
- だが行呉郡事の侯子栄に撃たれて殺された。侯子栄はその後、郡内で大規模な掠奪を行った。
- 江南でもとりわけ富庶だった三呉は、侯景の乱で金帛を奪い尽くされた後、人々そのものが拉致・売買され、あるいは食われるほどに荒廃していた。
武陵王紀と湘東王繹の駆け引き
- 益州を掌握する武陵王紀は、世子円照に三万人を率いさせ、湘東王繹の節度を受ける形で東下させた。
- 円照が巴水まで来ると、繹はこれを信州刺史として白帝に駐屯させ、なお東進を許さなかった。
- 武陵王紀の勢力がそのまま主導権を握るのを警戒したためである。
梁諸王・高斉の封建
- 南郡王大連が揚州事を代行することとなった。
- 江夏王大款・山陽王大成・宜都王大封は信安から間道を通って江陵へ逃れた。
- 北斉では高岳ら宗室十人、庫狄干ら功臣七人が王に封じられた。
- さらに高洋の弟たちも永安王・平陽王・彭城王・常山王・上党王・襄城王・長広王・任城王・高陽王・博陵王・新平王・馮翊王・漢陽王に封じられた。
侯瑱、荘鉄を殺して豫章を奪う
- 鄱陽王範の死後、侯瑱は荘鉄のもとに身を寄せたが、荘鉄がこれを疑ったため不安を抱いた。
- そこで侯瑱は荘鉄を謀議に誘うと見せかけて殺害し、豫章を自領とした。
- 尋陽王大心は徐嗣徽に夜襲させたが、安南侯恬・裴之横らに撃退された。
北斉の後宮と官制
- 高洋は趙郡の李希宗の娘を皇后に立て、その子の高殷を皇太子とした。
- 段韶の妹は昭儀となった。
- 高隆之・高徳政らは有力家門との結びつきを強めるため、漢人の女子を皇后にすべきでないと進言したが、高洋は退けた。
- また庫狄干を太宰、彭楽を太尉、潘相楽を司徒、司馬子如を司空とした。高岳は司州牧となった。
六月:羊鴉仁の離反、西魏による岳陽王詧の擁立
- 侯景は羊鴉仁を五兵尚書に任じたが、鴉仁は江西へ逃れて江陵に向かおうとし、途中で賊に殺された。
- 西魏は岳陽王詧に正式な発喪と即位を促したが、詧は辞退した。
- そこで宇文泰は栄権に命じて詧を梁王に冊立し、台を建てて百官を置かせた。
陳霸先と洗氏の連携
- 陳霸先は崎頭の古城を修築し、そこへ移った。
- 高凉の馮宝の妻である洗氏は、地方豪族の有力者で、統率力と軍略に優れていた。
- 高州刺史李遷仕が反乱を企て、馮宝を呼び寄せて兵権を奪おうとしたが、洗氏はこれを見抜いた。
- 洗氏は自ら千余人を率い、貢納の品を運ぶふりをして敵営に近づき、不意をついて李遷仕を大破した。
- 一方、周文育も杜平虜を破り、その城を奪った。
- 洗氏は陳霸先と灨石で会見し、馮宝に対して、陳霸先は並の人物ではなく、衆心を得ており、厚く援助すべきだと進言した。
- 湘東王繹は陳霸先を豫州刺史・豫章内史に任じた。
七月:北斉の追尊と江州の崩壊
- 北斉では、文襄皇后として元氏を立て、その子の孝琬・孝瑜を王に封じた。
- 封隆之は録尚書事となり、平陽王淹が尚書令となった。
- 梁王詧は西魏に入朝した。
- かつて東魏が迎えようとしていた鄱陽世子嗣は、任約軍の到来で援助を失い、戦死した。
- 任約は湓城へ進み、尋陽王大心は司馬韋質を出して戦ったが敗れた。
- 大心の配下は建州へ逃れるよう勧めたが、大心は従わず、ついに江州を挙げて任約に降った。
- 以前、大心が建昌に置いていた韋臧は五千の兵を持っていたが、江州陥落を聞いて江陵へ向かおうとしたところ、部下に殺された。
于慶・侯瑱・黄法氍
- 于慶はさらに豫章まで進み、侯瑱は力尽きて降伏した。
- 侯景は侯瑱を同姓として厚遇し、その妻子と弟を人質にとどめたうえで、于慶に従わせ、彭蠡湖南方の諸郡を巡撫させた。
- 侯瑱は湘州刺史とされた。
- 巴山の黄法氍は郷里を保って自立していたが、于慶が新淦を襲うとこれを撃退した。
- 陳霸先は周文育を進軍させ、黄法氍もこれに呼応して于慶を攻めた。
邵陵王綸・王琳・西魏の東征
- 邵陵王綸は任約が来ると聞き、蔣思安に精兵五千を与えて襲撃させたが、初勝ののち油断して逆襲され敗走した。
- 湘東王繹は宜都を宜州と改め、王琳を刺史にした。
- 南郡王大連は江州刺史となった。
- 西魏の宇文泰は、北斉の成立を受けて大軍を率い東征に出た。斉王廓を隴右に置き、宇文導を咸陽に駐屯させた。
- 益州では僧の孫天英が数千人を率いて夜襲したが、武陵王紀に斬られた。
八月:湘東王繹、邵陵王綸を討つ
- 邵陵王綸が甲冑や兵器を大々的に整え、侯景討伐を称して勢力を伸ばすと、湘東王繹はこれを警戒した。
- そこで王僧辯・鮑泉らに舟師一万を与え、江・郢方面へ進ませた。名目は任約を防ぎ、あわせて綸を江陵へ迎えるというものだった。
- しかし実際には綸への圧迫であった。
北斉の政治刷新
- 北斉の高洋は新王朝の初めに政治刷新を図った。
- 趙道徳が私情で依頼を通そうとして使者を送ったが、黎陽太守房超はこれを棍棒で打ち殺した。高洋はこれを賞賛し、地方長官にも請託の使者を誅殺するための棍棒を備えさせた。
- のちに、受託して賄賂を取る者よりも、法を曲げる役人自身の方が重罪であるという意見が出て、この制度はやめられた。
- また、張老が斉律の制定を求めたため、薛琡らに魏の麟趾格をもとに法令を再編させた。
- 軍事面では六坊の兵を厳選し、一騎当百の精兵を「百保鮮卑」と呼んだ。さらに漢人からも勇士を募って辺境守備にあてた。
- 税制では戸を九等に分け、富者には銭を課し、貧者には労役を課す制度を始めた。
九月:王僧辯の郢州進撃と邵陵王綸の逃走
- 西魏軍は長安を発して東征した。
- 王僧辯が鸚鵡洲まで進むと、郢州司馬の劉龍虎らがひそかに人質を送り、内応の姿勢を示した。
- 邵陵王綸は子の威正侯礩に命じてこれを討たせ、劉龍虎は敗れて王僧辯に奔った。
- 綸は書を送り、王僧辯が昨年は甥の河東王譽を殺し、今年は兄である自分を討つのは、天下の許すところではないと責めた。
- 王僧辯はその書を湘東王繹へ送り、繹は進軍を命じた。
- 綸は西園で部下を集めて涙ながらに語り、自分は侯景討伐しか志していないのに、湘東王が帝位を争うと疑っているのだと訴えた。
- しかし守れば兵糧が続かず、戦えば後世の笑いぐさになるとして、戦わず下流へ避けることを選び、子の礩とともに舟で北へ逃れた。
- 王僧辯は郢州を占領し、湘東王繹は南平王恪を尚書令・開府儀同三司、世子方諸を郢州刺史、王僧辯を領軍将軍とした。
邵陵王綸の再起と北斉への接近
- 綸は逃走中、裴之高の子裴畿に軍器を奪われ、軽舟で武昌の澗飲寺へ逃れた。
- 僧の法馨が岩穴の下に匿い、韋質・姜律らが合流して七柵の流民を説得し、兵糧と武器を求めた。
- 綸は巴水に営し、流民八、九千人がこれに附き、散兵も集まって斉昌に拠った。
- そして北斉に和を請い、北斉は綸を梁王に封じた。
北斉・西魏・梁諸王の動き
- 湘東王繹は皇子の大款を臨川王、大成を桂陽王、大封を汝南王に改封した。
- 西魏軍は潼関に至り、北斉主は晋陽へ赴き、太子高殷に鄴で監国させた。
- 越の若邪山では張彪らが挙兵し、浙東諸県を落として数万人を集めた。呉郡の人々は南海王大臨に合流を勧めたが、大臨は成功しても自分の力とは見なされず、失敗すれば罪を着せられるとして拒んだ。
任約の西進と徐文盛の登場
- 任約は西陽・武昌へ侵攻した。
- これより先、寧州刺史の徐文盛は数万人を募って侯景討伐を掲げており、湘東王繹はこれを秦州刺史に任じ、東下させて任約に当たらせた。
- 繹はまた廬陵王応を江州刺史、徐文盛を長史として府州事を代行させ、諸将を督して任約に対抗させた。
- 邵陵王綸は北斉兵を待ちつつ馬柵に移ったが、任約の配下叱羅子通の鉄騎二百に奇襲されて潰走した。
- そのころ湘東王繹も北斉と和していたため、北斉側は綸を本格支援しなかった。
- 綸は田祖龍を信じられず、再び斉昌へ戻ろうとしたが、途中で汝南城主李素に迎え入れられた。
任約、西陽・武昌を奪う
- 任約はついに西陽・武昌を奪った。
- 裴之高は千余人を率いて夏首に至り、湘東王繹はこれを新興・永寧二郡太守とした。
- 南平王恪は武州刺史として武陵を守ることになった。
- なお、以前に綸が斉昌へ置いていた衡陽王献は任約に捕らえられ、建康へ送られて殺された。
十月:侯景の僭越、西魏と北益州の動き
- 侯景は相国となり、二十郡を食邑とする漢王に封じられ、特別な礼遇を加えられた。
- 岳陽王詧は西魏から襄陽へ戻った。
- 黎州では住民が刺史張賁を攻めて追放し、氐酋の楊法琛を迎え入れて州を掌握した。
- 武陵王紀はこれに怒り、法琛の子らを人質として捕えた。
北斉主、晋陽へ
- 北斉主は晋陽宮に至った。
- 広武王長弼は、并州刺史段韶が強兵を握っており変心の恐れがあるから、晋陽へ軽々しく行くべきではないと進言した。
- 高洋は聞き入れなかったが、到着後その言葉を段韶にそのまま伝えた。段韶は、自分ほど忠誠な者ですら讒言を受けるのだから、他は推して知るべしと述べた。
- 長弼は高永楽の弟である。
侯景のさらなる僭称
- 元韶は尚書左僕射、段韶は右僕射となった。
- 侯景は自らを「宇宙大将軍・都督六合諸軍事」と号した。
- 簡文帝はその詔文を見て驚き、「将軍に宇宙の号まであるのか」と言った。
- さらに皇子たちを西陽王・武寧王・建安王・義安王・綏建王・楽梁王に立てた。
十一月:辛術の淮河作戦、武陵王紀の東下
- 北斉の東徐州刺史・行台辛術は下邳を守り、侯景が建康へ運ぼうとした租穀を淮水で遮断して焼き払った。失われた穀物は百万石に及んだ。
- 辛術はそのまま陽平を囲み、郭元建が救援に来ると、三千余家を掠めて下邳へ帰った。
- 武陵王紀は成都を発して東下を始めた。
- 湘東王繹は使者を送り、蜀人は勇猛だが動揺しやすいので、紀は蜀にとどまり、自分が侯景を討つと書き送った。
- 別紙には、孫権と劉備のようにそれぞれ領域を保ちつつ、魯と衛のように兄弟として親書を通わせようと書き、事実上の勢力分割を持ちかけた。
- 南平王恪は文武を率いて湘東王繹を相国・総百揆に推したが、繹は受けなかった。
西魏東征の失敗
- 宇文泰は弘農で橋を架けて黄河を渡り、建州まで進んだ。
- 高洋も自ら出陣して東城に駐屯し、宇文泰はその軍容の厳整さを見て「高歓はまだ死んでいないようなものだ」と嘆いた。
- 秋から冬まで長雨が続き、西魏軍では家畜の損耗が大きく、宇文泰はついに蒲阪から撤退した。
- この結果、河南では洛陽以北、河北では平陽以東が北斉の勢力下に定着した。
徐文盛、任約を破る
- 徐文盛は貝磯で任約の水軍と戦い、大勝した。
- 叱羅子通と趙威方を斬り、そのまま大挙口まで進軍した。
- 侯景は宋子仙ら二万人を派遣して任約を助けたが、任約が西陽で停滞していたため、自らも晋熙へ出た。
建康での反侯景計画の発覚
- 南康王会理は、建康が手薄であるのを見て、太子左衛将軍柳敬礼・西郷侯勧・東郷侯勔らとともに王偉誅殺を計画した。
- しかし安楽侯乂理が長蘆へ逃れたのち、中宿世子子邕がこれを王偉へ密告した。
- 王偉は会理・敬礼・勧・勔・会理の弟である祁陽侯通理を捕らえて殺した。
- 乂理も左右に殺された。
- 錢塘の褚冕は会理の旧友として数多く拷問されたが、自白しなかった。会理は壁越しに、自分は本当に賊を殺そうとしていたのだと告げたが、褚冕は最後まで屈しなかった。
- 侯景はついに褚冕を赦した。
- 告発の功により、建安侯賁はのちに竟陵王となり、中宿世子子邕は随王となることになる。
簡文帝の孤立と武林侯諮の死
- 簡文帝は即位以来、侯景によって厳重に監視され、外部の者はほとんど拝謁できなかった。
- ただ武林侯諮、僕射王克、舎人殷不害だけは文弱で危険が少ないと見られ、寝所にまで出入りできた。
- 会理らの死後、王克と殷不害は禍を恐れて距離を置いたが、諮だけは変わらず朝参を絶やさなかった。
- 侯景はこれを憎み、諮の仇である刁戍に命じて、広莫門外で諮を刺し殺させた。
- かつて侯景は帝と重雲殿に登って仏前で君臣相疑わぬと誓っていたが、この頃には完全に破綻していた。
- 帝は自ら長くはないと悟り、殷不害に対して、ここは龐涓が死ぬ場所だ、と死を暗示する言葉を漏らした。
侯景、楊白華を降し、旧怨を報ず
- 侯景は宣城の楊白華を攻め、白華は力尽きて降伏した。
- 侯景は白華が北人であることを理由に助命し、左民尚書に任じた。
- その一方、兄の子である楊彬を殺し、来亮の怨みに報いた。
十二月:北斉・西魏・武陵王紀
- 侯景は建安侯賁を竟陵王、中宿世子子邕を随王に封じ、侯姓を賜った。
- 北斉主は晋陽から鄴へ帰った。
- 邵陵王綸は汝南で城池を修め、兵を集めて安陸を図ろうとした。これを知った西魏安州刺史馬祐が宇文泰に報告し、宇文泰は楊忠に一万人を与えて安陸救援に向かわせた。
- 武陵王紀は潼州刺史楊乾運・南梁州刺史譙淹に二万人を与えて楊法琛を討たせた。法琛は兵を出して剣閣を守り、これを拒んだ。
- 侯景は晋熙から建康へ帰還した。
西魏の八柱国と府兵制
- もともと柱国大将軍は魏の古官で、爾朱栄の敗死後に廃されていたが、西魏では大統三年に宇文泰がこれを復活させた。
- その後、宇文泰のほか、李弼・李虎・独孤信・趙貴・于謹・侯莫陳崇ら、功績と声望を兼ね備えた八人が柱国となり、「八柱国」と称された。
- 宇文泰はまた、民のうち才力ある者を府兵に編成し、租・庸・調を免除した。
- 農閑期に軍事訓練を行い、装備と軍糧は六戸で一兵を支える仕組みとした。
- 百府を設け、それぞれに郎将を置き、二十四軍に分属させた。宇文泰は全体を統轄し、宗室の元欣は名望をもって禁中に侍するのみであった。
- 残る六柱国が各二大将軍を率い、計十二大将軍を統領した。さらに各大将軍に二開府を配し、各開府が一軍を率いた。
- この体制以後、柱国・大将軍・開府儀同三司・儀同三司の官は広く授けられたが、実際の統軍権を持つ者と名誉官とでは格差が明確になった。
北斉、天保暦を施行
- 北斉主は散騎侍郎宋景業に命じて天保暦を作らせ、これを施行した。
- 宋景業は図讖類の説と結びつけて、斉の受命が天数にかなうと説明し、高洋は大いに喜んだ。