春正月 北魏北辺の反乱拡大
- 北魏で大赦が行われ、汝南王元悦が太尉を兼ねた。
- 北魏の安州で、石離・宂城・斛塩の三戍の兵が反乱し、杜洛周に呼応した。杜洛周は松岍から駆けつけ、反乱軍は二万に膨れ上がった。常景は別将の崔仲哲を軍都関に置いて遮断させたが、崔仲哲は戦死し、元譚の軍も夜のうちに潰走した。北魏は李琚を後任の都督にした。
- もとより広陽王元深は城陽王元徽の妃と密通しており、元徽は胡太后に重用されていた。恒州の者が元深を刺史に推そうとすると、元徽は「心中が測れない」と評した。杜洛周の乱が起こると、恒州の五原降戸が元深を主に立てようとしたため、元深は恐れて洛陽帰還を願い出た。北魏は楊津を北道大都督とし、元深を吏部尚書に転じさせた。
- 五原降戸の鮮于修礼らは、北鎮の流民を率いて定州の左城で反乱し、年号を魯興と改めたうえで州城へ進軍した。州兵は敗れ、楊津が霊丘から急行して定州城に入った。鮮于修礼が来ると楊津は出撃を望んだが、長史の許被が反対したため、楊津は剣で許被を打って追い払い、自ら出戦して数百人を斬り、賊を退かせた。これで城中の不安はいくぶん収まり、楊津はのち定州・安州刺史と北道行台を兼ねた。
- 北魏は長孫稚を大都督北討諸軍事とし、河間王元琛とともに鮮于修礼討伐に当たらせた。
二月 梁軍の北伐中止
- 梁の北伐軍は解厳し、大規模作戦はいったん解かれた。
三月 爾朱栄が北魏西部の叛乱を鎮圧
- 北魏西部の勅勒である斛律洛陽が桑乾西で反乱し、費也頭牧子と結んだ。
- 爾朱栄は深井で斛律洛陽を、河西で牧子を破った。
四月 元順の直諫と北魏朝政の混乱
- 梁の臨川靖恵王蕭宏が死去した。
- 北魏では大赦があり、城陽王元徽が儀同三司となった。
- 元徽は徐紇と組み、侍中元順を太后に讒言して護軍将軍へ左遷した。元順は辞去の際、徐紇を春秋・戦国以来の讒臣になぞらえて激しく非難し、刀筆の小才にすぎず朝廷の秩序を乱す者だと面前で叱責した。胡太后は黙したままだった。
- 北魏朔州では、城民の鮮于阿胡らが州城を占拠して反乱した。
- 杜洛周は南下して薊城周辺を略奪したが、常景配下の梁仲礼に破られた。だがその後、李琚が薊城北方で杜洛周と戦って戦死し、常景はみずから防戦して杜洛周を上谷へ退かせた。
長孫稚と河間王琛の確執
- 長孫稚は鄴まで来たところで大都督を解かれ、河間王元琛の指揮下に入れられた。長孫稚は、かつて淮南で元琛が敗れ自分が救ったことで私怨が生じており、その節度を受けるのは難しいと訴えたが、北魏朝廷は認めなかった。
- 呼沱に進んだ後、長孫稚は戦いたがらなかったが元琛は従わず、鮮于修礼が五鹿で長孫稚を急襲した際にも救援しなかった。そのため長孫稚軍は大敗し、両者とも罷免された。
五月 元略の帰国と厚遇
- 北魏主は北討を予告して戒厳を命じたが、結局は親征しなかった。
- 江南へ亡命していた元略は、北魏へ帰る望みが絶えず、胡太后も召還を望んでいた。刁双が罪を赦されたことを利用して、北魏は江革と祖暅之を梁へ送って元略帰還を求めた。梁の武帝は礼を尽くして元略を送り返し、贈与も手厚かった。
- 元略が淮水を渡ると、北魏は侍中に任じ、義陽王に封じ、随行・関係した者にも官爵や賞を広く与えた。元略の道中で一食一宿を提供した者にまで恩賞が及んだ。
北魏朝廷で元深への猜疑が強まる
- 北魏は高陽王元雍を大司馬とし、再び広陽王元深を大都督として鮮于修礼討伐に当たらせた。章武王元融・裴衍が左右都督としてその節度を受けた。
- 元深が子を従軍させると、城陽王元徽は胡太后に「異志の兆しだ」と告げ、元融・裴衍に密かに元深を警戒させた。しかも二人はその勅を元深本人に見せたため、元深は恐れて何事も自決できなくなった。
- 元深は太后への返答で、元徽が自分を骨の髄まで憎み、功ある部下まで排斥し、罪をことさらに重くして殺しているため、将士は皆おびえていると訴えた。元徽を外地へ出せば忠力を尽くせると願ったが、太后は聞き入れなかった。
- 元徽は鄭儼らと結んで党派をつくり、表面は柔和でも内実は嫉妬深く、賞罰を私情で左右したので、北魏の政治はいっそう乱れた。
五月から六月 各地の叛乱
- 北魏燕州刺史の崔秉は、長く杜洛周に包囲されていた燕州城を捨て、定州へ逃れた。
- 北魏は宗正珍孫を都督として、汾州で反乱した胡族を討たせた。
- 絳蜀の陳双熾が衆を集めて反乱し、始建王を称した。長孫稚が討蜀都督となったが、別将の薛修義が単騎で陳双熾の陣営に赴いて利害を説いたところ、陳双熾は即座に降った。北魏は薛修義を龍門鎮将に任じた。
- 北魏は元略を東平王に移封し、まもなく大将軍・尚書令にまで昇らせ、胡太后の信任を受けて城陽王元徽と並ぶ地位に置いた。ただし実際には徐紇・鄭儼が権勢を振るい、元略も逆らえなかった。
七月 常景が杜洛周を破る
- 杜洛周は都督王曹紇真らに薊南を掠めさせたが、常景は于栄らを栗園に派遣し、大破して王曹紇真を斬り、将卒三千余を討ち取った。
- 杜洛周は南へ范陽に向かったが、常景と于栄らは再び破り、杜洛周はなお攻勢を続けきれなかった。
- 一方、恒州では鮮于阿胡が朔州流民を率いて侵攻し、平城を陥れた。恒州を守っていた元纂は冀州へ逃れた。
梁の淮北攻勢再開
- 梁の武帝は、淮水の堰によって寿陽城が水没寸前だと聞き、再び元樹らを北道から黎漿へ、夏侯亶らを南道から寿陽へ向かわせた。
八月 葛栄の台頭と爾朱栄の肆州掌握
- 鮮于修礼の部下の元洪業が主君を斬って北魏に降ろうとしたが、葛栄がさらに元洪業を殺して自立した。
- 爾朱栄は恒州・朔州討虜諸軍事の都督として肆州を通過した際、刺史尉慶賓が彼を忌んで城門を閉ざしたため、怒って肆州を襲撃し、慶賓を捕らえて秀容へ連れ帰った。従叔父の羽生を刺史に置いたが、朝廷はこれを制止できなかった。
- このころ賀抜勝・賀抜岳兄弟は散り散りになっていたが、爾朱栄は肆州で賀抜勝を得て大いに喜び、別将に任じて軍事上の大事を多く諮った。
九月 葛栄の僭号と元深の破滅
- 梁の鄱陽忠烈王蕭恢が死去した。
- 葛栄は鮮于修礼の衆を吸収したのち瀛州へ向かい、広陽王元深は交津からこれを追った。葛栄は白牛邏で章武王元融を急襲して殺し、自ら天子を称して国号を斉、元号を広安とした。
- 元深は元融敗死を聞いて進軍を止めた。侍中元晏は、元深が野心を抱いてぐずぐずしているうえ、于謹がその謀主だと胡太后に密告した。太后はこれを真に受け、于謹を捕らえた者に重賞を与える布告を尚書省門に掲げた。
- 于謹は自ら宮門へ赴いて事情を説明し、元深の忠誠と停車の理由を述べたため、胡太后も最終的には許した。
- しかし元深が定州へ退くと、定州刺史楊津はすでに元深を疑っていた。元深が都督毛諡らと誓約を交わしたことを、毛諡は謀反の相談と解して楊津に密告した。楊津は毛諡に討伐を命じ、元深は逃走したが、博陵で葛栄の遊騎に捕えられ、葛栄に引き渡された。
- 賊中には元深を喜ぶ者もいたが、葛栄は新たに立った自分の地位を脅かされることを恐れ、元深を殺した。城陽王元徽はさらに元深が賊に降ったと誣告し、その妻子を拘引したが、府佐の宋遊道が弁護してようやく釈放された。
- 常景は杜洛周軍を破り、武川王賀抜文興らを斬り、四百人を捕虜にした。
- 徳興が北魏平州を陥し、刺史王買奴を殺した。
- 天水の呂伯度は、もと莫折念生の党だったが、胡琛に従って念生を攻めるうち、しばしば勝利し再び顕親を拠点としたのち、胡琛に叛いて北魏側へついた。北魏は呂伯度を涇州刺史・平秦郡公にした。
- ところが元修義が隴口で停滞して進まず、その隙に莫折念生が再び反し、秦州行台左丞崔士和を捕えて胡琛へ送り、道中で殺した。その後まもなく呂伯度も万俟醜奴に殺され、賊勢はさらに強まった。
- 蕭宝寅はこれを抑えられず、胡琛と莫折念生は互いに通じ合うようになった。かつて破六韓抜陵に慢侮の態度を取っていた胡琛は、その家臣費律に高平で誘殺され、万俟醜奴がその衆を併合した。
冬十一月 丁貴嬪の死と寿陽の帰属
- 梁では大赦があった。
- 丁貴嬪が死ぬと、太子蕭統は悲嘆のあまり水も口にしなかった。武帝は「孝も命を損なってはならない」と諭し、ようやく少量の粥を取らせた。太子はもと肥壮だったが、このときやつれて半減した。
- 夏侯亶らの軍は北魏境へ進み、各地を降した。
- 北魏揚州刺史李憲は寿陽をもって梁に降り、陳慶之が入城した。あわせて五十二城が帰順し、男女七万五千人を得た。
- 梁は李憲を送還し、寿陽を再び豫州とし、合肥を南豫州に改め、夏侯亶を豫州・南豫州刺史とした。夏侯亶は軽刑薄税・農業奨励・徭役軽減を行い、戦乱で散った民戸をしだいに呼び戻した。
- 杜洛周は范陽を包囲し、范陽の民は北魏幽州刺史王延年を捕えて常景とともに杜洛周へ引き渡し、城門を開いて降った。
- 北魏の斉州平原では劉樹らが反乱し、郡県を落としたが、刺史元欣が房士達に討たせて平定した。
- 曹義宗は穣城を根拠に新野を脅かし、北魏は魏承祖と南道行台辛纂を救援に出したが、義宗に敗れて前進できなかった。
年末 北魏財政の窮乏と辛雄の上疏
- 北魏では賊が日に日に増え、征討はやまず、国用は尽き、六年分の租調を前借りしても足りなかった。官人への酒肉支給を止め、市場に入る者や宿駅・商店にも課税したため、民の怨嗟が広がった。
- 吏部郎中の辛雄は、乱の根本原因は華夷の対立ではなく、郡県に適任者がいないことにあると上奏した。郡県官を三等に分けて清官の選法で補い、停年の拘束をなくし、守令として実績を積んだ者を京官へ登用すべきだと論じたが、採用されなかった。