資治通鑑梁紀十七 高祖武皇帝 太清二年 二年 548年
正月 侯景、渦陽敗戦後に寿陽へ逃れ込む
- 正月己亥、慕容紹宗が鉄騎五千で侯景軍を挟撃した。侯景は兵に対し「お前たちの家族は高澄に殺された」と偽って動揺を防ごうとしたが、慕容紹宗は遠くから、家族は無事であり帰順すれば官位・勲階も旧に復すると誓って呼びかけた。
- もともと侯景軍の将兵は南へ渡ることを喜んでおらず、暴顕らがそれぞれの部隊を率いて東魏に降ったため、侯景軍は総崩れとなった。兵は争って渦水へ殺到し、水の流れが滞るほどであった。
- 侯景は腹心数騎とともに硤石から淮水を渡って逃れ、散兵を再集結させて歩騎八百ほどを得た。途中の小城で城上から「跛奴が何をしに来た」と罵られると、怒って城を破り、その者を殺して去った。
- 追撃軍は侯景をなお捕えられたが、侯景が「自分を捕えたら、あなたの手柄はそこで終わる」と使者に言わせたため、慕容紹宗はあえて深追いせず逃がした。胡三省は、才ある臣が自らの立場を保つため敵をわざと生かす悪弊だと指摘している。
梁の淮北防衛線が崩れる
- 辛丑、謝挙を尚書令とし、王克を僕射とした。
- 甲辰、豫州刺史羊鴉仁は東魏軍の圧迫と兵糧不足を理由に懸瓠を捨てて義陽へ退き、殷州刺史羊思達も項城を棄てて逃走した。東魏は両城を回復した。
- 武帝は羊鴉仁を厳しく責めた。羊鴉仁は帰還を恐れ、淮水沿いにとどまって弁明し、すぐには義陽へ戻らなかった。
劉神茂の手引きで侯景が寿陽を奪う
- 敗走した侯景は行き先に窮していたが、まだ寿陽へ赴任していなかった鄱陽王蕭範の留守を預かる馬頭戍主劉神茂が接触した。神茂は、寿陽の実権は監州事の韋黯が握っているが、近郊まで急行すれば迎えに出るはずだから、そのまま捕えれば城を取れると進言し、自ら先導役を願い出た。
- 壬子の夜、侯景が寿陽城下に至ると、韋黯は賊襲と思って武装し城上に立った。侯景が敗戦後の避難として入城を求めても、韋黯は勅命がないとして拒んだ。
- そこで寿陽出身の徐思玉が城内に入り、「朝廷が重んじる河南王を見殺しにすれば、自分だけ無事では済まない」と説いた。韋黯はこれに屈し、癸丑に門を開いて侯景を入れた。
- 入城した侯景はただちに四門を部下に守らせ、韋黯を責めて一時は斬ろうとしたが、ほどなく態度を変えて酒宴を開いた。胡三省は、韋黯の懦弱さは以前から明らかだったが、それでも拒絶し続けていれば朝廷も結局は受け入れざるを得なかっただろうと見る。
何敬容・蕭介、侯景再受容の危険を警告
- 朝廷には侯景敗死の噂も届き、宮中は不安に包まれた。侍中何敬容は太子に対し、侯景が生き延びたなら将来必ず国を乱すと語った。太子が玄圃で老荘を講じていたのを見て、西晋が清談に耽って中原を失った先例を引き、江南も異民族の手に落ちるのではないかと憂えた。
- 甲寅、侯景は于子悦を急派して敗戦を報告し、自らの官位降格を願い出たが、武帝は許さなかった。翌乙卯、南豫州牧の地位も旧のままとし、代わりに鄱陽王範を合州刺史として合肥に移した。
- 光禄大夫蕭介は上表し、侯景は高歓の厚恩を受けながらすぐ背いた凶狡の徒であり、敗残して関西にも容れられず梁に逃げ込んだだけだと論じた。今や彼は国境の一匹夫にすぎず、そのような男を庇って東魏との関係を壊せば大患になると警告したが、武帝は忠言を感嘆しつつ採用しなかった。
二月 東魏、淮北を回復し梁へ和議を探る
- 己未、東魏の大将軍高澄が鄴に朝見した。西魏では趙貴を司空とし、皇孫誕生により大赦が行われた。
- 二月、東魏は侯景党の討伐の一環として南兗州刺史石長宣を殺したが、侯景に脅されて従っていた者たちは赦免した。懸瓠・項城を回復したことで、旧来の領域はほぼ取り戻された。
- 高澄はたびたび書を送り、梁との通好再開を求めた。貞陽侯蕭淵明を通じて「先王以来十余年の和好があり、梁主が仏事でも魏主と先王のために祈っていたことは厚意の証である。今回の争乱は本意ではなく侯景が扇動しただけだろう」と伝え、和好再開なら淵明や侯景の家族も返還すると示した。
- 武帝は淵明からの書を読んで涙を流し、群臣と協議した。朱异・張綰らは和睦が民のためだと主張したが、司農卿傅岐だけは、高澄は侯景を疑わせて内乱を誘うためにわざと和議を持ちかけているのだと見抜き、応じればまさにその計略に落ちると諫めた。
- しかし武帝は戦争を嫌い、朱异らの意見に従って淵明へ返書し、別に使者を送って隣国の睦びを重ねる意向を示した。
侯景、和議を知って不安を深める
- 使者夏侯僧辯が寿陽を通る際、侯景は密かに事情を探らせ、ついに使者を取り調べて内容を把握したうえ、淵明への返書まで写し取った。
- 侯景は武帝に上奏し、高澄は西魏や柔然に挟まれて苦しいからこそ厚礼で和を請うのであり、ここで敵を放てば後世までの患いになると主張した。自分は過去の伍子胥や陳平のように、逃れてきた者として新たな主に尽くす覚悟だと誇示したが、胡三省はこのあたりに侯景の気の逆立った不穏さが露わだと見る。
- さらに侯景は朱异へ金三百両を贈って取り次ぎを頼んだ。朱异は金を受け取りながら、侯景の上奏を武帝に取り次がなかった。
- 己卯、武帝は高澄に弔使を送った。侯景は改めて、自分と高氏のあいだは深い仇であり、今さら南北和親となれば自分はどこに立てばよいのかと訴えた。武帝は「大義は定まっている。勝てば受け入れ、敗れれば捨てるようなことはしない」と応じつつも、和議の是非は改めて考えるから静かにしていろと命じた。
- 侯景はさらに、兵糧を蓄え軍を整えて趙・魏を平らげる準備をしているのだから、自分はただ梁を名分として用いたいだけだと述べたうえ、もし梁が自分を見捨てて南北和通するなら、高氏に引き渡されるしかないと切迫した。武帝は「万乗の君が一物に対して信義を失うわけにはいかない」と返し、それ以上の上奏は不要だと打ち切った。
侯景、交換交渉を口実に反乱準備へ
- 侯景は今度は鄴中の文書を偽造し、貞陽侯蕭淵明と自分を交換するよう求めた。武帝は応じかけたが、傅岐は、窮して帰順した者を見捨てるのは不祥であり、しかも百戦の余りの侯景が素直に縛につくはずがないと諫めた。謝挙や朱异は、侯景のような敗残の将など一人の使者で十分だと軽んじ、武帝は結局「淵明が朝に至れば、侯景は夕べに返す」と返書した。
- 侯景はこれを知って「自分は武帝の薄情をよく知っていた」と憤り、王偉が「坐していても死、事を挙げても死なら決断すべきだ」と促したことで、ついに反乱計画を固めた。
- 侯景は属城の民を徴発して兵とし、市税や田租の取り立てを停止して支持を買い、百姓の子女を軍士に配った。胡三省は、これほど露骨な謀反準備であるのに梁の君臣が気づかないのは亡国の兆しだと批判する。
三月 各地の動き
- 癸巳、東魏は襄城王元旭を大司馬、高岳を太尉とした。辛亥、高澄は黎陽から虎牢を経て河を渡り、洛陽まで巡行した。西魏の裴寛は彭楽に捕えられたが、厚遇される隙を見て逃げ帰った。
- 高澄は太行を越えて晋陽へ戻った。
- 南方では、屈獠洞で李賁が斬られ、その首が建康へ送られた。兄の李天宝は九真へ逃れ、二万の兵で愛州を囲んだが、交州司馬陳霸先が討って平定した。陳霸先はこれにより西江督護・高要太守となり、七郡諸軍事を督することとなった。
四月〜六月 東西魏と梁の外交・軍事
- 四月甲子、東魏では吏部の令史張永和らが偽って官を授けていた事件が発覚し、摘発・自首した者は六万余に達した。乱世に紛れて官爵の濫売・冒受が横行していたことを示す。
- 甲戌、東魏は高岳・慕容紹宗・劉豊生らに歩騎十万を率いさせ、西魏の王思政が守る潁川を攻めた。王思政はわざと静まり返って敵を油断させ、精鋭を選んで門から撃って出て高岳軍を破った。その後も土山を奪って楼堞に作り替えるなど、巧みに防戦した。
- 五月、西魏では宇文泰が太師となり、周制にならった官制整備が進められた。宇文泰は太子を奉じて西方を巡撫し、北長城や五原方面まで視察したが、魏主の病を聞いて華州へ戻った。
- 梁は謝挺・徐陵らを東魏へ遣わし、旧好を修復した。徐陵は徐摛の子である。
- 六月、高澄は北辺を巡視した。
七月〜八月 東魏の淮南進出と侯景の不満
- 七月庚寅朔、日食があった。乙卯、高澄は鄴に朝し、偽濫の多かった道士を整理して南郊の道壇を廃した。
- 八月庚寅、高澄は晋陽に還り、辛術に諸将を率いさせて江淮以北を攻略させた。胡三省は、この時点ではまだ完全でなくとも、侯景の乱後の翌年までに東魏が淮南二十三州をほぼ奪い尽くしたのだと総括する。
- 侯景は寿陽に入ってから要求がとどまるところを知らず、朝廷もこれを拒まなかった。王謝の家から婚姻を求めたが、武帝は門地が高すぎるとして、朱・張クラス以下から選べと言った。侯景はひどく怒り、やがて「会稽の呉人の娘を奴婢に配してやる」とまで言い出した。
- さらに錦一万匹を軍服用に求めると、朱异は青布で代用し、武器も粗悪だとして東冶の鍛工を欲した。侯景は夏侯夔の子の夏侯譒を長史、徐思玉を司馬としたが、譒は夏侯の姓を捨てて侯氏の一族を称した。胡三省は、名将の家の子が家名を保てなかったと嘆く。
- 梁が侯景の要求を拒み、しかも東魏と和親したため、侯景の上表は次第に不遜になった。徐陵らが東魏に使して帰ったと知ると、反逆の意図はさらに強まった。
元貞・蕭範らの警告、武帝と朱异は退ける
- 元貞は侯景の異志を察してたびたび還朝を願い出た。侯景は「河北のことはうまく行かなかったが、江南を失う心配はない。少し我慢せよ」となだめた。元貞は恐れて建康へ逃げ帰り、事情を詳しく報告したが、武帝は始興内史に任じただけで侯景を咎めなかった。
- 臨賀王蕭正徳は日ごろ貪暴で法を破り、幾度も武帝に処罰されていたため、深い怨恨を抱き、ひそかに死士を養っていた。侯景はかつて北朝にいた頃の縁を頼って徐思玉に書を持たせ、「天下は大王に帰心している。私は外から助ける」と持ちかけた。正徳はこれに歓喜し、自分が内応し侯景が外から攻める形で事を成そうと応じた。
- 鄱陽王範は密かに、侯景が謀反を企てていると上奏した。しかし武帝は辺事を朱异に一任しており、朱异はそんなことはあり得ないと言い切った。武帝も「侯景は危うい境遇で命を寄せている。乳飲み子のように人に頼る身で、どうして反乱などできよう」と返した。
- 範は重ねて、早く討たなければ民に禍が及ぶと訴え、合肥の兵で討たせてほしいと願ったが、武帝は許さなかった。朱异は範の使者に「朝廷にはただ一人の客がおり、それだけでこの騒ぎだ」と皮肉を言い、それ以後、範の上奏を取り次がなかった。
- 侯景は羊鴉仁も誘ったが、羊鴉仁は使者を捕えて通報した。朱异は「数百人の叛虜に何ができる」と軽視し、使者を建康の獄に下したのち、すぐ釈放してしまった。侯景はいよいよ何も恐れなくなり、かえって自分が潔白なら鴉仁を斬れとまで求めた。
- さらに侯景は、高澄の言葉を信じて和を求めるのは笑うべきことだと述べ、長江西岸一帯を自らに統轄させるよう要求し、聞き入れなければ甲騎を率いて江上に臨み、閩越へ向かうと脅した。武帝は朱异を通じ、「十人の客を養う貧家でも五人は満足させられるのに、朕には一人の客しかいないのに不満を抱かせたのは朕の失策だ」と弁明し、さらに褒賞と物資を送り続けた。
八月戊戌 侯景、寿陽で反旗を翻す
- 戊戌、侯景は寿陽でついに反乱を起こした。名目は、中領軍朱异・少府卿徐驎・太子右衛率陸験・制局監周石珍ら姦臣を誅するというものであった。これらは専横と貪欲のため人々に憎まれており、特に朱异・徐驎・陸験らは「三蠧」と呼ばれていた。
- 司農卿傅岐はかねて朱异に対し、今のままでは聖主が目覚めたとき免れられないと諫めていたが、朱异は心に恥がなければ世評は恐れないと答えた。傅岐は、朱异は讒諂と弁舌に頼り、危難を知っても改めないから長くはもつまいと人に語った。
- 侯景は西へ進んで馬頭を攻め、さらに宋子仙に木柵を攻めさせて曹璆らを捕えた。武帝は報を聞いても「杖の先で打ち払える」と笑い、侯景の首を取った者には三千戸公を与えると詔した。
- 甲辰、合州刺史鄱陽王範を南道都督、北徐州刺史封山侯正表を北道都督、司州刺史柳仲礼を西道都督、裴之高を東道都督とし、邵陵王綸に諸軍総督を命じて侯景討伐に当たらせた。
九月 侯景、建康直襲を決断
- 東魏では婁昭が死去した。
- 侯景は王偉に策を問うと、王偉は、邵陵王綸が来れば兵力差で不利になるから淮南を捨て、軽騎で直ちに建康を衝くべきだと説いた。臨賀王正徳が内応し、外から攻めれば天下は取れる、兵法は拙速を尊ぶというのである。
- 侯景はこれに従い、外弟の王顕貴を寿陽守備に残し、癸未、狩猟に出ると偽って寿陽を発った。寿陽の人々は気づかなかった。
十月 譙州・歴陽を落とし、采石から渡江
- 庚寅、侯景は合肥へ向かうよう見せかけて、実際には譙州を急襲した。守る董紹先は開城降伏し、刺史の豊城侯蕭泰を捕えた。蕭泰は着任後、民に輿や扇蓋を担がせ、財を出せば免除するなど苛政を行っていたため、住民に戦意がなかった。
- 庚子、朝廷は王質に三千を率いさせて長江を巡警させた。
- 侯景は続いて歴陽を攻め、丁未、太守荘鉄が城を挙げて降った。荘鉄は、国家は久しく太平で人々は戦に不慣れだから、今こそ建康へ急行すれば大功が立つ、もし朝廷が千人でも采石に置けば百万の兵がいても渡れまいと進言した。侯景は歴陽に田英・郭駱を残し、荘鉄を道案内として江岸へ進んだ。
- 江防の諸鎮から急報が相次ぐと、羊侃は二千人で采石を急拠し、同時に邵陵王綸に寿陽を衝かせれば、侯景軍は進退窮まって瓦解すると建議した。しかし朱异は侯景に渡江の意志などないと断じ、この策を寝かせた。羊侃は「これで敗れる」と嘆いた。
- 戊申、武帝は臨賀王正徳を平北将軍・京師諸軍都督として丹陽郡に置いた。ところが正徳は大船数十艘を用意し、荻を運ぶと偽って密かに侯景を渡江させる準備をした。
- 侯景は王質の存在を警戒して偵察を出した。ちょうど臨川太守陳昕が采石の危機を訴え、王質では力不足だから自分を代わりに置いてほしいと求めたため、武帝は陳昕を派遣し、王質を呼び戻した。陳昕がまだ到着しないうちに、偵察は「王質が退いた」と報告した。侯景は江東の木の枝を折って持たせた証拠どおりだったことに喜び、「事は成った」と言った。
- 己酉、侯景は横江から采石へ渡り、馬数百・兵八千を率いて江南へ上陸した。この夜になって、ようやく朝廷は戒厳を命じた。
- 侯景は分兵して姑孰を襲い、淮南太守文成侯蕭寧を捕えた。南津校尉江子一は舟師で下流から邀撃しようとしたが、副将董桃生が江北に家を持つため先に逃げ、江子一も残兵を率いて徒歩で建康へ帰った。
太子、守城指揮を執る
- 事態急迫のため、太子は戎服で武帝に謁し、方略を求めた。武帝は「これはお前の仕事だ。なぜ改めて問うのか」として、内外の軍事をすべて太子に委ねた。
- 太子は中書省にとどまって指揮を執ったが、人心は大いに動揺し、応募する者は少なかった。朝廷はなお正徳の内応を知らず、正徳に朱雀門、寧国公大臨に新亭、韋黯に六門を守らせ、宮城の修繕に当たらせた。
- 己酉、侯景が慈湖に至ると、建康は大混乱に陥った。大器を城内諸軍都督、羊侃を軍師将軍としてこれを補佐させ、南浦侯推を東府、西豊公大春を石頭、謝禧と元貞を白下に配し、韋黯・柳津らに宮城諸門と朝堂を守らせた。寺院・庫蔵の銭財も徳陽堂に集めて軍資とした。
板橋から朱雀桁へ 建康城下の混乱
- 庚戌、侯景が板橋に到着すると、徐思玉を武帝のもとへ送り、実は城中の虚実を探らせた。武帝は対面を許し、朱异も徐思玉を信用して左右を退けようとしたが、舎人高善宝が危険を説いてこれを止めた。侯景は朱异らを除くため甲冑を着けて入朝したいと主張し、さらに「事情を分かる舎人」をよこして自分の言い分を整理してほしいと求めて、朝廷を弛緩させようとした。
- 武帝は中書舎人賀季と主書郭宝亮を派遣して侯景を慰問した。侯景は北面して勅を受けたうえで、「自分は帝位を望む」と公言し、王偉も朱异らの誅除が目的だと言い繕った。侯景は賀季を留め、郭宝亮だけを返した。
- 民衆は賊の到来を聞いて競って城内へ入り、公私の秩序は大いに乱れた。羊侃が配備を整えたが、宗室の者がこれを妨げ、兵は武庫に押しかけ勝手に武器を持ち出したため、羊侃は数人を斬ってようやく抑えた。
- 胡三省は、梁は建国以来四十七年にわたり国内に大きな戦乱がなく、公卿も民間士大夫も実戦に疎く、宿将は死に絶え、若い将領は外地にいたため、軍事の裁断がほぼ羊侃一人にかかっていたと総括する。
辛亥〜壬子 正徳の内応で侯景が城門へ迫る
- 辛亥、侯景は朱雀桁の南に至った。太子は正徳に宣陽門、庾信に朱雀門を守らせ、宮中の文武三千余を率いて桁北に布陣した。庾信は桁を切って敵の勢いを削ぐべきだと進言したが、正徳が民衆を驚かせるとして反対し、太子も従った。
- やがて侯景軍が至ると、庾信は桁を切り始めたが一隻を除いただけで、敵兵が鉄面を着けて迫るのを見て城門へ退き、甘蔗を食べていたところに飛箭が門柱へ刺さった。庾信は手にした甘蔗を落としてそのまま逃げた。
- 南塘の遊軍沈子睦は正徳の党与であり、閉じた桁を再び渡して侯景軍を通した。太子は王質に精兵三千を与えて援軍に向かわせたが、王質は領軍府のあたりで賊に遭うと戦う前に逃げた。
- 正徳は張侯橋で侯景を迎え、馬上で礼を交わして宣陽門から入れ、闕に向かって拝礼し涙を流した。侯景軍は青袍、正徳軍は紅袍に青裏という服色であったが、合流後に上着を裏返して同色にした。
- 侯景は勝勢のまま宮闕の下に迫った。羊侃は偽って「邵陵王綸・西昌侯淵藻の援軍が近づいた」と書いた矢文を得たと触れ回り、城中の不安をひとまず鎮めた。
- 西豊公大春は石頭を棄てて京口へ走り、劉禧・元貞は白下を棄てた。石頭城の津主彭文粲らは侯景に降り、侯景は于子悦に守らせた。
侯景、台城を包囲し攻城を開始
- 壬子、侯景は旗を黒く統一した兵を並べ、台城をめぐって城中へ矢文を射込み、朱异らを誅すれば自分は兵を収めて北へ帰ると告げた。武帝が太子に本当かと問うと、太子は名目にすぎないと答え、武帝が朱异らを殺そうとするのを止めた。
- 侯景は城を一周して百方から攻め、鼓を鳴らし火を放って大司馬門・東西華門を焼いた。羊侃は門上に穴をあけて水を落とし消火し、太子も自ら銀鞍を捧げて戦士を賞した。朱思らの奮戦で火はようやく消えた。
- 東掖門には長柄の斧で迫ったが、羊侃が扇の板に穴をあけ、そこから槊で刺して二人を殺したため敵は退いた。
- 侯景は公車府、正徳は左衛府、宋子仙は東宮、范桃棒は同泰寺を拠点とした。侯景は東宮の妓女数百を兵に分け与え、東宮の塀上から城内を射させた。夜には東宮で酒宴を張ったが、太子はこれに火を放ち、宮殿や図書を焼き払った。侯景もまた乗黄厩・士林館・太府寺を焼いた。
木驢・登城楼・長囲 攻城戦の激化
- 癸丑、侯景は木驢を数百作って城に迫ったが、城上からの投石で破られた。そこで先の尖った新型を作ると石では壊せなくなったが、羊侃は雉尾炬に膏蠟を灌いで投げ込み、これを焼き尽くした。
- さらに高さ十余丈の登城楼を作って城内を見下ろそうとしたが、羊侃は堀が深いので倒れるはずだと言い、その通り攻城楼は進む途中で倒壊した。
- 侯景は攻めあぐみ、内外を断つため長囲を築いたうえ、朱异らの誅殺を再度求めた。城中も逆に賞金をかけ、侯景の首を送る者にはその位と巨額の賞を与えると告知した。
- 朱异・張綰は出撃を主張したが、羊侃は、少兵では敵を破れず、多兵では橋と門の狭さから敗退時の損害が大きいと反対した。にもかかわらず千余人が出戦して敗れ、橋を争って水に落ち、多くが死んだ。
- 羊侃の子羊鷟が敵に捕えられて城下へ引き出されても、羊侃は「一族を傾けて主に報いてもなお足りぬ。早く殺せ」と言い放ち、数日後に再び見せられたときも弓で射ようとした。侯景もその忠義に感じ、結局殺さなかった。
十一月 正徳の即位と東府陥落
- 戊午朔、朝廷は太極殿前で白馬を犠牲に蚩尤を祭り、軍神として勝利を祈った。
- 臨賀王正徳は儀賢堂で帝位につき、普通以来の姦邪政治のため武帝は久しく病み、社稷が危ういので、河南王侯景が位を譲って自分を立てたのだとする詔を出した。大赦・改元を行い、子の見理を皇太子とし、侯景を丞相にし、自らの娘を侯景に嫁がせ、家財も軍費に充てた。
- 侯景は東府を三日攻めても落とせず、自ら出向いて攻めた。宣城王大器の防閣許伯衆が内応して敵兵を城上へ導き、辛酉についに東府は陥落した。南浦侯推と戦士三千は殺され、その屍は杜姥宅に積み上げられ、城中への恫喝に用いられた。
- 侯景は武帝がすでに崩じたと吹聴した。壬戌、太子は武帝に巡城を請い、武帝が大司馬門へ出て蹕声が城上に聞こえると、将士は鼓を打って泣き、ようやく安心した。
江子一兄弟の戦死
- 江子一は、采石方面から敗走して帰った際に武帝から叱責されたが、自分は身を国家に許しており、賊が来れば闕前か闕後かで必ず死ぬと誓っていた。
- 乙亥、江子一は弟の江子四・江子五とともに百余人を率い、承明門から出撃した。賊営の前で挑発していると、侯景軍の騎兵が左右から襲いかかった。
- 江子一は槊をとって突入し、従者が続けないうちに肩を断たれて死んだ。子四・子五も兄とともに出た以上、どうして一人だけ帰れようかと言い、兜を脱いで賊中に突入した。子四は胸を貫かれて死に、子五も首に傷を負って戻り、堀のところで慟哭して絶命した。
城外の民衆が苦しみ、城内でも土山戦
- 侯景は当初、すぐに城を抜けると思って軍律を厳しくしていたが、攻め落とせず食糧も尽きると、兵に民家の米・金帛・子女の掠奪を許した。米価は一升七、八万銭に達し、人が人を食うほどとなり、餓死者は半数を超えた。
- 乙丑、侯景は城の東西に土山を築かせ、身分を問わず士民を駆り出して鞭打ち、疲れた者は殺してその屍で山を埋めた。号哭は地を動かした。城中も対抗して土山を築き、太子や宣城王らも自ら土を担い、畚や鍤を手にした。
- 城上には芙蓉層楼を築き、二千の敢死士に厚い衣袍・甲冑を着せて「僧騰客」と呼び、昼夜交戦させた。大雨で城内の土山が崩れると、賊が乗じて迫ったが、羊侃は火を投じて「火城」を作って退路を断ち、その間に内側に新たな城を築いて食い止めた。
- 侯景は奴婢が降れば良民にしてやると宣言し、朱异の家の奴を儀同三司にまで取り立てた。その奴は錦袍を着て城下で朱异を罵り、たった数日で千人以上の奴婢が侯景へ走った。胡三省は、平時の士大夫が奴婢を虐げた報いが、家のみならず国家にも及んだと嘆く。
湘東王繹、援軍を催す
- 荊州刺史湘東王繹は台城包囲を聞くと、丙寅に戒厳を布き、湘州刺史河東王誉、雍州刺史岳陽王詧、江州刺史当陽公大心、郢州刺史南平王恪らへ檄を飛ばして援軍を命じた。
- 侯景は城内外に檄文を流し、近年の梁は権幸が百姓を搾って奢侈に費やしてきたのであり、自分の挙兵は社稷を倒すためではなく権臣を除くためだと宣伝した。また、外援を当てにしても諸王諸将は身の安全しか考えていない、と人心を揺さぶった。
- さらに東魏主へは臣と称し、寿春攻略は一時の滞在であり、蕭衍は自ら天下の運の尽きるのを知って同泰寺へ捨身したのだ、近く故郷に帰って聖顔を奉じたいとして、母弟妻子の返還まで求めた。
范桃棒の降伏工作、太子が決断できず失敗
- 湘東王繹は己巳、司馬呉曅・天門太守樊文皎らを江陵から出兵させた。
- 捕虜となっていた陳昕は侯景に厚遇され酒を与えられたが、これを利用して范桃棒を説き伏せ、王偉・宋子仙を襲って城に降るよう誘った。范桃棒はこれに応じ、夜に陳昕を縄で城内へ下ろして武帝へ知らせた。
- 武帝は大いに喜び、銀券を刻んで桃棒に与え、事が成れば河南王に封じ、侯景の兵も財貨も女楽も与えると約した。
- だが太子は詐降を疑って決断できず、朱异・傅岐が「受降は常道であり、今こそ撃てば大破できる」と勧めても、城を開ける危険を恐れて踏み切らなかった。范桃棒は「自分は五百人だけを率い、城門に着けば皆甲を脱ぐ」とまで言ったが、太子はなお疑った。朱异は「これを失えば社稷の事は去る」と胸を打って嘆いたが、時すでに遅かった。
- やがて范桃棒は部下に密告され、侯景に殺された。陳昕も約束どおり出てきたところを捕えられ、偽の矢文を書かされそうになったが拒み、結局殺された。
- 正徳の太子蕭見理は夜盗まがいの掠奪をして大桁のあたりで流れ矢に当たり死んだ。
邵陵王綸の援軍、蒋山で敗れる
- 邵陵王綸は鍾離まで来て侯景がすでに采石を渡ったと知ると、昼夜兼行で京口へ戻り、江を渡って援軍に向かった。しかし途中で風が起こって人馬の一、二割が溺れた。
- 綸は西豊公大春・新塗公大成・永安侯確・安南侯駿・趙伯超・蕭弄璋ら歩騎三万を率いて西上した。趙伯超は大路ではなく鍾山を衝いて広莫門へ出るべきだと説き、綸も従ったが、夜道に迷って大きく迂回した。
- 庚辰の朝、軍は蒋山に営した。侯景はこれを見て大いに驚き、掠奪した婦女や財貨を石頭へ送り、逃亡用の船まで準備したうえで、三道から綸軍を攻めた。綸はこれを破ったが、雪寒のため愛敬寺に退いた。
- 乙酉、綸は玄武湖畔に進軍して侯景と対陣したが、その日は戦わなかった。翌日、安南侯駿が敵の後退を逃走と誤認して追撃し、侯景の反撃を受けて潰走した。趙伯超もこれを見て逃げ、諸軍は総崩れとなった。
- 綸は千人足らずを収めて天保寺に入り、侯景は追って寺を焼いた。綸は朱方へ逃げ、将士は氷雪で足を損じる者が続出した。侯景は輜重を奪い、大春や荘丘慧主帥霍俊らを生け捕りにした。
- 丙戌、侯景は戦利品と捕虜を城下に示し、大春らに綸は乱兵に殺されたと言わせようとしたが、霍俊だけは綸はわずかに利を失っただけで、すでに京口へ全軍撤退した、城中は堅守せよと叫んだ。侯景はその義を感じて許したが、正徳がこれを殺した。
蔡洲・江北方面の援軍と封山侯正表の離反
- その夜、鄱陽王範は世子蕭嗣と裴之高・趙鳳挙にそれぞれ兵を率いさせて救援に向かわせ、蔡洲に駐屯させて上流の諸軍を待たせた。範は裴之高に江右援軍を総督させた。
- 侯景は秦淮南岸の住民をすべて北岸へ追い立て、民家を焼き払い、大街以西は地を払ったようになった。
- 北徐州刺史封山侯正表は鍾離にあったが、武帝の召しに対し船や糧が整わないと称して進まなかった。侯景は正表を南兗州刺史・南郡王に封じ、正表は欧陽に柵を立てて援軍を遮断し、表向きは入援を称しながら実は広陵襲撃を狙った。
- 正表は広陵令劉詢に密書を送り、内応として城を焼けと誘ったが、劉詢はこれを南兗州刺史南康王会理に告げた。十二月、会理は劉詢に歩騎千を与えて夜襲させ、正表を大破し、兵糧を奪って援軍に加えた。
十二月 羊侃死去、湘東王方等・王僧辯らの出発
- 癸巳、侍中・都官尚書羊侃が死んだ。城中の恐怖はさらに増した。
- 侯景は巨大な攻城車を作り、丁酉に再び総攻撃した。蝦蟇車で土を運んで堀を埋めた。
- 湘東王繹は世子方等に歩騎一万を率いさせて建康救援に向かわせ、庚子に公安を発たせた。また王僧辯に舟師一万を率いさせ、漢川から食糧を積んで東下させた。胡三省は、方等は俊才で死節の志は立派だが、将として常に自ら矢石を冒すのは国家のために必ずしも最善ではないと論じる。
- 壬寅、侯景は火車で台城東南楼を焼こうとした。城内の材官呉景が巧みに土楼を築いて延焼を防ぎ、さらに侯景が火に紛れて城壁の下を掘り崩そうとしたのを察知すると、城内に弓なりの迂城を築いて対抗し、攻城具を焼き払ったため、侯景軍は退いた。
- 太子は洗馬元孟恭に千人を与えて出撃させたが、元孟恭は左右を連れて侯景に降った。
- 己酉、侯景の土山は城楼に迫ったが、柳津が地道を掘ってその土台を崩すと、外の土山は崩れて多くの賊を圧死させた。さらに城内に飛橋を架け、二つの土山の上に覆いかぶせて火を投じた。東土山の楼柵は焼け尽くされ、侯景は土山戦を断念して自ら攻具を焼いた。
- しかし材官将軍宋嶷が侯景に降り、玄武湖の水を引いて台城へ注ぐ方法を教えたため、闕前は一面の洪水となった。
韋粲・柳仲礼ら援軍、集結するも統一に手間取る
- 武帝は衡州刺史韋粲を散騎常侍に徴し、長沙の欧陽頠に州務を監させた。韋粲は帰途の廬陵で侯景の乱を聞き、兵五千を集めて急行した。豫章では劉孝儀が「正式な勅がないのに軽挙すべきでない」と酒宴を開いていたが、韋粲は杯を地に叩きつけ、すでに宮闕に迫っているのに報を待つ暇はないと怒って出発した。
- 江州刺史当陽公大心が呼び止めると、韋粲は江州は上流の重鎮であり、湓城へ移って声勢を張り、偏将を送れば足りると説いた。大心はこれに従い、中兵柳昕に二千を率いさせて韋粲に従わせた。
- 韋粲が南洲に着くころ、外弟の司州刺史柳仲礼も歩騎一万余で横江に到着した。韋粲は兵糧・武器を送ってこれを助け、自らの私財まで戦士への褒賞に充てた。
- 裴之高も張公洲から船で柳仲礼を渡した。丙辰夜、韋粲・柳仲礼・李孝欽・羊鴉仁・陳文徹らは新林王遊苑に屯した。
- 韋粲は、侯景がもっとも恐れるのは柳仲礼であり兵馬も最精鋭だからと、仲礼を大都督に推した。しかし裴之高は年齢も官位も自分が上なのにその下に置かれるのを恥じ、議は数日まとまらなかった。
- 韋粲は衆中で、今は私情を捨てて国難を除くべきと断言し、裴之高に直接会って激しく責め、ようやく同意させた。こうして柳仲礼が大都督となり、楊白華の子楊雄も郡兵を率いて合流し、援軍は十余万に達して淮沿いに柵を連ねた。侯景も北岸に柵を築いてこれに備えた。
- 侯景は裴之高の弟・甥・子孫を捕えて陣前に並べ、降らねば煮殺すと脅した。裴之高は善射の者に命じて子を射させたが、二度とも当たらなかった。
- 侯景が一万人を率いて後渚に出て挑戦すると、柳仲礼は出撃しようとしたが、韋粲は夕方で味方が疲れているから戦うべきでないと止めた。結局、仲礼は堅く守って出ず、侯景も退いた。
- 湘東王繹は精兵三万を率いて江陵を発し、子の方諸を留守に残した。側近の劉之遴らが三度まで自ら出陣しないよう諫めたが、繹は表面上これを許さなかっただけで、胡三省はもとより親征の本気はなかったと見る。
- 鄱陽王範は梅伯龍に王顕貴を寿陽で攻めさせ、外郭を奪ったが中城は落とせず、兵を増して再攻した。
東魏・西魏の小記事と年末の布陣
- 東魏では高澄が、悪銭が多いことを憂えて私鋳を直ちに禁じる代わりに、市門に重さを量る秤を置き、五銖に満たない銭は流通させない策を議したが、凶作のため見送られた。
- 西魏では宇文泰が、罪のない安定国臣王茂を殺してしまった。尚書左丞柳慶が、君が事実を誤認するのは不明、臣が知って争わないのは不忠だと面前で屈せず諫めたため、宇文泰は悟って急いで赦免を命じたが間に合わず、王茂の家に財物を賜って自らの過ちを示した。
- 丙辰晦、柳仲礼は夜に韋粲の陣に入り、翌日の会戦に向けて諸軍を分配した。韋粲には青塘を守らせたが、韋粲はそこが石頭へ通じる要路で賊が必ず争う場所なので不安を述べた。柳仲礼は、ゆえにこそ韋粲でなければならない、兵が少ないなら援兵もつけるとして、劉叔胤を付けた。