資治通鑑梁紀十四 高祖武皇帝 大同 八年 542年

南方の劉敬躬の乱

  • 正月、安成の豪族・劉敬躬が妖術で人心を惑わせ、郡を占拠して反乱した。年号を永漢とし、官属も置き、廬陵を攻めて豫章に迫った。
  • 南方では久しく大きな戦争がなく、住民は軍事に不慣れだったため、大いに動揺した。
  • 豫章内史・張綰は兵を募ってこれに備えた。張綰は張纘の弟である。

王僧辯の初陣

  • 二月戊戌、江州刺史・湘東王蕭繹は、司馬・王僧辯と中兵曹・曹子郢に討伐を命じ、張綰の指揮下に入れた。
  • 二月戊辰、劉敬躬は捕えられて建康へ送られ、斬られた。
  • 王僧辯は王神念の子で、博学で弁才に富み、器量も整っていた。武勇面では矢が札を貫くほどではなかったが、志は高かった。

東西両魏の動き

  • 西魏ではこの年、六軍制を初めて置いた。
  • 夏四月丙寅、東魏は李繪を梁へ派遣した。李繪は李元忠の従子である。
  • 東魏の高歓は鄴に朝見した。
  • 司徒・孫騰は罪により罷免され、東魏では彭城王・元韶が録尚書事、広陽王・元湛が太尉、高隆之が司徒となった。

尉景事件と高歓

  • 初め、尉景は高歓とともに爾朱栄に帰属し、その妻は高歓の姉であった。こうした功臣・姻族の地位を頼みに、貪欲で放縦に振る舞っていた。
  • そのため有司に弾劾されて投獄されると、高歓は三度も宮門に赴いて泣いて助命を請い、ようやく死罪だけは免れた。
  • 丁亥、尉景は驃騎大将軍・開府儀同三司に降格された。
  • 高歓が見舞いに行くと、尉景は寝たまま起きず、「殺す時は早くしろ」と怒鳴った。高歓はなだめ、拝謝した。
  • 辛卯、庫狄干が太傅、領軍将軍・婁昭が大司馬、封祖裔が尚書右僕射となった。
  • 六月甲辰、高歓は晋陽へ帰った。

東魏の対西方軍備

  • 八月庚戌、東魏は侯景を兼尚書僕射・河南道大行台とし、情勢に応じて梁・西魏に防戦・討伐させる大権を与えた。
  • 西魏は王盟を太保とした。

玉壁攻防

  • 東魏の高歓は西魏に対して汾・絳から侵入し、四十里に連なる大営を築いた。
  • 宇文泰は王思政に玉壁を守らせてその進路を断たせた。
  • 高歓は書を送って降れば并州を与えると誘ったが、王思政は「可朱渾道元が降っても并州を得ていないではないか」と皮肉を込めて拒絶した。
  • 冬十月己亥、高歓は玉壁を九日間包囲したが、大雪に遭い、兵士が飢えと凍死で多数失われたため、包囲を解いて去った。
  • 西魏は皇太子・元欽を蒲坂に鎮め、宇文泰も出陣して皂莢まで進んだが、高歓はすでに退却しており、汾水を渡って追っても及ばなかった。
  • 十一月、東魏は可朱渾道元を并州刺史とした。これは王思政への返答の意味もあった。

年末の諸事

  • 十二月、西魏の皇帝は華陰で狩猟し、将士を大いにもてなした。宇文泰も諸将を率いて朝見した。
  • 沙苑の北に万寿殿が起工された。
  • 辛亥、東魏は楊斐を梁へ派遣した。
  • 孫冏・盧子雄は李賁を討つよう命じられていたが、春瘴が起こる季節なので秋まで待つべきだと主張した。ところが広州刺史・新渝侯蕭映はこれを許さず、蕭諮もまた出兵を急がせた。
  • 孫冏らが合浦に至ると瘴癘で兵の六、七割が死に、軍は潰走して帰った。
  • 蕭諮は孫冏と盧子雄が賊と通じて逗留したと上奏し、二人は広州で死を賜った。
  • 盧子雄の弟たちや部将の杜天合・周文育らは、盧子雄の仇を討とうとして広州を攻めた。
  • このとき西江督護・高要太守の陳霸先が精鋭三千を率いて救援し、反乱軍を大破、杜天合を殺し、周文育・杜僧明らを捕えた。陳霸先はその勇を惜しんで彼らを赦し、主帥に取り立てた。
  • 梁朝は陳霸先を直閤将軍とした。ここから陳霸先の名が本格的に現れる。