資治通鑑梁紀十八 高祖武皇帝 太清 三年 549年

正月・青塘で援軍が敗れ、韋粲が戦死

  • 春正月丁巳朔、柳仲礼は新亭から大桁へ陣を移した。濃霧の中で韋粲軍は道に迷い、青塘に着いた時には夜半を過ぎており、柵の設営も整わないうちに侯景に見つかった。
  • 侯景は精鋭で急襲し、韋粲は鄭逸に迎撃を命じ、劉叔胤には舟軍で退路遮断を命じたが、劉叔胤が臆して進まず、鄭逸は敗れた。
  • 侯景軍はそのまま韋粲の陣に突入した。左右が韋粲を退避させようとしたが、韋粲は動かず、一族に奮戦を命じ、自身も子の韋尼、弟たち、従弟らとともに戦死した。親族の死者もきわめて多かった。
  • 柳仲礼は食事中だったが箸を投げて甲冑を着け、百騎で急行して侯景と青塘で戦い、これを大破した。斬首数百、淮水に沈んで死んだ者も千余に上った。
  • しかし柳仲礼もあと一歩で侯景に届くところで、侯景側の将が背後から斬りつけ、馬もぬかるみに沈んだため重傷を負った。会稽の恵臶が傷口の血を吸い出してようやく一命をとりとめた。
  • この戦い以後、侯景は南岸へ渡るのを恐れるようになったが、柳仲礼もまた気力を失い、以後は戦いを口にしなくなった。

各地の援軍が集まるが、主導権は柳仲礼に

  • 邵陵王綸は敗残兵を再編し、東揚州刺史の臨城公蕭大連、新淦公蕭大成らも東方から到着した。
  • 庚申、諸軍は大桁の南に列営し、柳仲礼を大都督に推した。
  • 朝廷でも民間でも、侯景の乱を招いた責任は朱异にあるという声が強く、朱异は恥と憤りから病を発して死んだ。
  • 皇帝は朱异を痛惜し、異例に尚書右僕射を追贈した。

台城と外軍がようやく連絡を回復

  • 湘東世子蕭方等と王僧弁の軍が到着した。
  • 戊辰、封山侯蕭正表は北徐州をもって東魏に降った。東魏側も兵を送って受け入れた。
  • 己巳、太子は永福省へ移った。
  • 高州刺史李遷仕、天門太守樊文皎ら一万余の援兵が城下に到着したが、長らく台城と連絡が絶えていた。
  • そこで羊車児の献策により、勅書を結びつけた紙鳶を風に乗せて飛ばし、援軍への伝達を試みた。しかし侯景軍はこれを厭勝の術と疑って射落とした。
  • その後、鄱陽世子蕭嗣の側近李朗が、罪を得て寝返ったように見せかけて侯景軍に入り込み、台城へ潜入することに成功した。城中はここで初めて四方から援軍が集まっていることを知り、歓声を上げた。
  • 李朗は再び城を出て、鐘山の陰を昼は潜み夜に進んで戻り、双方の連絡役を果たした。

援軍の攻勢と失敗

  • 癸未、鄱陽世子蕭嗣、永安侯蕭確、荘鉄、羊鴉仁、柳敬礼、李遷仕、樊文皎らが淮を渡って東府前柵を攻め、これを焼いた。
  • 侯景は青溪東へ退いたが、李遷仕と樊文皎は精鋭五千で単独深入りし、進む先々で敵を崩した。
  • しかし菰首橋東で侯景の将宋子仙の伏兵に遭い、樊文皎は戦死、李遷仕も退却した。

援軍内部の不和

  • 柳仲礼は傲慢で諸将を見下し、邵陵王綸でさえ毎日鞭を持って門前に礼を尽くしても、長く待たされて面会できないことがあった。
  • このため柳仲礼は邵陵王綸、臨城公大連と深く対立し、大連もまた永安侯蕭確と不和だった。
  • 諸軍は互いに猜疑し合い、戦意を失った。
  • 援軍が来た当初、建康の士民は老幼を扶けてこれを迎えたが、援軍は淮を渡るや略奪を始めたため、民心は失望し、内応を考えていた侯景側の者たちも動きを止めた。
  • 王顕貴は寿陽をもって東魏に降った。

台城の飢餓と侯景の偽和

  • 二月己丑、臨賀王の記室・顧野王が兵を率いて到着した。
  • 台城が包囲された際、公卿たちは米四十万斛、諸府の財貨五十万億を集めたが、薪・飼料・魚塩など生活物資の備えが不足していた。
  • そのため尚書省を壊して薪にし、薦を刻んで馬に与え、尽きると飯を食べさせた。兵は干し肉にも欠き、鎧を煮、鼠や雀を捕って食べ、御膳所の乾燥海苔まで分け与えられた。
  • 馬を殿中で屠って食べ、人肉まで混じることがあり、食べた者は病に倒れた。侯景軍もまた飢えていたが、掠奪する先も乏しかった。
  • 東府城には一年分の米があったが、援軍がその搬入路を断っていた。さらに荊州兵来援の報もあり、侯景は焦った。
  • 王偉は、和睦を装って時間を稼ぎ、その間に東府の米を石頭へ運び込み、援軍が動けなくなったところで兵を休め、武具を整えてから援軍を撃てばよいと進言した。
  • 侯景はこれに従い、任約・于子悦を城下に遣わして和議を求め、寿陽へ帰還したいと申し出た。

和議をめぐる朝廷の迷い

  • 太子は城中の窮状を見て和議を許すよう願った。皇帝は「和するくらいなら死ぬ」と怒ったが、太子は援軍が互いに頼み合うだけで戦わない現状を挙げ、とりあえず講和して後図すべきだと主張した。
  • 皇帝は長くためらった末、太子自身に処理を委ね、和議を許した。
  • 侯景はさらに江右四州の割譲と、宣城王蕭大器を送ることを求めた。
  • 中領軍傅岐は、これは援軍を退けるための詐術にすぎず、侯景のような者を信じてはならない、まして嫡嗣を人質に出すべきではないと強く諫めた。
  • そこで宣城王ではなく、その弟の石城公蕭大款が侍中に任じられ、人質として侯景に送られた。
  • また諸軍には進撃停止が命じられた。
  • 朝廷は侯景を大丞相・都督江西四州諸軍事・豫州牧・河南王のままとする詔を出し、己亥には西華門外で正式な盟約を結んだ。
  • 王克、侯韶、蕭瑳らが侯景側の于子悦・任約・王偉と壇上で対面し、柳津は門外で侯景側と遥かに相対して犠牲の血をすすって盟を結んだ。

侯景、盟約を守らず要求を重ねる

  • 盟約後も侯景は包囲を解かず、ただ武具の整備に専念した。舟がない、南岸の援軍に追撃されるのが怖い、などと言って出発を引き延ばした。
  • 石城公蕭大款をいったん返して宣城王の送付を再度求めるなど、要求は次第に広がり、去る意思のないことは明らかになった。
  • 太子も侯景の欺きに気づいていたが、なお関係を断ち切れなかった。
  • 南康王会理ら三万の軍が馬卬洲に到着すると、侯景は「北の軍が南岸へ戻らないと、自分が江を渡れない」と言い、太子は会理に命じて白下城から江潭苑へ移陣させた。
  • 辛丑、邵陵王綸を司空、鄱陽王範を征北将軍、柳仲礼を侍中・尚書右僕射に任じた。
  • 侯景もまた配下の将に官を与え、王偉は朝廷からも侍中に任じられた。
  • 乙卯、侯景はさらに、東魏に寿陽と鍾離を奪われたので広陵と譙州を貸してほしい、また援軍は京口から渡ってほしい、と申し入れ、太子はこれも許してしまった。
  • その後も侯景は、永安侯蕭確や趙威方が柵越しに悪口を言うので城内へ召し返してほしいと求め、朝廷は張綰を遣わして蕭確を召した。
  • 蕭確は拒みたかったが、邵陵王綸が「いまは一時しのぎの講和であり、後に策をめぐらすのだ」と説得した。なお抵抗する蕭確に対して綸は激怒し、配下に斬れとまで言ったため、蕭確は涙を流して入城した。
  • 皇帝は久しく菜食していたが、城内の野菜も尽き、邵陵王綸が送り入れた鶏卵を食べるほかなかった。

湘東王ら諸王の動きと内部対立

  • 湘東王繹は郢州武城に、河東王誉は青草湖に、桂陽王慥は西峡口にそれぞれ軍を置き、四方の援軍を待つとして進まなかった。
  • 繹の部下である蕭賁は、主君が早く救援に向かわないことをしばしば非難した。双六の最中にも「殿下には一向に“打つ手”がない」と皮肉を込めて言った。
  • 繹が皇帝の勅命を受けて撤兵しようとした時も、蕭賁は「侯景は兵を退かさぬ。十万の軍をもって敵を見ずに退いてどうする」と強く諫めたが、繹は不快に思い、ほどなく別件に託して蕭賁を殺した。
  • 桂陽王慥は武帝の孫にあたる。
  • 東魏では、河内の四千余家が同郷の司馬裔を頼って西魏側へ移った。宇文泰は司馬裔に恩賞を与えようとしたが、司馬裔は「義士を率いた功を売って栄誉を求めたくない」と固辞した。

侯景、完全に背盟へ

  • 侯景は東府の米を石頭へ運び終えた。
  • 王偉は、荊州軍が退き、援軍も統一指揮が取れていないのを見て、「ここで盟約を破っても古来珍しくない」と侯景を促した。
  • 臨賀王正徳も「大功は成りかけているのに、なぜ捨てるのか」と煽った。
  • 侯景は皇帝に対し、十の失政を並べた上表を送りつけた。内容は、虚飾を好み現実を嫌うこと、貨幣制度の乱れ、濫官、仏寺造営による浪費、宮室や近臣・宦官・僧侶の奢侈、太子や諸王の軽薄・放縦、藩屏たる皇族が国難に役立たないことなどに及んだ。
  • 皇帝はこの上表を見て、恥じながらも怒るほかなかった。

三月・侯景が総攻撃、援軍は動かず

  • 三月丙辰朔、皇帝は太極殿前に壇を立て、侯景の背盟を天地に告げ、烽火を上げて城中を鼓舞した。
  • しかしこの時には、城中の男女十余万のうち武装できる者は二万余、しかも長期の包囲で膨腫や呼吸困難に苦しみ、死者は大多数に上った。城上を守る者も四千に満たず、死体は道路に満ちて埋葬もできなかった。
  • それでも人々は外援に望みをつないだが、柳仲礼は妓妾を集めて酒宴を張るばかりで、諸将が出戦を請うても許さなかった。
  • 安南侯駿は邵陵王綸に、三路に分かれて敵の不意を衝くべきだと説いたが、綸は従わなかった。
  • 柳津は城上から柳仲礼に向かって「君父が危難にあるのに尽力しないとは、後世に何と評されるか」と責めたが、柳仲礼は意に介さなかった。
  • 皇帝が柳津に策を問うと、「陛下には邵陵王があり、臣には柳仲礼がある。この二人が不忠不孝である以上、賊がどうして平らげられましょう」と答えた。

東府北の出撃失敗と城内の裏切り

  • 戊午、南康王会理は羊鴉仁・趙伯超らとともに東府城北へ進み、夜襲を約したが、羊鴉仁らは夜明けになっても到着しなかった。
  • 侯景軍が気づいて宋子仙が攻撃し、趙伯超は風を見て逃走したため、会理軍は大敗し、戦死・溺死は五千に上った。
  • 侯景はその首級を宮門の下に積み上げ、城中に見せつけた。
  • その後も侯景は于子悦に和議を持ちかけさせた。皇帝は御史中丞沈浚を遣わしたが、侯景は実際には去る気がなく、暑いので軍を動かせないからしばらく京師に留まるなどと取り繕った。
  • 沈浚は憤然として侯景の忘恩背義を責めた。侯景は刀を横たえて脅したが、沈浚は少しも怯まず立ち去ったため、侯景も殺さずに放した。
  • 侯景は石闕前の水を決壊させ、何筋もの流れで城を攻め、昼夜なく攻撃を加えた。
  • 邵陵世子蕭堅は太陽門を守っていたが、終日博打と酒宴にふけり、将兵を顧みなかった。
  • 書佐の董勛・熊曇朗はこれを恨み、丁卯の未明、城西北楼から侯景軍を引き入れた。
  • 永安侯蕭確は奮戦したが押し返せず、宮中に駆け込んで「城は陥ちました」と報告した。皇帝はなお「まだ一戦できるか」と問うたが、蕭確が不可能だと答えると、「我が手で得た天下を我が手で失った。何を恨もう」と嘆いた。
  • そして蕭確に、父へ二宮のことを案じるなと伝え、外の諸軍も慰めるよう命じた。

侯景、皇帝と太子に面会し、台城を掌握

  • ほどなく侯景は王偉を文徳殿へ遣わして拝謁させ、皇帝は簾を上げ戸を開かせて王偉を入れた。
  • 侯景自身も甲士五百を率いて太極東堂に入り、三公の座に就いた。皇帝は顔色を変えず、軍中での労をねぎらい、出身地や北に妻子がいるかを尋ねた。侯景はおびえて満足に答えられず、任約が代わって答えた。
  • 皇帝が、渡江の際の兵数、台城包囲時の兵数、いまの兵数を問うと、侯景は最後には「天下はみな我がものだ」と言って憚らなかった。
  • 皇帝はうつむいて沈黙した。
  • 侯景は永福省で太子にも会った。太子もまた取り乱さず、側近の徐摛が「王たる者は礼をもって会うべきだ」とたしなめると、侯景はようやく拝した。
  • 退いた侯景は、戦場では恐れたことがないのに蕭氏の父子に会うと自然とひるんだ、と側近に語り、以後は二宮に再会しようとしなかった。
  • 侯景は両宮の侍衛を解散させ、兵に乗輿の服御や宮人を略奪させ、朝士や王侯を永福省へ送り込んで監禁した。
  • 王偉に武徳殿を守らせ、于子悦を太極東堂に置き、偽詔で大赦を行って自らを大都督・録尚書事とした。

外援の解散

  • 建康の士民は四方へ逃げ散った。太子洗馬の蕭允だけは京口にあって動かず、利を求めなければ禍も来ないと言っていた。
  • 己巳、侯景は石城公蕭大款に詔命を持たせて外援軍の解散を命じた。
  • 柳仲礼は諸将を集めて協議したが、邵陵王綸が「今日の処置は将軍に委ねる」と言っても、柳仲礼は見つめるばかりで何も答えなかった。
  • 裴之高と王僧弁は、百万人を擁しながら宮闕を陥落させた以上、いまこそ決戦すべきだと迫ったが、柳仲礼はついに一言も発しなかった。
  • 諸軍は結局、それぞれ元来た方面へ解散した。
  • 臨城公大連、湘東世子方等、鄱陽世子嗣、湘潭侯退、袁君正、陸経らもそれぞれ本拠へ帰還した。
  • 邵陵王綸は会稽へ逃れ、柳仲礼・柳敬礼・羊鴉仁・王僧弁・趙伯超らは降伏した。
  • 兵士たちは皆、憤りと嘆きに満ちた。
  • 柳仲礼らが入城すると、彼らはまず侯景を拝し、その後に皇帝に会った。皇帝は口をきかず、柳仲礼が父の柳津に泣きすがると、柳津は「お前はわが子ではない。何のために会いに来た」と言い放った。
  • 湘東王繹は会稽王王琳に二十万石の米を輸送させたが、姑孰で台城陥落を知ると、米を江に沈めて帰還した。

台城陥落後の処置と侯景勢力の拡大

  • 侯景は宮中の積尸を焼かせ、瀕死ながらまだ息のある者までまとめて焼かせた。
  • 庚午、征鎮・牧守はもとの任地へ復すべしとの詔が出され、侯景は柳敬礼・羊鴉仁を留め、柳仲礼を司州へ、王僧弁を竟陵へ帰した。
  • かつて臨賀王正徳は侯景と、城が陥ちた日に二宮を助けない約束をしていた。だが城門が開くと正徳は刀を振って宮中へ入ろうとしたため、侯景はあらかじめ門を守らせてこれを防いだ。
  • 侯景は正徳を侍中・大司馬に任じ、百官はひとまず旧職に復した。
  • 正徳が皇帝に会って泣くと、皇帝は「泣くのをやめよ。今さら何を嘆くのか」と言った。
  • 秦郡・陽平・盱眙の三郡も侯景に降った。侯景は州郡名を改め、自派の支配を整えた。
  • 東徐州刺史湛海珍、北青州刺史王奉伯は地を挙げて東魏に降り、青州刺史明少遐、山陽太守蕭鄰は城を棄てて逃げた。東魏はその地を接収した。
  • 侯景は蕭邕を南徐州刺史として京口に置き、また徐相に晋陵を攻めさせ、陸経は郡をもって降伏した。

湘州・雍州・荊州方面の軋轢

  • 武帝は以前、河東王誉を湘州刺史とし、張纉を雍州刺史に移して岳陽王詧の後任とした。
  • 張纉は才望を頼んで若年の河東王誉を軽んじ、出迎えにも不備があった。誉は赴任後、州府の引継ぎを理由に張纉を留め、侯景の乱が起きるとますます侮辱した。
  • 張纉は殺されるのを恐れて夜に軽舟で逃れ、雍州へ向かったが、詧に拒まれることも恐れた。
  • そこで旧知の湘東王繹を頼り、ひそかに誉・詧兄弟を排除しようとした。
  • 台城陥落後、誉は湖口から湘州へ戻り、桂陽王慥は荊州都督府の命で江陵に軍を留め、繹に拝してから信州へ帰ろうとした。
  • ところが張纉は繹に、誉が江陵を襲うつもりだと書き送り、また江陵の游軍主朱栄も、桂陽王慥が誉・詧に呼応しようとしていると報じた。
  • 繹は恐れて船を沈め米を棄て、蛮中の山道を急いで江陵へ帰還し、桂陽王慥を捕えて殺した。ここから繹と誉・詧の間に本格的な亀裂が生じた。

南康王会理、広陵を失う

  • 侯景は董紹先を江北行台とし、武帝自筆の勅書を持たせて、南兖州刺史の南康王会理を召した。
  • 壬午、董紹先が広陵に着いた時、手勢は二百にも満たず、しかも飢え疲れていた。一方、会理の軍勢はまだ強大だった。
  • 僚佐たちは、侯景は都を落とした後は諸藩を滅ぼして簒奪に進むはずであり、ここで董紹先を殺して固守し、東魏と連携して変を待つべきだと説いた。
  • しかし会理は生来臆病で、そのまま城を明け渡してしまった。
  • 弟の通理は、状況がこうなった以上、一家そろって滅びるべきではないとして先に建康へ戻ることを願い出た。
  • 董紹先は広陵の文武・部曲・武器・財貨をことごとく接収し、会理を一騎だけで建康へ帰した。

淮陰・呉郡方面の帰趨

  • 湘潭侯退と定襄侯祗は東魏へ奔った。
  • 侯景は蕭弄璋を北兖州刺史に任じたが、州民は兵を挙げて拒み、侯景が派遣した羊海も部下を率いて東魏に降った。こうして東魏は淮陰を掌握した。
  • 癸未、侯景は于子悦ら数百の弱兵で呉郡を攻略させた。
  • 新城戍主戴僧逷は精兵五千を擁し、袁君正に城を閉ざして守れば侯景軍は食糧難で飢え死にすると進言した。
  • しかし土豪の陸映公らは、持ちこたえられないうえに財産を掠奪されることを恐れ、袁君正に出迎えを勧めた。
  • 袁君正はもとより臆病で、米や酒、牛を載せて郊外まで迎えた。于子悦は袁君正を拘束し、財物と女子を奪った。
  • ただし東方の人々は各地で堡塁を築いて抗し、侯景は任約を南道行台として姑孰に置いた。

四月・江陵防備、潁川攻防、襄陽の変

  • 四月、湘東世子方等が江陵に至ると、湘東王繹はようやく台城陥落を知り、江陵周囲七里の樹木で柵を作り、三重の濠を掘って守りを固めた。
  • 東魏では高岳らが西魏の潁川を長く攻めていたが落とせず、劉豊生が洧水を堰き止めて城に注ぎ込む策を立てた。城壁は崩れたが、王思政は自ら矢石の中に立って兵と苦労を分かち、懸釜で炊くほど水勢があってもよく耐えた。
  • 宇文泰は趙貴に救援を命じたが、道が水没して前進できなかった。
  • その最中、慕容紹宗と劉豊生が堰の様子を見に舟に乗ると暴風に流され、城上から鉤で引かれて攻撃され、慕容紹宗は溺死し、劉豊生も射殺された。
  • 甲辰、東魏では大将軍の渤海王高澄が相国・斉王に進み、殊礼を加えられた。
  • 一方、湘東王繹が救援のため各州に出兵を命じた際、雍州刺史岳陽王詧は府司馬劉方貴を漢口へ出したが、自身は出ようとしなかった。
  • 劉方貴は密かに繹と通じ、襄陽を襲う計画を立てたが、詧に別件で召し返されて発覚を疑い、樊城に拠って叛いた。
  • 詧はこれを攻めて斬り、湘東王が張纉を厚遇して襄陽へ送ると、詧は張纉を受け入れず白馬寺に置いた。
  • 台城陥落の報が来ると、詧はついに後任への引継ぎを拒み、杜岸が張纉をそそのかして女装で西山へ逃がしたが、詧は杜岸に追わせて張纉を捕えた。
  • 張纉は僧になることを願い、詧はこれを許した。

湘東王に主盟を求める声

  • 荊州長史王冲らは湘東王繹に対し、太尉・都督中外諸軍事として承制し、諸藩の盟主となるよう請うたが、繹は受けなかった。
  • 丙辰には司空として主盟するよう再請したが、これも辞した。

侯景の専横と武帝の病

  • 武帝は外では侯景に制されつつも、内心では強い不満を抱いていた。
  • 侯景が宋子仙を司空にしようとすると、武帝は「陰陽を調和する三公に、なぜこのような者が要るのか」と言って拒否した。
  • 侯景はさらに配下二人を便殿の主帥にしようとしたが、武帝が許さず、侯景も強くは押し切れなかった。
  • 太子が泣きながら諫めても、武帝は「誰が来いと言った。社稷に霊があれば復興するし、そうでなければ泣いても仕方がない」と答えた。
  • 侯景の兵士たちは殿省へ自由に出入りし、驢馬や馬を追い込み、弓刀を帯びて宮中を歩いた。武帝が不審がると、周石珍は「侯丞相の甲士です」と答えたため、武帝は激怒して「侯景を何ゆえ丞相と呼ぶのか」と叱った。
  • 以後、武帝の求める物は多くがかなわず、飲食も侯景に削減され、憂憤のうちに病んでいった。
  • 太子は幼子の大圜を湘東王繹に託し、爪と髪を切って送り、自らの最期を覚悟した。

五月・武帝崩御、簡文帝即位

  • 五月丙辰、武帝は浄居殿に臥し、口が苦いとして蜜を求めたが得られなかった。二度「荷荷」と言って崩じた。年八十六。
  • 侯景は喪を秘し、遺体を昭陽殿に移して殯し、太子を永福省から迎えて平常通り朝参させた。王偉・陳慶が付き添い、太子は声を漏らさぬようすすり泣いたが、殿外の文武は誰も知らなかった。
  • 東魏では高岳が慕容紹宗らを失って気力を落とし、長社城への圧迫を弱めた。
  • しかし陳元康が高澄に、潁川陥落を高澄自身の武功にすべきだと勧めたため、高澄は十万の兵を率いて自ら長社を攻めた。
  • 辛巳、ようやく武帝の喪が発せられた。この日、太子が即位し、大赦を行った。これが簡文帝である。
  • 侯景は朝堂に出屯して兵を分け、宮城各所を守らせた。
  • 壬午、北人で南に奴婢とされていた者たちはみな解放され、万単位に及んだ。侯景はさらに彼らを抜擢して味方に引き入れようとした。
  • 武帝末年の建康は奢侈に傾き、食糧備蓄が乏しく、諸方からの輸送に依存していた。侯景の乱で交通が絶えると、数か月のうちに人は互いに食い合う惨状となり、なお餓死を免れないほどだった。生き残った者は百分の一、二にも満たなかった。

宣城・呉郡・会稽方面の情勢

  • 癸未、侯景は来亮を宛陵へ送ったが、宣城太守楊白華が誘い出して斬った。翌日には李賢明を送って攻めたが落とせなかった。
  • 侯景は中軍侯子鑑を呉郡に送り、蘇単于を呉郡太守とした。さらに宋子仙らを銭塘に屯させたが、新城戍主戴僧逷がこれを拒んだ。
  • 御史中丞沈浚は東方へ避難し、呉興太守張嵊と合流して挙兵し、侯景討伐を図った。
  • 東揚州刺史臨城公大連も州に拠って侯景の命を受けなかった。
  • この時点で侯景の命令が十分に及ぶのは、呉郡以西、南陵以北に限られていた。

六月・皇族封建、長社陥落

  • 六月丙戌、南康王会理を侍中・司空とした。
  • 丁亥、宣城王大器を皇太子に立てた。
  • 侯景が臨賀王正徳に帝位を授けようとした際、太常卿劉之遴は髪を剃り僧衣をまとって逃れた。彼は博学能文で、かつて湘東王繹の長史でもあったが、繹はその才能を妬んでいた。己丑、之遴が夏口に着くと、繹はひそかに薬を送って殺し、自ら碑銘まで作って厚く弔った。
  • 壬辰、皇子の大心・大款・大臨・大連・大春・大成・大封をそれぞれ諸王に封じた。
  • 長社城では塩が尽き、兵は痙攣と腫脹に苦しみ、死者が続出した。さらに西北風で水が城中へ吹き込み、城壁が崩れた。
  • 高澄は、王思政を生け捕りにした者は封侯すると命じ、傷つければ近侍を皆殺しにすると厳命した。
  • 王思政は土山に拠って「力は尽きた、ただ死をもって国に謝す」と泣き、自刎しようとしたが、都督駱訓らに止められた。
  • 高澄は趙彦深を遣わして王思政に白羽扇を贈り、手を取って労った。高澄は彼を礼遇し、潁州を鄭州と改めた。
  • 盧潜は「節を守って死ねなかった者を重く遇する必要はない」と言ったが、高澄は「盧潜を得たことは、もう一人の王思政を得たに等しい」と評した。
  • もともと崔猷は、行台の治所は長社でなく襄城に置くべきだと勧めていたが、王思政の強い請願で長社に置かれた。長社が失われると宇文泰は深く悔いた。
  • また侯景が南へ叛いたのち、宇文泰は東魏が旧地を奪い返すことを恐れて諸将に分守させていたが、潁川陥落後、道路の断絶した諸城からは撤兵させた。

湘東王繹に権限集中の動き

  • 上甲侯韶は建康を脱出して江陵へ走り、武帝の密詔を受けたとして兵を徴した。
  • その内容は、湘東王繹を侍中・仮黄鉞・大都督中外諸軍事・司徒とし、承制を許すこと、その他の藩鎮にも位号を加えることだった。
  • 一方、宋子仙は戴僧逷を攻め続けたが落とせなかった。

呉郡の反乱と正徳の最期

  • 丙午、呉の陸緝らが蜂起して呉郡を襲い、蘇単于を殺して前淮南太守の文成侯蕭寧を主とした。
  • 臨賀王正徳は、侯景に利用されて切り捨てられたことを怨み、密かに鄱陽王範へ書を送り、兵を率いて入るよう求めた。
  • しかし侯景がこの書を押収し、癸丑、正徳を絞め殺した。
  • 侯景は郭元建を尚書僕射・北道行台として江北諸軍を統轄させ、新秦に鎮させた。
  • さらに元氏十余人をことごとく王に封じた。

永安侯確の死

  • 侯景は永安侯蕭確の勇を愛し、常に近侍させた。
  • 邵陵王綸がひそかに人を遣わして呼び戻そうとすると、蕭確は「侯景は軽薄な一匹狼にすぎず、自分は手ずから斬りたいが機会がないだけだ。家王は自分を案じるな」と答えた。
  • だが侯景と鍾山に遊んだ際、鳥を射るふりをして侯景を射ようとしたところ、弦が切れて失敗し、侯景に気づかれて殺された。

湘東王繹の家族内の悲劇

  • 湘東王繹の妃である徐氏は、世子方等の母だったが、容貌が醜く嫉妬深く、行状も乱れていた。
  • 繹は二、三年に一度しかその部屋に行かなかった。徐妃は繹が片目であるのをなぞらえ、半面だけ化粧して迎えたため、繹は怒って去った。
  • 建康から帰ったのち、繹は方等の軍の統率ぶりを見てその力量を認め、徐妃にそのことを話したが、徐妃は答えず泣いて退いた。
  • 繹は怒って徐妃の不行跡を大閤に掲げ出し、方等はますます恐れた。

湘州討伐の発端と方等の死

  • 河東王誉は勇敢で兵の心を得ていた。湘東王繹が侯景討伐のため糧食提供を督促すると、誉は「なぜ他府の者が勝手に命じるのか」と拒んだ。
  • 使者が三度訪れても応じなかったため、方等がこれを討つことを請い、繹は少子の安南侯方矩を湘州刺史とし、方等に精兵二万を率いて送り届けさせた。
  • 方等は出発にあたり、親しい者に「この行軍で自分は必ず死ぬだろう。しかし死に場所を得たのだから恨みはない」と語った。
  • 一方、侯景は趙威方を豫章太守としたが、江州刺史尋陽王大心がこれを拒み、捕えて獄につないだ。趙威方はのちに脱走して建康へ帰った。
  • 方等の軍が麻溪に達すると、河東王誉は七千で迎撃し、方等軍は敗れて方等は溺死した。安南侯方矩は残兵を収めて江陵へ戻った。
  • 繹は少しも悲しむ様子を見せなかった。
  • 繹は徐妃が寵姫王氏を害したと疑い、自殺を強いて井戸に身を投げさせた。葬礼も庶人の礼とし、諸子に喪服も許さなかった。

嶺南で陳霸先が起兵

  • 西江督護の陳霸先は侯景討伐を志していた。
  • 侯景は広州刺史元景仲を誘い、これを主に立てると約して味方につけた。元景仲はそこで侯景に呼応し、密かに陳霸先を図ろうとした。
  • 陳霸先はこれを知り、成州刺史王懐明らとともに南海で兵を集め、「元景仲は賊と合従した。朝廷は曲陽侯蕭勃を刺史としており、すでに朝亭に軍を置いている」と檄を飛ばした。
  • 元景仲の部衆はこれを聞いて離散し、七月甲寅、元景仲は役所で縊死した。
  • 陳霸先は蕭勃を迎えて広州に入れた。
  • また前高州刺史蘭裕が諸弟とともに始興など十郡を扇動して欧陽頠を攻めると、蕭勃は陳霸先を救援に遣わし、蘭裕らを悉く捕えた。
  • その功により、陳霸先は始興郡の監督を任された。

湘州攻めと王僧弁の受難

  • 湘東王繹は竟陵太守王僧弁、信州刺史鮑泉に湘州を攻めさせ、兵糧を支給して出陣期日を定めた。
  • 王僧弁は、竟陵からの兵がまだ揃っていないとして鮑泉とともに延期を願い出た。
  • 繹はこれを観望と疑い、剣を振り上げて怒鳴りつけ、王僧弁の左腿を斬って失神させ、そのまま獄に下した。
  • 鮑泉は震え上がって何も言えず、王僧弁の母が徒歩で流涙しながら謝罪してようやく繹の怒りは解け、良薬を賜って王僧弁は命を保った。
  • 丁卯、鮑泉だけが単独で湘州へ出兵した。

呉郡再陥落

  • 陸緝らは呉郡で互いに暴掠を競い、呉の人々はこれに従わなかった。
  • 宋子仙は銭塘から引き返してこれを攻め、壬戌、陸緝は城を棄てて海塩へ逃れた。
  • 宋子仙は再び呉郡を制圧した。
  • 戊辰、侯景は呉郡に呉州を置き、安陸王大春を刺史とした。
  • 庚午、南康王会理を兼尚書令とした。

鄱陽王範の東魏依存

  • 鄱陽王範は建康陥落を聞いて出兵しようとしたが、側近の一部は、東魏がすでに寿陽を抑えており、合肥を空ければ東魏騎兵が入り込むと止めた。
  • 範はしばらく見合わせたが、東魏の李伯穆が合肥を圧迫し、魏収が書を送ってきたため、侯景討伐に東魏の援助を求める考えを強めた。
  • 範は二万の兵を率いて東関を出て、合州を李伯穆に引き渡し、さらに子の蕭勤・蕭広を人質として東魏に送り、援軍を求めた。
  • 自身は濡須に屯して上流の諸軍を待ち、世子の蕭嗣に千余人で安楽柵を守らせた。
  • しかし上流の諸軍は来ず、範は食糧に窮し、茭白・稗・菱・蓮根などを採って食いつないだ。東魏も結局、出兵はしなかった。
  • 範は進退きわまり、流れをさかのぼって樅陽に軍を置いた。
  • 侯景は姑孰に出てきており、範の将裴之悌は兵を率いて侯景に降った。

東魏・高澄暗殺事件

  • 東魏では高澄が爵位と殊礼を辞し、あわせて皇太子を立てるよう請うた。
  • その際、済陰王暉業が「伊尹・霍光の伝記ばかり読み、曹操・司馬氏の本は読まない」と答え、高澄の野心を婉曲に刺した。
  • 八月辛卯、高澄は陳元康・楊愔・崔季舒らとともに受禅後の百官任命を密議していた。
  • 徐州刺史蘭欽の子蘭京は高澄の膳奴とされていたが、虐待を受けた恨みから一味六人と謀り、食事を持って入るふりをして刀を盤下に隠し持った。
  • 高澄は前夜の夢を理由に彼を殺すよう命じようとしていたが、蘭京は「汝を殺しに来た」と言って斬りかかり、高澄は床下へ逃げ込んだところを殺された。
  • 陳元康は身を挺して高澄をかばい、腸が出るほどの重傷を負い、なお母への書や政治上の遺言を口述して夜に死んだ。
  • 王紘は刃を冒して防戦し、紇奚舎楽は戦死した。
  • 太原公高洋は変を聞いても顔色を変えず、ただちに指揮して反乱者を討ち、皆斬殺してその肉を裂いた。
  • しかも外には「奴が謀反しただけで、大将軍の傷は重くない」と告げて動揺を鎮めたため、内外はその器量に驚いた。
  • 高洋は高澄の死を秘し、王紘を領左右都督とし、陳元康には中書令の空名を与えた。
  • 勲貴らは重兵をもって并州にいるため、高洋に早く晋陽へ入るよう勧め、高洋も従った。
  • 癸巳、高洋は東魏主に太子擁立を勧めさせ、大赦を行わせた。これは高澄死去の噂が広がる中で人心を安んじるためだった。
  • 東魏主はひそかに、高澄が死んだのは天意であり、威権は帝室に戻るかもしれないと漏らした。
  • しかし高洋は甲午、甲士八千を率いて昭陽殿に入って東魏主に拝謁し、家事のため晋陽へ赴くと言って退出した。その威勢を見て東魏主は、自分の死期も近いのではないかと恐れた。
  • 晋陽の旧臣宿将たちは普段の高洋を軽んじていたが、彼が大集会で見せた英気と明敏な応対に驚愕した。
  • 高洋は高澄政権の不便な政策を改めたが、高隆之・司馬子如らが崔暹と崔季舒を憎んだため、この二人は弾劾されて鞭打ち・辺境流配に処された。

侯景政権の拡張と新たな戦局

  • 侯景は宋子仙を司徒、郭子建を尚書左僕射とし、任約ら四十人を開府儀同三司とした。以後、開府儀同の乱発は数えきれないほどになった。
  • 鄱陽王範は樅陽から尋陽王大心に連絡し、大心はこれを迎えようとしたが、範を湓城に置いただけで、互いに警戒を解かなかった。
  • 呉興では兵力が乏しく、張嵊は文人で軍務に暗かった。袁君正のように郡を挙げて侯子鑑を迎えるよう勧める者もいたが、張嵊は袁氏の節義を汚すことになるとして拒み、死をもって国に報いる決意を語った。

九月・呉興陥落、張嵊・沈浚死す

  • 九月癸丑朔、侯子鑑の軍が呉興に至った。
  • 張嵊は敗れて府に退くと、服装を正して座したまま捕らえられ、建康へ送られた。
  • 侯景はその節義を嘉して生かそうとしたが、張嵊は、郡守として朝廷の危機を救えなかった以上、速やかに死ぬのが幸いだとし、息子一人を助けるという侯景の申し出も拒んだ。
  • 侯景は怒って一門を皆殺しにし、沈浚もあわせて殺した。

岳陽王詧の江陵攻めと失敗

  • 河東王誉は岳陽王詧に急を告げた。詧は諮議参軍蔡大宝に襄陽を守らせ、自ら歩兵二万・騎兵二千で江陵を攻め、湘州を救おうとした。
  • 湘東王繹は大いに恐れ、獄中の王僧弁に計を問うた。王僧弁は具体策を詳しく述べ、繹はこれを受けて王僧弁を赦し、城中都督とした。
  • 乙卯、詧は江陵に着いて十三営を築いたが、大雨で平地が四尺も冠水し、軍の士気は落ちた。
  • そこで繹は旧知の杜崱を密かに招き、乙丑、杜崱は兄弟・甥とともに部衆を率いて繹に降った。
  • 杜岸は五百騎で襄陽を急襲することを請い、昼夜兼行して襄陽三十里まで迫ったが、城中に察知された。
  • 蔡大宝は詧の母・龔保林を奉じて城上で防戦し、詧は報を聞いて夜のうちに逃げ帰った。糧食・金帛・武器甲冑は湕水一帯に捨てられ、数えきれぬほどだった。
  • 張纉は足病のため詧軍に載せられて従軍していたが、敗走の途中で見捨てられることを恐れた兵に殺された。
  • 詧は襄陽へ逃げ帰り、杜岸は広平に走って兄の南陽太守杜巚に身を寄せた。

湘州攻めの主将交代

  • 湘東王繹は、鮑泉が長沙を長く囲んでも落とせないことに怒り、平南将軍王僧弁を代わって都督とした。
  • 羅重歓を伴わせて軍中へ赴かせ、鮑泉の十の罪を数え上げた。
  • 鮑泉は当初、王僧弁が助けに来たのだと喜んで席を払って迎えたが、王僧弁は背を向けて座り、「そなたには罪があるので、命により拘束する」と告げた。
  • 鮑泉は弁明と謝罪の上表を送ったが、繹の怒りはまだ解けず、ほどなくしてようやく釈放された。

十月・東魏の人事、荘鉄の反乱

  • 十月癸未朔、東魏は潘相楽を司空とした。
  • もと歴陽太守の荘鉄は、以前から尋陽王大心に帰服して豫章内史となっていたが、郡へ赴くや叛き、観寧侯蕭永を主として掲げた。
  • 丁酉、荘鉄は兵を率いて尋陽を襲ったが、大心は徐嗣徽に迎撃させて破った。荘鉄は建昌へ逃れ、光遠将軍韋構がこれを遮撃し、その母・弟・妻子を奪った。荘鉄は一騎で南昌に逃げ帰った。
  • 大心は韋構に追討を命じた。

宋子仙、会稽へ進出

  • 宋子仙は呉郡から銭塘へ向かい、劉神茂は呉興から富陽へ進んだ。
  • 前武州刺史の孫国恩は富陽城を挙げて降った。
  • 十一月乙卯、武帝を修陵に葬り、廟号を高祖とした。
  • 百済は使者を送って入貢したが、都城の荒廃が以前とあまりに違うのを見て端門で泣いた。侯景は怒ってこれを荘厳寺へ拘禁し、外出を許さなかった。
  • 壬戌、宋子仙は銭塘を猛攻して戴僧逷を降し、さらに会稽へ迫った。

岳陽王詧、杜岸を苛烈に処刑し西魏へ接近

  • 岳陽王詧は薛暉に広平を攻めさせて落とし、杜岸を捕えて襄陽へ送らせた。
  • 詧は杜岸の舌を抜き、顔を鞭打ち、四肢を裂いて釜で煮、さらに祖父母の墓を暴いて遺骨を焼き、その灰を撒き、首を漆椀にした。
  • 詧は湘東王繹と敵対した以上、自力では生き残れないと判断し、西魏に援助を求め、自らを附庸とするよう願った。
  • 宇文泰は栄権を襄陽へ遣わした。
  • 繹は柳仲礼を竟陵に置いて詧を図らせたが、詧は恐れて妃王氏と世子蕭嶚を西魏へ人質として送った。
  • 宇文泰は江漢経略を志し、楊忠を三荊等十五州諸軍事として穰城に鎮させた。
  • 柳仲礼は安陸に至ると、安陸太守柳勰が城を挙げて降った。柳仲礼は長史馬岫と弟の子礼をそこに残し、一万人で襄陽へ進んだ。
  • 宇文泰は楊忠と長孫儉を遣わし、詧救援のため柳仲礼を攻撃させた。

会稽陥落と東土喪失

  • 宋子仙は勝ちに乗って浙江を渡り、会稽に至った。
  • 邵陵王綸は銭塘敗北を聞くと鄱陽へ逃れたが、鄱陽内史の開建侯蕭蕃が兵をもって拒んだ。綸はこれを撃破した。
  • 一方、魏の楊忠が義陽へ迫ると、馬伯符以下が下溠城を挙げて降り、楊忠の道案内となった。
  • 東揚州刺史の南郡王大連は、会稽が豊かで兵数も数万、糧仗も山のようにあるうえ、侯景の残虐に苦しむ東土の人々も進んで協力しようとしていたのに、朝夕酒に酔って軍務を顧みなかった。
  • しかも凶暴で人望のない司馬の留異に軍事を一任した。
  • 十二月庚寅、宋子仙が会稽を攻めると、大連は城を捨てて逃げ、留異も郷里へ奔ったのちまもなく侯景側に降り、そのまま道案内として大連を追わせた。
  • 大連は信安で捕えられ、建康へ送られた。帝はその報を聞くと、帷を引き寄せて顔を隠し、袖で顔を覆って泣いた。
  • こうして三呉はことごとく侯景の支配下に入り、公侯らで会稽にいた者たちはみな南方の嶺を越えて逃れた。
  • 侯景は留異を東陽太守とし、その妻子を人質に取った。

年末の諸勢力

  • 乙酉、東魏は并州刺史彭楽を司徒とした。
  • 邵陵王綸は九江まで進み、尋陽王大心が江州を譲ろうとしたが受けず、西へ進軍した。
  • 始興太守陳霸先は郡中の豪傑と結んで侯景討伐を図り、侯安都・張偲らがそれぞれ千余人を率いて帰附した。
  • 陳霸先は杜僧明に二千を与えて大庾嶺に駐屯させたが、広州刺史蕭勃は、侯景は天下無敵であり、援軍十万でも勝てなかったのだから軽挙すべきではないと止めた。
  • また、嶺北では諸王が互いに干戈を交えており、疎遠な立場の陳霸先が飛び込んでも受け入れられる保証はないとも言った。
  • しかし陳霸先は、国恩を受けており、都が覆って君が辱められた以上、臣下は命を惜しむべきでないと答え、かえって蕭勃が一軍を送るだけでも自身が何もしないよりましだと説いた。
  • そして密かに山道から江陵へ使者を送り、湘東王繹の節度を受けた。
  • この時、南康の土豪蔡路養が郡を拠って蜂起しており、蕭勃は腹心の譚世遠を曲江令として送り、蔡路養と結んで陳霸先を阻もうとした。
  • 一方、西魏の楊忠は随郡を抜き、太守桓和を捕えた。
  • 東魏は潘楽ら五万を派遣して司州刺史夏侯強を襲い、これを降した。これにより東魏は淮南の地をことごとく手に入れた。