春二月 藉田と先農祭
- 二月丁亥、武帝は藉田を親耕し、大赦した。
- 宋・斉では藉田は正月に行っていたが、この年から二月に改められた。
- 斎戒して先農を祀ったのも、古礼への意識を示すものである。
春 田益宗父子の失脚
- 北魏東豫州刺史の田益宗は老いて、子孫とともに収奪を重ね、部内の人々を苦しめていたため、みな魏への叛意を語るようになった。
- 北魏主は中書舍人の劉桃符を慰労使として送ったが、帰朝した桃符は田益宗の横暴を詳しく報告した。
- 北魏主は詔して、子の魯生が淮南で貪暴を重ねており、それが父の忠誠を損なうから早く都へ来させるよう命じた。
- 魯生がなかなか来なかったため、田益宗を鎮東将軍・濟州刺史へ転じることにし、なお交代に応じないのを恐れて、李世哲と劉桃符に兵を率いさせ、ひそかに広陵へ入らせた。
- 魯生・魯賢・超秀の兄弟は関南へ逃げ、梁兵を招いて光城以南の諸戍を攻め取った。
- 武帝は魯生を北司州刺史、魯賢を北豫州刺史、超秀を定州刺史に任じた。
- 三月、李世哲は彼らを破り、北魏は再び郡戍を置いた。
- 田益宗が洛陽に戻って、桃符の讒言と、自分の子らが桃符に追われて叛かざるをえなかった事情を訴え、対質を求めたが、北魏主は「すでに大赦の対象とした以上、改めて獄にする必要はない」と退けた。
夏秋 梁の皇子封建
- 秋七月乙亥、武帝は皇子の蕭綸を邵陵王、蕭繹を湘東王、蕭紀を武陵王に封じた。
冬十月 北魏の対柔然使節
- 冬十月庚辰、北魏主は驍騎将軍の馬義舒を遣わし、柔然を慰諭させた。
冬十月―年末 北魏の蜀征討計画
- かつて柔然の王足が入寇した際、武帝は寧州刺史の李略に防戦を命じ、平定後には益州を与えると約したが、実際には任じなかった。李略は不満を抱いて異心を生じ、武帝に殺された。
- その甥の李苗は北魏へ逃げた。また、かつて益州主簿だった淳于誕も漢中から北魏へ入っていた。
- 二人はともに北魏主へ蜀攻略策を説き、北魏主はこれを信じた。
- 辛亥、高肇を大将軍・平蜀大都督とし、歩騎十五万で益州を攻めることにした。
- 益州刺史の傅竪眼には巴北から、梁州刺史の羊祉には涪城から、安西将軍の奚康生には綿竹から、撫軍将軍の甄琛には剣閣から進ませる計画であった。
- 乙卯には中護軍の元遥を征南将軍とし、梁楚方面の鎮撫を命じた。
- 侍中の游肇は、近年の水旱で民は疲れており、これまでの領土拡張は多くが城主の帰順による無戦の獲得だった、今回の計画は真偽不明の亡命者の話に頼るもので、蜀は地勢険隘で城戍も備わっている以上、大軍を軽々しく動かせば後悔すると諫めたが、聞き入れられなかった。
- 淳于誕は驍騎将軍、李苗は龍驤将軍となり、ともに道案内役の統軍を兼ねた。
年内 浮山堰の着工
- 北魏から降った王足が、淮水を堰き止めて寿陽を水攻めにすべきだと献策した。
- 武帝はこれを採用し、水工の陳承伯と材官将軍の祖暅に地形調査をさせた。
- 二人は、淮中は砂地で軽く、堅固な堰は築けないと答えたが、武帝は聞き入れなかった。
- 徐州・揚州の民から二十戸ごとに五丁を出させ、役夫と戦士あわせて二十万を動員した。
- 太子右衛率の康絢を都督淮上諸軍事として工事を統括させ、鍾離に拠点を置いた。
- 南は浮山、北は巉石に至るまで、両岸に土を築いて中流でつなぐ大規模工事が始まった。
年内 北魏華州の調絹改革
- 北魏では前から調絹の尺度が不当に長く、担当官がその長短を操作して賄賂を取っていた。
- 華州刺史の楊津は、すべて公尺どおりに改め、上質の納入者には杯酒を与え、少し劣るものも受け取るが酒は与えず恥とした。
- その結果、人々は競って良質の絹を納め、官への調は以前よりもかえって良くなった。
年内 北魏東宮運用と王顕・陽固
- 北魏太子がまだ幼かったため、これまでは東宮の出入りも乳母だけが付き添い、宮臣は把握していなかった。
- 詹事の楊昱は、今後は太子召喚には必ず手詔を下し、宮臣にも随従させるよう求め、北魏主は万歳門までの随従を認めた。
- また、御史中尉の王顕は治書侍御史の陽固に、自分が太府卿として府庫を充実させたことをどう思うか尋ねた。
- 陽固は、百官俸禄の四分の一や州郡の贓贖をすべて京師へ集めれば、府庫が満ちるのは当然であり、蓄積を好む臣下がいれば盗臣も現れる、戒めるべきだと答えた。
- 王顕は不快に思い、ことさらに事件を作って陽固を免官した。