春正月 梁の改元前後と北魏の州県再編
- 梁は徐勉を僕射とし、武帝は南郊を祭った。
- 北魏では皇甫度が司徒となり、蕭宝寅は司空に進んだ。
- 北魏は定州・相州の四郡を分けて殷州を置き、博陵の崔楷を刺史とした。崔楷は兵糧の支給を求めたが何も与えられず、それでも家族を伴って赴任した。
- 葛栄が州城へ迫ると、弱者を逃がせとの勧めもあったが、崔楷は一度出した幼子と娘まで連れ戻し、自分だけが生き延びて忠を欠くことはできぬと語った。戦力差は大きく、守具も乏しかったが、崔楷は将士を励まし、皆もまた「崔公が百口の家族を惜しまぬのに、我らが一身を惜しむ理由はない」と奮戦した。やがて城は陥ちたが、崔楷は節を守って屈せず、葛栄に殺された。
関中の大乱
- 蕭宝寅は数年にわたる出兵で将士が疲弊する中、秦州方面の賊に涇州で大敗し、散兵一万余を収めて逍遥園に屯した。
- 東秦州刺史潘義淵は汧城をもって賊に降り、莫折念生は岐州に迫った。城人は刺史魏蘭根を捕えてこれに応じ、豳州刺史畢祖暉は戦死し、行台辛深も城を捨てて逃走した。北海王元顥の軍も敗れ、胡引祖は北華州を、叱干麒麟は豳州を拠って莫折天生に呼応した。関中は大きく乱れた。
- 雍州刺史楊椿は七千余の兵を募って防衛に当たり、侍中兼尚書右僕射・行台に加えられ、関西諸将を統轄した。
- 北地功曹毛鴻賓が賊を渭北へ引き入れて掠奪させると、録事参軍楊侃は三千で奇襲した。毛鴻賓は恐れて立功を願い出て、宿勤烏過仁を捕えて送った。
- 莫折天生が雍州へ攻め寄せた際には、蕭宝寅配下の羊侃が塹壕に隠れて射殺し、賊軍は潰走した。
北魏官僚の建言と空振りの親征
- 北魏の路思令は、敗因は将帥の人選にあるとして、近年の寵臣・貴族の子弟は勇ましい口先ばかりで、大敵を前にすれば恐れて用をなさず、兵器も整わず、士卒も逃げると厳しく論じた。賞罰を明確にし、士を練り、先に弁士で説諭し、それでも従わぬ者を討つべきだとしたが、朝廷は採用しなかった。
- 北魏は皇甫度を太尉に移し、さらに四方未平を理由に内外戒厳して皇帝親征を予告したが、今回も実行しなかった。
東部戦線 梁軍の進撃
- 譙州刺史湛僧智は北魏東豫州を包囲し、彭羣・王辯は琅邪を囲んだ。北魏は青州・南青州に救援を命じた。
- 司州刺史夏侯夔は裴之礼らを率いて義陽道から進み、平静・穆陵・陰山の三関を攻略した。
- 北魏東清河郡では山賊が群起し、房景伯が太守に任じられた。かつて無礼を働いて逃げた劉簡虎を捕えると、その子を西曹掾にして山賊への説得役としたため、景伯が私怨にこだわらないと知った賊らは次々に降った。
- 房景伯の母崔氏は、貝丘のある婦人が息子の不孝を訴えると、親子を同席させて景伯の母子関係を見せ、二十日余りかけて自発的に悔い改めさせた。ついにその子は頭を打ち流血して帰順を願い、後に孝子として知られた。
二月から三月 東郡・彭城方面
- 秦賊は北魏の潼関を奪った。
- 東郡民趙顕徳が反乱して太守裴烟を殺し、都督を自称した。
- 成景儁が彭城を攻め、泗水を堰き止めて灌水しようとしたが、北魏の崔孝芬が李叔仁らとともに撃退した。
- 崔孝芬は、かつて元乂党として除名されていたため、出陣前に胡太后から元乂の車中で自分を「老嫗」と呼んだことがあるのではないかと問い詰められた。孝芬は、もし本当にそんな話があったなら自分より近しい者から漏れたはずだと応じ、太后も恥じ入った。
- 三月、北魏主は西討を命じて戒厳したが、秦賊が西へ去って潼関を回復したため、今度は北討に転ずるとした。しかし実際にはどちらも行われなかった。
三月 梁の改元
- 梁の武帝は同泰寺を造営し、その正面に大通門を開いた。「同泰」と「大通」が反語で響き合うことを喜んだためである。
- 武帝は朝夕同泰寺へ行幸し、常にこの門を出入りした。
- 辛未、武帝は同泰寺で捨身を行い、甲戌に宮へ帰って大赦し、年号を大通と改めた。
四月 北魏の内乱鎮圧と蕭宝寅再起用
- 北魏将の元斌之は東郡を討ち、趙顕徳を斬った。
- 柔然の頭兵可汗が北魏へ使者を送り、貢物を献じるとともに群賊討伐への協力を申し出たが、北魏はその反覆を恐れて夏を理由に先送りした。
- 蕭宝寅は涇州敗戦ののち一時平民に落とされていたが、楊椿が病で解任を求めたため、再び都督雍・涇など四州諸軍事、征西将軍、雍州刺史、開府儀同三司、西討大都督に任じられた。
- 楊椿は帰郷にあたり、子の楊昱へ「宝寅を刺史にすること自体はまだしも、その補佐を本人任せにしたのは大きな失策だ。喜色があまりに強く、賞罰も常軌を外れており、異心がある」と述べ、帝と太后、宰輔に伝えるよう命じた。楊昱はその通りに諫めたが、受け入れられなかった。
五月から六月 淮北で梁軍優勢
- 成景儁は臨潼・竹邑を落とした。
- 東宮直閤の蘭欽は蕭城・厥固を奪い、北魏将曹龍牙を斬った。
- 六月、北魏都督李叔仁が劉鈞の乱を平定した。
七月 西華の反乱と曹世表の決断
- 北魏陳郡の西華で劉獲・鄭辯が反乱し、年号を天授と改めたうえ、湛僧智と内通した。
- 北魏は曹世表を東南道行台として討伐にあたらせ、源子恭を東豫州に移した。諸将は賊が強く官軍が弱いとして戦いを避けようとしたが、曹世表は病身を押して輿で出てきて、是云宝に「劉獲を破れば湛僧智も退く」と説いた。
- その夜に精兵を出し、暁に劉獲を急襲して大破し、残党も平らげた。湛僧智はこれを聞いて撤退した。鄭辯は源子恭と親しい者の家に潜伏したが、曹世表は集めた将吏の前で源子恭を責め、ついに鄭辯を捕えて斬った。
七月から八月 安楽王鑒の叛乱と鄴の陥落
- 北魏相州刺史の安楽王元鑒は、裴衍とともに信都救援に向かったが、内心では北魏多難に乗じる野心を抱いていた。
- やがて鄴に拠って叛き、葛栄へ降った。
- その以前、侍御史の高道穆が相州で李世哲の不法を弾劾したことから、権勢家の李神軌が報復し、高道穆の兄高謙之を廷尉に繋いだ。赦免が出る寸前、李神軌は胡太后に働きかけて高謙之を先に死なせ、朝士たちは深く悲しんだ。
- 彭羣・王辯は夏から秋まで琅邪を囲んだが、北魏青州刺史元劭が鹿悆らを、南青州刺史胡平が劉仁之を派遣してこれを破り、彭羣は戦死した。
- 八月、北魏は源子邕・李神軌・裴衍を鄴攻めに送り、安楽王元鑒は弟の元斌之に夜襲させたが失敗した。源子邕はそのまま進んで鄴を陥し、元鑒を斬って首を洛陽へ送った。あわせて、その姓を拓拔氏に戻した。
九月 秦州・南秦州の離反と梁軍の広陵攻略
- 秦州城民の杜粲が莫折念生を殺して全家を滅ぼし、自ら州務を執った。南秦州でも城民の辛琛が州政を掌握し、蕭宝寅に降伏を申し入れた。
- 北魏はふたたび蕭宝寅を尚書令とし、旧封を回復した。
- 湛僧智は北魏東豫州刺史元慶和を広陵で包囲し、北魏将元顕伯が救援した。夏侯夔も武陽から兵を進めて湛僧智を助けた。
冬十月 広陵の降伏と渦陽戦
- 夏侯夔が広陵城下に着くと、元慶和は城を挙げて降った。夏侯夔はその功を湛僧智へ譲ろうとしたが、湛僧智は「元慶和は公に降りたいのであって、自分ではその意にかなわない。また自分の兵は寄せ集めで統制が難しいが、公の軍は厳整で、降人をよく安んじられる」と述べ、受降を辞退した。
- 夏侯夔が城に登って北魏の旗を下ろし梁の旗を立てると、元慶和は兵を束ねて退去し、城中の官民は安堵した。男女四万余を得た。司馬光は、湛僧智が長期の攻囲の功を争わず、国事を優先したことを称賛している。
- 元顕伯は夜に逃げ、梁軍は追撃して多数を斬獲した。梁は湛僧智に東豫州刺史を兼ねさせて広陵に鎮させ、夏侯夔は安陽に屯した。さらに別将を楚城へ遣わし、義陽から北へ抜ける道を断って、梁と北魏の交通を遮断した。
渦陽の攻防
- 曹仲宗・陳慶之は渦陽を攻め、尋陽太守韋放がこれに合流した。
- 北魏の費穆が急襲してきたが、韋放の陣はまだ未完成で、麾下はわずか二百余人だった。それでも韋放は兜を脱いで床几にすわり、平然と指揮し、兵は皆必死に戦って百人力を発揮し、魏兵を退けた。
- 北魏はさらに元昭ら五万を派遣し、前軍が駝澗まで進んだ。陳慶之は敵が集結しきる前に二百騎でこれを撃ち破って士気を挫き、その後諸将と連営して渦陽城を背に魏軍と対峙した。
- 春から冬に及ぶ長期戦で梁軍も疲弊し、魏軍が後方に砦を築こうとしたため、曹仲宗らは退却を議した。陳慶之は軍門で杖節し、「ここまで一年を費やし、莫大な軍費を使って、今になって退くのは功名ではなく略奪のために集まったのと同じだ」と強く非難し、無断撤退は密勅に従って処断するとまで言って押しとどめた。
- 魏軍は十三城を築いて梁軍を封じようとしたが、陳慶之は夜襲して四城を落とした。渦陽城主王緯が降ると、韋放は降者三十余人を選んで各魏営に知らせ、陳慶之は俘虜や首級を陳列して鼓噪しながら進んだ。九城はことごとく潰え、渦水は死体でむせぶほどとなり、城中男女三万余を得た。
十月 蕭宝寅の叛乱
- 涇州で敗れて以来、蕭宝寅は洛陽へ帰って罪を請うべきか、それとも関中に留まって功で償うべきか迷っていた。出兵多年で財を尽くし、一朝の敗戦で内心穏やかでなく、北魏朝廷も彼を疑っていた。
- このころ中尉酈道元は厳格で、司州牧の汝南王元悦の寵臣丘念を捕えて獄に下し、太后が赦そうとしても殺し、そのうえ元悦まで弾劾した。元悦は、蕭宝寅の反意がすでに露わなのを知りつつ、酈道元を関右大使として派遣し、逆に宝寅を刺激した。
- 蕭宝寅は道元の派遣を自分を狙ったものとみて恐れ、長安の軽薄な若者たちにも挙兵を勧められた。柳楷は「あなたは斉の明帝の子であり、人望にかなう。関中を治めるべき時だ」とそそのかした。
- 酈道元が陰盤駅に至ると、蕭宝寅は郭子恢に命じてこれを殺させ、表向きには白賊に害されたと報告し、自分は楊椿父子に讒されたのだと弁明した。
- 蕭宝寅は行台郎中の蘇湛にも計画を打ち明けたが、蘇湛は大声で泣き、「朝廷の恩を受けながら、敗残の兵で関中を割拠し鼎を問うなど成るはずがない。長安の博徒と謀るだけでは成功しない」と厳しく諫めた。蕭宝寅はなお説得したが、蘇湛は協力を拒み、郷里武功への帰還を願い出て許された。
- 甲寅、蕭宝寅は自ら斉帝を称し、元号を隆緒と改め、百官を置いた。
- しかし都督長史毛遐とその弟毛鴻賓は、氐羌を率いて馬祇柵でこれに抗した。蕭宝寅が盧祖遷を遣わすと、逆に討たれてしまう。蕭宝寅は南郊祭祀と即位礼の最中に敗報を聞き、色を失って狼狽しながら帰営した。
- 周恵達は洛陽から逃げ帰って蕭宝寅に加わり、光禄勲となった。
- 丹陽王蕭贊は蕭宝寅の叛乱を聞いて恐れ、白馬山へ逃れようとしたが、河橋で捕えられた。北魏主は謀議に加わっていないと知って釈放し、慰撫した。
- 行台郎封偉伯らも関中豪傑とともに蕭宝寅誅殺を図ったが、事が漏れて殺された。
- 北魏は長孫稚を行台として蕭宝寅討伐に向かわせた。
- また正平の薛鳳賢が反乱し、宗族の薛修義も河東で塩池を押さえて蒲坂を囲み、東西で呼応して蕭宝寅に応じたので、宗正珍孫に討たせた。
十一月 梁の西徐州設置と信都陥落
- 梁は蕭淵藻を北討都督として渦陽に鎮させ、渦陽を西徐州とした。
- 葛栄は春から冬まで信都を囲み、冀州刺史元孚は将士を励まして昼夜守ったが、ついに糧食が尽き、外援もなく、城は陥ちた。
- 葛栄は元孚を捕え、城民を追い出したため、凍死者が十の六、七に及んだ。
- 元孚の兄元祐は防城都督で、葛栄が生死を議した際、兄弟は互いに自分の責任だとして、相手を助けるため自分が死ぬと争った。都督潘紹ら数百人もひれ伏して、自分たちを処刑して使君を生かしてほしいと願った。葛栄は彼らを北魏の忠臣義士と認め、同じく拘禁されていた五百人を赦した。
- 北魏は源子邕を冀州刺史として葛栄討伐に向かわせ、裴衍も同行を願い出た。源子邕は、裴衍が行くなら自分を留め、自分が行くなら裴衍を留めるべきだ、無理に同行させれば危ういと訴えたが、許されなかった。
十二月 陽平の大敗と各地の帰降
- 戊申、源子邕・裴衍は陽平東北の漳水曲で、十万を率いる葛栄に撃たれ、そろって敗死した。
- 相州の吏民は冀州陥落と源子邕らの敗死を聞き、我が身も危ういと恐れたが、相州刺史李神は平然として将士を励まし、州内は一丸となって守った。葛栄は精鋭を尽くして攻めたが、ついに陥とせなかった。
- 秦州では民の駱超が杜粲を殺し、北魏に降った。関中・隴右では群盗が互いに主を殺して一時の利を争う状況が続いた。