資治通鑑梁紀十四 高祖武皇帝 大同 六年 540年
春・東魏新宮と西魏の動き
- 正月壬申、東魏は庫狄干を太保とした。
- 丁丑、東魏の君主は新宮に入り、大赦した。新宮は以前から鄴で建設されていたものである。
- 西魏の扶風王・元孚が死去した。
- 二月己亥、梁の武帝は籍田を耕した。
- 西魏は五銖銭を鋳造した。
侯景の出兵と乙弗后の死
- 東魏の侯景は三鴉から出兵して荊州を奪回しようとしたが、西魏の宇文泰が李弼・独孤信に各五千騎を率いさせて武関から出したため、侯景は撤退した。
- 乙弗后はすでに尼とされ別宮に住んでいたが、柔然出身の悼后はなお彼女を警戒していた。そのため乙弗后の子・武都王戊を秦州刺史とし、乙弗后をそこへ同行させた。
- 西魏の皇帝は国政上の事情で乙弗后を廃したものの、なお情を忘れず、ひそかに髪を伸ばさせて呼び戻す意志を持っていた。
- ところが柔然が大挙して黄河を渡り侵攻し、「悼后のために兵を起こしたのだ」との噂も立った。皇帝はそれを全面的には信じなかったが、自らそのような疑いを招いたことを恥じ、中常侍・曹寵に手詔を持たせて乙弗后に自尽を命じた。
- 乙弗后は涙ながらに天子の長寿と天下安寧を祈って自殺し、麦積山の崖を穿って葬られ、寂陵と号した。
柔然備えと王羆の豪語
- 夏、西魏の宇文泰は諸軍を沙苑に集め、柔然に備えた。
- 右僕射・周恵達は兵馬を動員して京城を守り、街路に塹壕を掘らせたうえ、雍州刺史・王羆を呼んで相談しようとした。
- しかし王羆は召しに応じず、「もし柔然が渭北に来るなら、自分が郷里の者を率いて討ち払う。都の中をこれほど騒がせる必要はない。これは周家の若造どもの臆病のせいだ」と言い放った。
- 結局、柔然は夏州まで来て退いた。
- まもなく悼后も病死した。
夏秋・東魏への投降と梁の使節
- 五月乙酉、西魏の行台・宮延和、陝州刺史・宮延慶が東魏に降った。
- 東魏は河北馬場の地に義州を置いて、彼らや関西から帰順した者たちを住まわせた。
- 東魏の高永楽が死去した。
- 閏月朔、日食があった。
- 東魏は皇兄・元景植を宜陽王、皇弟・元威を清河王、元謙を潁川王に封じた。
- 六月、東魏の華山王・元鷙が死去した。
- 秋七月、東魏は李象らを梁に派遣して聘問した。
- 八月戊午、梁は大赦した。
表昻・吐谷渾・周辺諸国
- 戊戌、梁の司空・表昻が死去した。遺言で贈官・諡号・行状・墓碑銘を一切不要とし、朝廷も最終的には本官を贈って穆正公と諡した。
- 冬十一月、西魏の太師・念賢が死去した。
- 吐谷渾では、莫折念生の乱以来西魏との往来が絶えていたが、伏連籌の死後、子の夸呂が立って可汗を称し、伏俟城に都した。領域は東西三千里、南北千余里に及び、中国風の官号も備えていた。
- この年、吐谷渾は柔然を経由して初めて東魏に使者を送った。