資治通鑑梁紀十四 高祖武皇帝 大同 七年 541年
春・梁と西魏の人事
- 正月辛巳、梁の武帝は南郊を祭り、大赦した。
- 辛丑、明堂を祭った。
- 宕昌王・梁仚定が部下に殺され、弟の彌定が立った。
- 二月乙巳、梁は彌定を河・梁二州刺史、宕昌王に任じた。
- 辛亥、武帝は籍田を耕した。
- 西魏では、幽州刺史・順陽王仲景が罪により死を賜った。
西魏の反乱鎮圧と東魏との往来
- 三月、西魏の夏州刺史・劉平伏が上郡に拠って反乱したが、大都督・于謹が討って捕えた。
- 夏五月、梁は明少遐らを東魏へ派遣した。
- 秋七月、東魏の宜陽王・元景植が死去した。
宇文測と辺境統治
- 西魏は侍中・宇文測を大都督として汾州を担当させた。宇文測は宇文深の兄であった。
- 宇文測の政治は簡素で恩恵があり、東魏と接する地域の士民から信頼された。
- 東魏軍がしばしば略奪に来ると、宇文測はこれを捕えても縛を解き、酒食を与えて客として遇し、食糧まで支給して国境外へ送り返した。
- 東魏側の人々はこれを恥じ、その後は汾・晋間で侵掠がほぼやんだ。
- 宇文測が境外と通じていると告発する者もあったが、宇文泰は「彼は我がために辺境を安んじている。志はよく分かっている」として、告発者を斬った。
蘇綽の改革
- 宇文泰は国家を強め、民を富ませるために時政改革を進めようとし、大行台度支尚書兼司農卿・蘇綽がその中心となった。
- 官員を減らし、二長制を置き、屯田を設けて軍需と国用を支えさせた。
- さらに六条の詔書を作り、九月から施行した。内容は、心を清くすること、教化を厚くすること、土地の利益を尽くすこと、賢良を抜擢すること、獄訟を慎むこと、賦役を公平にすること、の六項であった。
- 宇文泰はこれを非常に重んじ、座右に置き、百官にも習誦させた。地方官は六条と計帳に通じていなければ任官できなくなった。
東魏の法制整備と梁南方の反乱前夜
- 東魏では群官を麟趾閣に集めて法制を議定させ、これを麟趾格と呼んだ。冬十月に頒行された。
- 乙巳、東魏は五万人を動員して漳水沿いの堰を築き、三十五日で工事を終えた。
- 十一月、東魏は彭城王・元韶を大尉、胡僧敬を司空に任じた。胡僧敬は字を用いた名で、東魏皇帝の外戚であった。
- 十二月、東魏は李騫を梁へ派遣した。
交趾の李賁起兵
- 交趾の豪族・李賁は代々の有力者で、仕官の望みがかなわず不満を抱いていた。才藻に富む并韶という人物も官を求めたが、蔡撙は「并」姓に先賢の例がないとして、城門郎のような低い官に任じたため、并韶は恥じて李賁とともに郷里へ帰った。
- ちょうど交州刺史・武林侯蕭諮が苛酷な政治で人望を失っており、李賁は徳州監の立場を利用して数州の豪傑を結集し、反乱を起こした。
- 蕭諮は賄賂を送って李賁のもとから逃れ、広州へ戻った。
- 梁朝は蕭諮に高州刺史・孫冏、新州刺史・盧子雄を加えて討伐軍を組ませた。
東魏の民政安定
- この年、西魏は既存の二十四条に加えて新たに十二条を増補した。
- 東魏では高歓が、各州の絹の調納規格が旧式に合わず民を苦しめているとして、四十尺を一匹に統一するよう奏請した。
- 六鎮の民が戦乱で南へ移り、黄河以東が疲弊する中でも、高歓は河岸や渡津ごとに倉を置き、転漕・軍需・飢饉対策を整えた。
- また幽・瀛・滄・青の海辺四州では製塩によって軍国費をまかない、ようやく国家財政を支えた。
- このころ東方では連年豊作となり、米価は一斛九銭ほどに下がり、山東の民は徐々に生活を立て直した。
東魏の族制批判
- 高澄と静帝の妹・馮翊長公主の間に子の孝琬が生まれると、朝貴は高澄を祝った。高澄は「まず至尊の甥であることを祝うべきだ」と答えた。三日後に皇帝が高澄邸を訪れ、莫大な絹布を賜ると、群臣も競って贈り物をした。
- 臨淮王・元孝友は、百家を族、二十五家を閭、五家を比とする制度では、徴発免除の族帥だけが利を得て、下層の負担が偏っていると上表した。
- 京師の坊などは数百戸でも里正・史だけで十分に運営できており、旧来の三正制に戻して、閭・比の数を減らせば、丁・絹・兵役の面でも大きな利益があると論じた。
- しかしこの建議は尚書省で握りつぶされ、実施されなかった。