資治通鑑梁紀四 高祖武皇帝 天監十四年 十五年 515年

春正月 梁の儀礼と北魏の皇帝崩御

  • 春正月朔、梁の武帝は太子の冠礼を太極殿で行い、大赦を実施した。
  • 辛亥、武帝は南郊で祭祀を行った。
  • そのころ北魏では、宣武帝が病にかかり、丁巳に式乾殿で崩じた。三十三歳で、のちに諡を宣武皇帝、廟号を世宗とされた。
  • 北魏では崔光・于忠・王顕・侯剛らが東宮から太子の元詡を迎え、即位手続きを進めた。王顕は夜明けまで待つべきだと主張したが、崔光は「帝位を空けてはならない」として即時即位を断行した。
  • 太子はその場で璽綬を受け、袞冕を着して太極殿で即位した。これがのちの粛宗である。
  • 急変のため百官を整然とは集められず、夜のうちに庭中へ並ばせて拝賀させた。

胡貴嬪の保護と新政権の始動

  • 高太后は胡貴嬪を殺そうとしたが、宦官の劉騰が侯剛に知らせ、侯剛はさらに于忠へ伝えた。
  • 于忠が崔光に相談すると、崔光は胡貴嬪を別所へ移して厳重に守らせた。このため胡貴嬪は四人に深く恩義を感じるようになった。
  • 戊午、北魏は大赦を行った。
  • 己未、西方の蜀攻めの兵と東方の淮水防備の兵をすべて呼び戻した。

広平王懐・任城王澄・高陽王雍をめぐる政局

  • 広平王懐は病身をおして弔問に赴き、先帝に哭し、さらに新帝にも会おうとしたため周囲は驚いたが、崔光が後漢の先例を引いて制し、懐もこれに従った。
  • それ以前から高肇が専権し、宗室で声望ある者を嫌っていたため、任城王澄は讒言を恐れて酒に溺れ、政務に関わらないようにしていた。
  • 宣武帝の死後、高肇が外で兵を握っていたため、朝野は不安に包まれた。
  • 于忠らは、幼帝が親政できない以上、高陽王雍を西柏堂に入れて政務をみさせ、任城王澄を尚書令として百官を総覧させる案を皇后に上奏した。
  • ところが王顕は中常侍孫伏連らと結び、この上奏を握りつぶして、高肇を録尚書事、自身と高猛を侍中とする皇后令を偽作した。
  • 于忠らは王顕を禁中で捕え、詔して爵位を削り、右衛府に送ったところ一夜で死んだ。
  • 庚申、正式に門下の上奏どおり、高陽王雍と任城王澄に政務を委ねる詔が下され、内外ともこれに服した。

二月 高肇の帰還と誅殺

  • 庚辰、皇后は皇太后となった。
  • 北魏の新帝は名を用いて高肇に先帝崩御を告げ、その帰還を命じた。
  • 高肇は大いに恐れ悲しみ、憔悴して洛陽へ向かった。瀍水・澗水付近まで来ると、家人は迎えに来ても会おうとしなかった。
  • 辛巳、高肇は喪服で哭し、殿に上って哀悼の礼を尽くした。
  • しかし高陽王雍と于忠は密かに計って、舎人省に伏兵を置き、高肇を西廡から省中へ入れたところで邢豹らに絞め殺させた。
  • 詔ではその罪悪を暴きつつも「自殺した」と発表し、一族や党与の多くは追及せず、士礼で葬らせた。

北魏の蜀遠征の余波

  • 北魏の蜀伐は晋寿まで進み、蜀側は大いに恐れた。
  • 傅豎眼は歩兵三万で巴北を攻め、梁は寧州刺史任太洪を陰平の間道から派遣してその州へ入れ、氐人・蜀人を誘って北魏の補給路を絶とうとした。
  • だが北魏本軍が北還すると、任太洪は東洛・除口の二戍を破って梁軍来援を装い、氐・蜀の多くを味方に引き入れて関城を包囲した。
  • これに対し傅豎眼は姜喜らを派遣して任太洪を大破し、任太洪は関城を捨てて退いた。

二月末から三月 北魏の人事と高太后の廃斥

  • 癸未、高陽王雍を太傅・領太尉、清河王懌を司徒、広平王懐を司空とした。
  • 甲午、宣武皇帝を景陵に葬り、廟号を世宗とした。
  • 己亥、胡貴嬪は皇太妃に尊ばれた。
  • 三月朔、高太后は尼とされて金墉の瑶光寺へ移され、重大な節会でないかぎり宮中へ入れなくなった。

郭祚の上表と于忠の専権

  • 北魏の左僕射郭祚は、蕭衍が河川を断って民を苦しめており、亡国の兆しがあるとして、出兵して討つべきだと上奏した。北魏は楊大眼に諸軍を督させ、荊山に鎮させた。
  • 于忠は門下と宿衛を掌握し、朝政をほぼ独占した。
  • 彼は太和年間以来の減俸を元に戻し、さらに民の絹・布に付随して課されていた綿・麻の税を廃止した。
  • 乙丑には文武百官を一級ずつ進め、広く人心を買った。

四月から五月 浮山堰の工事と氐反乱

  • 浮山堰はいったん完成したが、また決壊した。
  • 蛟龍が風雨に乗って堰を破る、鉄を嫌うという説が広まると、東西の冶で集めた大量の鉄器を沈めたが効果はなかった。
  • そこで巨木を井桁状に組み、巨石を詰めて土を盛る工法に改めた。淮水沿い百里にわたり木石を採り尽くし、担役の者は肩の皮が破れ、疫病も流行して死者が重なった。
  • 北魏の薛懐吉は沮水で叛いた氐を破った。
  • 五月、崔暹も叛氐を破って武興包囲を解いた。

六月から七月 法慶の乱

  • 冀州の僧法慶が妖術で人々を惑わし、勃海の李帰伯とともに反乱を起こした。
  • 法慶は尼の恵暉を妻とし、李帰伯を「十住菩薩・平魔軍司・定漢王」と称した。人を一人殺せば一住菩薩、十人殺せば十住菩薩としたという。
  • 彼らは「大乗」を名乗って薬を配り、服した者は親子兄弟も見分けがつかなくなり、ひたすら殺戮に走った。
  • 冀州刺史蕭宝寅が崔伯驎を遣わして討たせたが、伯驎は敗死し、賊勢はいっそう盛んになった。
  • 賊は寺を壊し、僧尼を斬り、経像を焼いて「新たな仏が出て衆魔を除く」と称した。
  • 七月丁未、北魏は元遥を征北大将軍として討伐に当たらせた。

裴植・郭祚の誅殺

  • 尚書裴植は自らの門地が王粛に劣らぬと考え、朝廷での待遇を不満としていた。議論の場では群官を面罵し、また田益宗に関する上表では華夷の差別を露骨に論じたため、于忠・元昭の激しい反感を買った。
  • 郭祚もまた于忠の専横を憎み、高陽王雍に于忠を外へ出すよう勧めていた。
  • 于忠は怒り、有司に命じて裴植らを陥れた。羊祉の告発を根拠に、皇甫仲達が裴植の指示で兵を集めて于忠を図ろうとしたとされた。
  • 八月己亥、裴植・郭祚・韋儁はともに死を賜った。韋儁は郭祚の姻族であった。
  • 于忠はさらに高陽王雍も殺そうとしたが、崔光が強く拒んだため、官を免じて王邸に帰すにとどまった。朝野の怨みは深かった。

胡太后の立后体制と霊太后の臨朝

  • 丙子、北魏では胡太妃が皇太后となり崇訓宮に居した。于忠は崇訓衛尉、劉騰は崇訓太僕、侯剛は侍中・撫軍将軍となり、いずれも太后に恩を売った者として重用された。
  • 太后の父胡国珍も光禄大夫となった。
  • 庚辰、梁に叛いた定州刺史田超秀が三千を率いて北魏へ降った。
  • 戊子、大赦。己丑、清河王懌・広平王懐・任城王澄らの官位を改め、庚寅には于忠を尚書令、崔光を車騎大将軍とし、いずれも開府儀同三司を加えた。
  • 江陽王継はかつて良民を婢として扱った罪で爵を奪われていたが、子の乂が胡太后の妹を娶っていたため、壬辰に本封へ復し、乂も通直散騎侍郎、さらにその妻は新平郡君・女侍中となった。
  • 九月乙未、胡太后はついに臨朝聴政を始めた。まだ「令」の形式を用いたが、群臣は上書で殿下と称した。
  • 太后は聡明で読書や作文を好み、弓術にも長けていたという。政務は多く自筆で裁決した。

于忠失脚と西硤石の戦況

  • 郭祚らの死後、生殺与奪はほとんど于忠の手に出るようになり、王公はみな息をひそめた。
  • 太后が親政を始めると、まず于忠から侍中・領軍・崇訓衛尉を解き、儀同三司・尚書令のみとした。
  • さらに十日余りして門下の侍官に評判を問うと、皆が「任にふさわしくない」と答えたため、于忠を都督冀・定・瀛三州諸軍事・征北大将軍・冀州刺史として外へ出した。
  • 司空の任城王澄が尚書令を兼ね、安定公胡国珍も宮中への出入りと大政参与を許された。
  • 甲寅、元遥は大乗の賊を破り、法慶とその渠帥百余人を捕えて洛陽へ首を送った。
  • 梁では趙祖悦が北魏の西硤石を襲って占拠し、寿陽を圧迫する態勢をとった。田道龍らも諸戍を分撃した。
  • これに対し北魏は崔亮を西硤石攻撃に、蕭宝寅を淮堰決壊工作に向かわせた。

冬 于忠の封賞問題と再起

  • 十月乙酉、胡国珍を中書監・儀同三司とし、侍中はそのままとした。
  • 甲午、弘化太守杜桂が郡を挙げて北魏へ降った。
  • 于忠は、自分は宣武帝から特別昇進を約され、また社稷を安定させた功があるとして、百官に賞を求めるよう促した。
  • 高陽王雍らは常山郡公への封を議したが、于忠は自分だけの受封を避けるかたちで、門下で同時に動いた者たちにも封邑を求めさせた。そのため崔光にも博平県公が加えられた。
  • だが元昭らが強く不服を唱え、太后は再議を命じた。
  • 太傅清河王懌らは、先帝崩御直後の護衛や迎立は臣下として当然の任務で、功と呼ぶべきでないと論じ、前回の議は于忠の威権を恐れて出しただけだとして、恩賞の取り消しを求めた。
  • 崔光も印綬と封土を返上する表を十数度出し、太后はこれを認めた。
  • 高陽王雍も、自分は門下から出る詔旨がすべて于忠の意のままなのを知りながら止められなかった、と自劾した。
  • 太后は于忠の保護の功だけを理由に罪を問わず、十二月辛丑にはかえって太師・領司州牧とし、ほどなく録尚書事も加えた。清河王懌・広平王懐・胡国珍とともに門下に入り政務を裁かせた。

年末 硤石・景陵・東益州・岐州の事件

  • 己酉、崔亮が硤石を囲み、趙祖悦は敗れて城に籠った。
  • 丁卯、北魏の皇帝と太后は景陵に謁した。
  • この冬は極寒で、淮水・泗水はことごとく凍り、浮山堰工事の兵は十の七、八が死んだ。
  • 北魏東益州では、清廉で民・獠に慕われていた傅豎眼の後任として元法僧が来たが、統治能力もなく貪暴であった。州の士族を兵にとり、民心を失った。
  • 葭萌の任令宗はこれに乗じて晋寿太守を殺し、城をもって梁へ降り、民・獠の多くが呼応した。梁は張斉に三万を与えて迎えさせた。
  • また岐州刺史趙王謐は暴虐で、人々を捕えて拷問し、理由もなく六人を斬ったため、城内は大騒ぎとなった。謐は楼に上って梯子を壊して自衛したが、太后が王靖を急派してなだめ、住民も門を開いて謝罪したため、謐は罷免された。
  • 胡太后は、皇帝が幼いため自ら祭祀を行おうとした。礼官は反対したが、崔光が和熹鄧太后の先例を引いたので、太后はこれを喜び、自ら祭祀を代行した。
  • 北魏南荊州刺史桓叔興は東荊州への隷属を解いてほしいと願い出て、許可された。